ロシアは、なぜウクライナに侵攻したのか


元駐ウクライナ大使 角 茂樹

1.ロシアの侵略
 2022年2月24日未明、ロシア軍は突如ウクライナに対して巡航ミサイルを発射し、国境を越えてウクライナ領内になだれ込んだ。これに対し、ウクライナ国民は一瞬怯えおののいたものの、愛国心とロシアに対する憎悪に燃え国を挙げて抗戦。簡単にウクライナ軍を壊滅できると踏んだプーチン大統領の予想に反し、ウクライナ軍はロシア軍に対して善戦し、戦局は長期戦の様相を呈してきている。

2.プーチン論文の欺瞞
 これに先立つ2021年7月、プーチン大統領は「ロシアとウクライナの歴史的一体性」と題する論文を発表し、ロシアとウクライナは民族的にも歴史的にも宗教的にも言語的にも一つの人々であって、これを割こうとするのは、米国とEUそしてそれに乗せられた間違ったウクライナの指導者であると論じ、ウクライナの主権はロシアのパートナーシップの範囲内でのみ存続するという結論を導き出している。ウクライナは、その栄光ある歴史を9世紀から12世紀にかけて欧州最大の公国として栄えたキエフを首都とするキエフ・ルーシー公国に求める。それが13世紀にモンゴルの襲来により崩壊。以後14世紀から18世紀にかけてウクライナの地の大部分は、ポーランド・リトアニアの影響下に置かれる。ロシアがウクライナに進出してきたのは、17世紀末のピョートル帝の時代であって、ロシアが現在のウクライナの大部分を領土に加えるのは、18世紀にポーランド分割を行ったエカテリーナ帝の時代に過ぎない。プーチン論文は、ウクライナとロシア双方の始まりをキエフ・ルーシー公国に求め、その後この公国がモスクワを中心とする東ルーシーとポーランド・リトアニアの支配下に置かれた西ルーシーに分かれた後、ピョートル帝によって再統一されたとの史観をとる。ウクライナ人からしてみれば、後にロシアを名乗るモスクワ公国とキエフ・ルーシー公国は全く別の存在であって、同根の歴史を有するとするプーチンの歴史観は全く受け入れられないのである。また、プーチンは、クリミアはロシアの固有の領土などと説明しているが、クリミアがロシアの領土に併合されたのは、18世紀の後半のロシアとオスマントルコとの戦争の結果に過ぎない。さらにプーチン論文は、ウクライナ語とロシア語は、古ロシア語として同じルーツを持つとしているが、ウクライナは、上述のごとく長い間、ポーランドの影響下にあったことからウクライナ語は言語としてもむしろポーランド語に近い響きを有する。宗教的にも、確かに10世紀にキエフ・ルーシー公国のウラジミール大公がビザンチン帝国よりキリスト教を受け入れ、それがその後モスクワ公国そしてロシアに伝播したことは事実であるが、キエフにあった正教会は、モンゴル及びポーランドの影響下にあってもコンスタンチノープルの管轄下にある組織として存続していたのであって、モスクワの総主教聖庁の基に置かれることになったのは、17世紀の末の事である。又ポーランドの影響下にあった西部には、ギリシャ・カトリック教会という儀式・典礼は正教会を踏襲しつつもローマ教皇の首位権を認めるという大きな勢力があり、さらには後述するが1991年の独立後には、ウクライナの正教会内部においてもモスクワ総主教聖庁から独立したキエフを中心とするウクライナ正教会が樹立されている。従ってプーチン論文にある宗教的、精神的一体性が両国に存在するなど妄想に過ぎない。

17-18世紀のウクライナ(ロシアにより段階的に併合された)

3.ウクライナが受けたロシアよりの弾圧
 第一次大戦中の1917年、ロシア帝国が崩壊するとウクライナにおいて独立運動が各地で起こったが、結局赤軍に鎮圧される。1920年代の後半から1933年にかけては、スターリンがウクライナにおいて行った無理な集団農業化の失敗と食料の収奪によりホロドモールと呼ばれる大飢饉が発生し、400万人ともいえるウクライナ人が餓死した。第二次大戦中は、ナチスドイツとソ連両軍の激戦地となり大きな被害が発生する。この時、西部ガリツイア地方を中心にステファン・バンデーラという独立運動指導者が、当初はナチスドイツの力を借りて、その後はナチスと対立して、ナチスドイツが崩れ去った後は独力でソ連に対して独立運動を継続する。この運動に対するソ連の弾圧は、すさまじく運動の拠点であったガリツイア地方から多くのウクライナ人が国を追われ、カナダその他の国に移住する。プーチンがウクライナにおけるネオナチと呼んで嫌悪する勢力とは、バンデーラに代表される反ロシア的民族主義者を指す。ソ連の弾圧はこの地方の精神的支柱であったギリシャ・カトリック教会にも向けられ、多くの教会が破壊され、神父、修道者が殺害された。ギリシャ・カトリック教会がウクライナで存在を認められるのは、教皇ヨハネス・パウロ2世がゴルバチョフの了承を取り付けた1988年まで待たなくてはならない。

4.独立後のアイデンティティの模索
 1991年にウクライナは平和裏に独立を達成する。独立は達成したものの東部には、ロシア語を母語とする住民が、また西部には、独立運動を主導してきたウクライナ語を話す住民がおり、そのうえ東部の工業地帯の製品が売れる市場といえばロシアしかなかった。また、ウクライナにとって重要な天然ガスは、ロシアから市場価格に比べて安価に提供されているという事情もあった。独立後の15年間は、こうした親ロシア派と親西欧派という国内のバランスを保つうえで歴代大統領は、歴史的にソ連時代に起こった微妙な問題を封印し続けたのである。1994年には、米、英、ロシア、ウクライナの間でウクライナが核兵器を放棄する見返りとしてウクライナの安全保障を約束した合意が結ばれる。世にいうブタペスト合意である。この合意に基づけば、ロシアが現在行っていることは論外としても、米国と英国はウクライナの安全を保障する義務を負っているのであって今日の両国のウクライナ支援はすこぶる不十分なものと言わざるを得ない。
 2004年のオレンジ革命を経て成立したユーシチェンコ大統領は、親西洋政策をとる。プーチンが大ロシア再建を顕実化させる時期と重なり両国の関係は緊張をはらんだものとなっていった。これまでタブーであった、ホロドモールが公に語られ、その慰霊碑が建てられた。ロシアがネオナチとして忌み嫌うバンデーラを称える銅像が西部を中心に立てられたのもこの時期である。2008年にはウクライナはジョージアとともにNATO加盟を申請し、将来の加盟国としての地位を得る。これは、具体的な加盟のためのロードマップまでは作らないものの、将来の事であるとしながらも原則としてNATOがウクライナまで拡大することを認めたことを意味する。この決定に際して、米国はウクライナのNATO加盟を後押ししたものの、ドイツ、フランスがロシアの反応を懸念して慎重論を展開した。ウクライナ国内においても最高会議において親ロシア勢力がウクライナのNATO参加に反対し混乱が続いた。それでもロシアは、この決定に怒った。ロシアは、ウクライナに供給する天然ガス価格の大幅な値上げを通告し、ロシアと欧州をつなぐ天然ガスパイプラインの輸送が止まり、ロシアよりのガス供給を受ける欧州は大騒ぎとなった。

5.ウクライナを失ったプーチン
 2014年、親ロシア政権とみられていたヤヌコビッチ大統領がユーロマイダン革命により失脚する。前年の12月EUとの間で締結が決まっていた経済連携協定(ウクライナからEUに無関税で製品を輸出できるものでありEU加盟の第一歩とみなされた)締結をヤヌコビッチが突然破棄した事に怒った大規模な反ヤヌコビッチ抗議デモがキエフにおいて発生したことによる。ヤヌコビッチが、なぜEUとの協定締結を破棄したかというと、同時期にプーチンがロシアにベラルーシ、カザフスタンといった国を加えたユーロシア経済連携を立ち上げており、それにウクライナを加盟させたかったからである。ロシアは、多額の資金援助と債務帳消しをちらつかせウクライナにEUとの協定の破棄を迫ったのである。ヤヌコビッチの逃亡後ウクライナにおいて親西洋政権の誕生が止められないと見たプーチンは、クリミアを併合。ドンバス地方における親ロシア派グループによる反政府運動を支援するとして軍事介入を行い、ウクライナ側に多くの死傷者を生んだ。
 この時、ロシア国内においては、自国の軍隊にほとんど被害を出さずにクリミアを取り戻したとしてプーチンの人気は高まったが、ウクライナ人が受けた衝撃は大きかった。これまでロシアを兄弟国と信じてきた東部のロシア語を話す住民がそのロシアによって殺され、家を失い難民となったのである。私がキエフ在勤中に親しくしていたEU大使は、この時の状況を次の取り話してくれた。
 「2015年4月、私は、マリオポリを訪問し、ロシア軍の砲撃により多くの子供がなくなった学校を訪問しました。その後の会合で一人の婦人がマイクに向かってこう述べました。『私は、マリオポリの教師です。ソ連時代に生まれ育った人間です。本日に至るまでEUが私たちをロシアの攻撃から守ってくれることに感謝の意を述べる日が来ることは予想もしませんでした。』 教師の目には、涙もなく感情もあらわさずただ短い言葉を述べただけでした。私は、この婦人にはロシア側に多くの親戚がおり、ロシアのTVを毎日見、ロシア語のみ話す生活があったことを思うと言葉を発することもできず重い沈黙の時だけが流れました。毎日のようにロシアによる攻撃と虚偽のプロパガンダを受けた人々がウクライナ政府の強要を受けたわけでもなく、自然の選択としてロシアとの決別を誓ったのです。」
 私も2014年から2019年のウクライナ在勤中に東部に頻繁に出張し、日本の援助によって修復された家屋、図書館、学校を見て回りながら住民と親しく話しあう機会に恵まれたが、ロシアから受けた仕打ちを呪詛する場にたびたび遭遇した。プーチンは、2014年の段階で既にウクライナを永遠に失ったのである。

ルハンスク州クレミンナ市第2小学校の生徒達との写真(2016年8月撮影)

6.ポロシェンコ大統領による脱ロシア政策の推進
 ウクライナは、4000万人を超える人口と欧州最大の面積を誇る国である。汚職の問題、オリガーヒといわれる人々の支配といった難しい問題を抱える国を統治するのは並大抵のことではない。しかし2014年のロシアの侵略は、それまで親ロシア派と親西欧派の間で揺れ動いていたウクライナにウクライナ人としての誇りとEUとNATO加盟にこそウクライナの将来があるという国民の意思統一を生んだ。2014年に大統領に就任したポロシェンコは、ロシアが占領したドンバスの回復のためオーランド大統領、メルケル首相の助けを借りてミンスク合意1と2を結ぶが、ドンバス地方に特別な地位を与えるとの条項について、またこの地方における住民選挙の方法についてウクライナ最高会議の反対もあり進捗は見られず、東部の停戦ラインを挟んでのロシアとウクライナ側双方による砲撃は継続した。一方でEUとは、あれほどプーチンが反対した経済連携協定を結び、経済的にもロシア離れとEU接近が次々と起こっていった。2014年にはロシアのとの間で25パーセントを占めていたウクライナの貿易量は、2021年には7パーセントにまで低下した。キエフにおいては、メルケル首相の音頭により日本を含むG7大使がウクライナ支援グループを形成し、ウクライナのEU加盟準備と経済改革を支援した。汚職防止機関が設立され、オリガーヒの経済支配を制限する法律、国営企業の民営化が次々と打ち出された。2017年になると、EUとウクライナの間で短期滞在の査証免除が成立し、多くのウクライナ人がEUを訪れるようになった。ウクライナ人は経済的に繫栄し民主主義と自由を謳歌するEUにこそウクライナの将来があることを庶民までが確信している。
 NATOによるウクライナ軍の訓練も始まった。米国その他から多くの軍事顧問団がウクライナ軍の再建に尽力し、ウクライナ軍は著しく強化された。
 2019年1月には、ポロシェンコ大統領がかねて熱心に取り組んでいたウクライナ正教会をモスクワのキリル・モスクワ総主教聖庁より独立させることに成功する。コンスタンチノープルのバーソロミュー全地総主教がそれを公に認めたのである。正教会を通じたロシアとウクライナの一体性を主張するプーチンとキリル・モスクワ総主教にとって大きな打撃である。これに怒ったモスクワ総主教は、コンスタンチノープル全地総主教との関係を事実上断絶した。同年2月にはウクライナ憲法が改正され、EUと NATO加盟がウクライナ憲法に明記される。3月に大統領選が行われポロシェンコとゼレンスキーの間で大統領選が戦われるがもはや親ロシアか親西洋かといった問題は争点とならず、どちらもEU加盟、NATO加盟を目標に掲げ選挙運動を行った

7.ゼレンスキー大統領
 2019年3月圧倒的支持を受けてゼレンスキーが大統領に当選した。2018年秋以降急速にゼレンスキーの名が大統領候補として上った時には、まさか政治経験の全くない俳優が大統領になるとは予想だにしなかった。私は、ウクライナにおいては、ゼレンスキーに会ったことはなく、今上天皇の即位の礼に参列するために訪れた際、接伴員として羽田と成田で挨拶をした事があるくらいである。その時の印象は、大統領と俳優の両側面が同居した人物といったものであった。ゼレンスキーは、当初ロシアとの和平合意を目指し、2019年7月にはプーチンとの電話会談、12月にはパリにおいてメルケル、マクロンとともにプーチンとの会談に臨む(ノルマンデイー・フォーマット)。この過程で、ゼレンスキーは10月にロシアとの交渉に柔軟さが必要との見解を示すプランを発表するが国内から非難を受け、又プーチンとの話し合いにおいても解決の糸口は見えず外交の難しさを知ることになる。
 2020年になると、前年成立していた言語法が移行期間を経て実行に移される。ウクライナ語の公用語化をはじめ中高における授業のウクライナ語化である。これは、ロシア語の使用制限をも意味するので、ウクライナのロシア語離れにつながる。2021年、米国にバイデン政権が誕生する。バイデン大統領は、オバマ大統領の副大統領としてたびたびウクライナを訪れており、ウクライナ問題に全く関心のなかったトランプ大統領に比べウクライナを熟知する大統領の誕生は、ウクライナにおいて歓迎された。2021年5月には、ロシア系TV局がロシアのプロパガンダとなっている事を理由に閉鎖される。又、同時期にプーチンが娘のなづけ親(ゴッドファーザー)となっている新ロシア派の巨頭メドベチュークが自宅拘禁となる。7月には、先住民族法が制定され、タタール人をはじめとする少数民族の文化、言語の保障が確保されるが、そこにはロシア語の保障はなかった。8月には各国の首脳をも交えたクリミア解放国際会議が開始され、10月にはトルコより供与された攻撃用ドローンによる攻撃が親ロシア勢力に対して行われ、その威力が映像で世界に発信された。
 こうした一連の動きをプーチンがいかに苦々しく見ていたかは、想像に難くない。プーチンにしてみればウクライナが軍事的にも経済的にも強力となれば、クリミア及びドンバス解放に軍事的に乗り出すとの焦りがあったのだろう。国際関係の専門家と称する人たちの中には、ゼレンスキーがロシア離れを急ぎすぎたとの批判があるが、ウクライナ国民の民意がそこにある以上当然の政策であった。ウクライナは、民主的な独立主権国である。

8.日本の役割
 日本にとってウクライナは遠い国である。近年、矢崎、フジクラ、住友が進出し、ワイヤーハーネス工場を設立するまでは、日本たばこの直接投資しかなかった。2014年のクリミア違法併合及びドンバスにおけるロシアの軍事侵攻を受けて、ロシアは、G8から排除されるとともにウクライナ対処は、G7でまとまって行うという慣行が生まれた。2015年のドイツ・エルマイユ・サミットにおいてメルケル首相のイニシャチブによりキエフにおいてG7大使によるウクライナ支援グループが設立されたことは、G7の間の結束を著しく強化した。日本は、2016年にG7議長国を務めたため、私もキエフにおいてG7大使とポロシェンコ大統領、ヤツニューク首相との会談を頻繁にアレンジしたので多忙であったが、ウクライナにおける日本の存在はいやがうえにも高まった。私がキエフ市内を散歩していると、面識のない市民から感謝の言葉がかけられたのもこの時である。このグループのおかげでG7の各国がどのようなウクライナ支援を行っているか情報が共有され、場合によっては調整もできる。日本は、ウクライナ警察に1800両の警察車両を提供したが、その時期がEUの指導による警察官の汚職防止プロジェクトと重なったので、新生ウクライナ警察のシンボルとしてトヨタプリウスと三菱アウトランダーがウクライナ中を走りまわったのはその一例である。ウクライナにおいてG7大使、館員の関係は極めて緊密であり、今日のロシアの蛮行に対してG7が結束して当たれるのもキエフにおけるG7の活動があったからと自負している。本年3月23日ゼレンスキー大統領は、日本の国会で演説を行い、その中で戦後の復興における日本の支援に期待を表明した。その意図するところは、第2次大戦後の米国が日本に対して行ったドッジプランのような復興プランを作成して欲しいという事である。今からでも日本政府はそのようなプランの作成にG7と共同して取り掛かってはどうであろうか。日本はウクライナに対しこれまで3000億円を超える経済支援を行っており、ウクライナにあって日本は主要な援助国なのである。

9.ロシアによるウクライナ侵略
 2022年2月24日未明、世界を震撼させたロシアによるウクライナ侵略が発生する。その一日前までキエフの壮麗なオペラ座では予定通りバレエとオペラの上演が行われ人々の喝さいを浴びていた。ロシア軍による無実の市民に対する無差別な攻撃とウクライナ軍による抵抗の強さは世界に発信された。本年1月、ロシアのウクライナ攻撃が現実味を帯びるにしたがってウクライナ国内においてロシアとの関係の悪化は外交の失敗であるとしてゼレンスキーの支持率は極端に低下した。しかし、戦争がはじまると先頭に立ってウクライナ国民を鼓舞するゼレンスキーの支持率は9割に達し、国際社会もロシア非難とウクライナ支援一色となった。日本国内においては、国際問題の専門家と称する人の中に、ウクライナはロシアと西欧との間にあって中立な緩衝地帯となるべきであったと論じ、ロシアの言い分に一理あるなどという人がいるが、そのような意見は全く受け入れられない。これまで述べたように、ウクライナの人々は、常にロシアと欧州のはざまにあって長い間苦しみの歴史を耐えてきた人々である。その人たちが欧州の一カ国として生きようとの決意を否定することを軽々しく言うべきではない。そもそも今回の原因はロシアにすべてある。言論の自由も民主主義もなく、経済的には韓国、スペインよりも少ないGDPしか持たない国に誰が魅力を感じるであろうか。ウクライナには、民主主義が根付いているのだ。そのロシアがウクライナに侵略し多くの死傷者と難民を生んだのである。ウクライナが白旗を掲げることによりこれ以上の死傷者を生むべきでないとの意見もあるが、このことも軽々に言うべきではない。今回のロシアの行動は、いかなる理由を持っても正当化できない。ロシアのこの暴挙を止めなければ国際社会の正義と秩序は保たれないことは、自明である。現在ウクライナで起こっているロシアの蛮行は、すべてプーチン大統領の誤った先入観と間違った信念そしてゼレンスキー大統領に対する個人的な嫌悪感がなせる技である。プーチンの頭には、大ロシア再建のためは、ロシア発祥の地(とロシアは考える)ウクライナがロシアの影響下にあることが不可欠であり、そうであればウクライナ人もそれを望んでいるのであって、それは、ゼレンスキーという反ロシア主義者を排除すれば達成できるという理想とそうではない現実がごっちゃ混ぜになっているのであろう。今回のプーチンによるウクライナ侵攻は、その非合理性からそうとしか説明できない。私の知っているウクライナの人たちは、花屋のおばさん、日曜日の教会のミサでいつも席取りをしてくれたご婦人たち、そしてオペラ座のコートチェックを笑顔で取り仕切ってくれ人、本当に親切な人たちであった。この人たちの幸せな生活が今回の蛮行で一瞬のうちに失われたと思うと心が痛む。ロシアにもきっと善意の人がたくさんいるのであろう。この人たちがウクライナで起こって状況の実態を知れば、必ずや戦争を止めるという運動に繋がり、それが大きなうねりとなることを私は信じたい。