余談雑談(第141回)基督教
元駐タイ大使 恩田 宗
戦国時代から徳川初期にかけては欧州では大航海時代で西洋文明が直接日本に及んできた。先ず現れたのはポルトガル船で鉄砲と基督教を運んできた。鉄砲はすぐ模造して活用したが基督教は紆余曲折の末拒絶した。
イエズス会のアジア宣教は宗教改革に対抗するための一大事業でポルトガル王の厚い庇護と支援の下に行われた。日本への布教はザビエルが宣教師二人と助手数人を連れ鹿児島に上陸することで始まった。彼等は日本には万物を創造した唯一絶対の人格的存在の「カミ」を表す言葉(概念)が無かったのでラテン語の「でうす」のままで説教した。後に長崎で印刷された布教用の冊子でも重要な単語は皆原語のままである。日本人にとり基督教はそれ程異質な世界観だった。主要教理のちりんだあで(三位一体)は「御あるじでうすはぱあてれ(父)とひいりよ(子)とすぴりつさんと(精霊)と申し奉りてぺるそな(位格)は三にてましませどもすすたんしゃ(実体)と申す御しゃうたいはだだ御一たいにてまします也」と書いてある(括弧内は筆者注)。この説明を当時の日本人がどれ程理解できたのか分からないが布教は驚くほど成功した。
ザビエル来日の65年後に家康が禁教令を出したのはその教勢に脅威を感じたからである。教会200箇所、司祭130人、信者70万に達していたという。人口の約5%に及び現在の1%以下と比べ恐るべき勢であった。日本より早く布教を始めた印度セイロンでは17世紀の末になっても信者は合計で80万に留まっている。歴史書には日本は中世から近代への移行期にあり戦乱の中人々は伝統的な神仏の他に救いを求めていたからだとある。遠藤周作は、日本人が「あまりに早く基督教に感化され共鳴して」しまったのは「基督教(が)まさにその状況に即した教えだった」からだと書いている。ただ当時の日本人の中にも万能の愛の神が何故これ程長く我々日本人を見捨てて置いたのかと伴天連に聞いた人がいたらしい。宗教というものの普遍性に対する素朴な疑問の表明で今もって納得できる答を知らない。
清国ではイエズス会がカミを「天主」と訳し1715年教皇がそれに定めた。新教諸会派は「神」「上帝」「帝」と訳が分れた。日本では明治になり新教牧師のヘボン他が「神」で聖書を翻訳したが内村鑑三など多くの日本人信者は「上帝」「天父」「真神」などと色々な訳語を使い続けた。再渡来したカトリックがカミに日本語の「神」を使うようになったのは昭和の半ばになってからでザビエルから400年である。日本は欧米と価値観を共有するとしているが人権侵害と聞いて反射的に感じる義憤や怒りは欧米のそれと質や強度が違う。価値観を真に共有するにはもう少し時間が要る。
切支丹言葉では天使は「あんじゅ」で悪魔は「てんぐ(天狗)」である。天狗とは奇妙な訳に思えるがあの時代の信者に誘惑と闘う時の相手をはっきりイメージさせる為にはそう訳すしかなかったのではないだろうか。