余談雑談(第139回)思い違い
元駐タイ大使 恩田 宗
米国での心理学実験で被験者にパスの回数を数えて欲しいと言ってゴリラに扮した人を9秒間コートに紛れ込ませたバスケット試合のビデオを見せたところ半数の人がゴリラは見なかったと答えたという。ボールに気を取られゴリラの存在に気付かなかったのである。約束の場所や時間を間違えて失敗することがあるが、それも同じで、約束をしたとき他のことに気が散って注意力が散漫になっていたのである。
思い違いは知識・情報の不足からも起こる。江戸時代の人は自分が頭で考えているとは知らなかった。江戸語辞典を見ると頭という語は「頭ごなし」のように最初・先端の意味か「かしら」のように指導者の意味にしか使っていない。胸は「胸が良い(善良)」「胸晴らし(宿望の遂行)」「胸を貸す(共に考える)」とあり、腹にも「腹がある」「腹が合う」「腹を入れる」「腹をしめる」「腹いせ」などとある。胸や腹のあたりに精神が宿っていると考えていたらしい。オランダの医学書を読み自分達の考え違いを正された蘭方医達は目の覚める思いで西洋科学の力を実感したという。今の広辞苑にも「胸が痛む、裂ける、騒ぐ」「胸に聞く、納める、刻む」とあり「腹が太い、黒い、無い」「腹に納める、据えかねる」「腹を固める、探る、見抜く」などとあるが江戸時代の言葉使いを残しているからである。
タイのラーマ九世(プーミポン前国王)は壮健だった頃は頻繁に農村地帯を巡幸した。農民から大歓迎されたが自分の手に余る要望がしばしば出され困ったらしい。そんな時はどうなさるのですかと聞くと「何も言わずニコニコ微笑んでいるしかない」ということだった。国王には絶大な力があると思い込んでいて自分達の願いを直接国王に伝えることができただけで満足して喜んでいるのに敢えてそれを否定し水を掛けるようなことをするのは可哀想でできなかったらしい。思い違いをされたときはすぐに否定や弁解をしないのも一つの遣り方かもしれない。取りあえずの困惑・羞恥・失望・落胆を回避しその後も双方にとり実害が限定的であることが多いからである。
勿論、思い違いされそうになったらすぐ修正すべき場合もある。富士山の山梨側の自然林は道路脇まで伸びている。そこからの自殺者の入り込みを防ぐため「待てしばし、死ぬ気になれば何でもできる」という立て札を置いたことがある。しかし置き場所が難しく入るべきか逡巡して戻りかけた自殺者がそれを読むと逆に森に押しやってしまうかもしれないと指摘されすぐ撤去したらしい。
七夕には牽牛が織女に遭うため天の川を船で渡るものと思っている人が多い。しかし元の中国の伝説では二人は一緒に住むのを禁じられた夫婦で年に一度カササギがかける橋を織女が渡って牽牛の所に行くという。この思い違いが生じたのは万葉の歌人達が大河に橋は無く夫が妻問いをしていた日本の実情からして牽牛の船での渡河をイメージし数多くの和歌(130余首)を詠んだからだという。同時代の「懐風藻」の漢詩人達は織女が橋を渡ることを想定して作詩している。同じ日本人でも漢詩人は中国についてかなりの知識・情報を持っていたのである。