余談雑談(第136回)日本語の話し言葉
元駐タイ大使 恩田 宗
大分前のことになるが、上品な日本語を話すタイの老婦人に会い日本語はこんなに奇麗で品格ある言葉だったのかと驚かされたことがある。資産家の家に生まれ昭和の始め日本の上流家庭に預けられ教育されたのだとぃいう。感じたままに讃嘆すると日本語を話す時は緊張しますと言って微笑んだ。
現代曰本語は明治になり創られたもので欧米の言語と異なり書き言葉と話し言葉がまだ大きく違う。 書き言葉は主に小説家の努力により表現力あるものに練り上げられてきた。丸谷才一は日本語の散文は公的なものには向かないが個人的・感情的なことを表現する手段として確立しつつあると言う。現に日本の現代小説は広く世界で読まれている。話し言葉は東京山の手の言葉を標準とすると決めたままそれを言語として整え磨く組織的努力をしてこなかった。日本人の国際的活躍が少ないのは語学力不足もあるが話し方が下手で論理的に自己主張できないからだと思う。
日本人と英米人の話し方を戯曲で大雑っぱに比べると後者は整った文で話すが日本人の会話文は崩れてぃる。 「わ、 よ、 ね」 や 「ん」 を多用し 「ちゃう」 「知ってる? これ。」 「ですけど・・・。」 と破れた文体で話す。抽象的単語の使用を控え堅い議論にならないよう気を配る。日常の意思疎通は過不足なく円滑にできるが理詰めの討論には向かない。講演なども速記録を見ると余計な言葉が多く混じり文が乱れてぃる。能弁な人ほど話す文章は不完全で屡々非論理的でもあるという。
古代ギリシャでは政治も学間も広場での対話で進めた。その伝統を継ぎ欧米の民主政治の基本は公開討論であり市民の弁論能力は高い。曰本語では相手やその場の雰囲気で言葉を選ぶ必要があり明快で理路整然とした文章で話し続けるには神経を使い気が疲れる。そうした口のきき方は一般に好まれず普段そうしていないからである。日本人の弁論能力を高めるには日本語の話し言葉自体を論理的で 表現力があり使い易いものに整備し錬磨していく必要がある。それには子供の時から整った文で話す習慣をつけるため家庭や学校での教育から変えなければならなぃ。
谷崎潤一郎は悲しみ喜びの輪郭を明確に書くことは不可能だと説いた。色彩は何万と識別できるが色名単語数は二桁である。単語を増やしてもその組み合せで森羅万象は表せない。言語は不便な道具である。慣れた言葉でも奇麗に話すには緊張して当然である。
コロナ危機でmaskneという単語が生まれた。マスクの着用で口の周囲に生じるニキビのことだという。 冷戦が生んだオーバーキルなどという恐ろしい言葉に比べ微笑ましい。
(注)このホームページに掲載された「余談雑談」の最初の100回分は、『大使館の庭』と題する一冊の書籍(2022年4月発行、ロギカ書房)にまとめてあります。