余談雑談(第137回)笑顔とユーモア
元駐タイ大使 恩田 宗
大江健三郎は、老人が悲しい顔をしているのは将来をいくら憂えても自分ではどうしようもないからだ、 と書いている。老人は表情が硬く笑顔も少ないが悲しんでいる訳ではない。笑顔を見せれば相手から好意的な反応が得られる。皆そうして生きている。老人がそうしないのは頬の筋肉が衰えたためかそれを煩わしく思うようになったかである。
笑顔は人類が進化の過程で獲得した生存に有用な手段である。無防備で養育者を必要とする嬰児は本能的に笑顔をふりまく。新生児は終始まどろんでいるが時々1~2秒の反射的笑みを見せる。ある研究によれば胎児は出生の1~2月前から子宮の中で笑顔の練習をしているらしい。生後2ケ月すると声などの刺激に応じて微笑み4ヶ月になれば相手を見て笑うようになる。母親は母性本能を刺激され母乳の出も多くなるらしい。母親でなくても可愛いがり抱きたくなる。6歳にもなると見せかけの笑顔もするようになる。
子供も利用する笑顔を政治家が政治目的に使うようになったのは比較的最近らしい。「微笑みのたくらみ」 (M・ラフランス) によると、合衆国初期の大統領は重大な職務を意識し公衆の前では決して笑顔を見せなかったという。自分の笑顔を国民に印象づけようと本格的に努力し始めたのはルーズべルトで以来立派な歯を顔いっぱい見せて笑うオバマまで歴代同様だという。魅力ある笑顔のケネディーに敗れたニクソンはどうすれぱ満足な笑顔を作れるか悩んだらしい。フォードも不器用で才気ある人ではなかったが「私はフォード(一般車) でリンカーン (高級車) ではない」 とユーモアで聴衆を笑わせていた。
日本の侍は諺にある「男は三年に片頬」の通りあまり笑わなかった。微笑みも公の場では不謹慎とされ今もって政治家に笑顔のいい人は少ない。面子を重んじ対立を表面化させぬよう互いに自制するので緊張をほぐすに便利なユーモアも発達しなかった。ユーモアは穏やかに見えても人を深く傷つけ得る。自分を含む人間の愚かさを笑うにしてもその愚かさを許す宥和で広い心も必要である。真面目一方の曰本人はあまり得意としない。
2002年1月、 田中真紀子外相が国会で追求され涙を流したことがある。それを小泉首相は「涙は女の最大の武器、男は太刀打ち出来ない」とコメントした。野党は女性差別発言だと問題にして女牲閣僚達にどう思うかと迫った。川口順子環境相は「素晴らしい男性の前で涙を流し女性の武器だと言われてみたい」とかわし議場を笑いで沸かせた。然し野党にはこの機知あるユーモアを全員で笑って評価する心の広さはなかったようである。
(注)このホームページに掲載された「余談雑談」の最初の100回分は、『大使館の庭』と題する一冊の書籍(2022年4月発行、ロギカ書房)にまとめてあります。