ロシアによるウクライナ侵略とフィンランド
元駐フィンランド大使 篠田研次
2022年2月24日、ロシアが隣国ウクライナに軍事侵攻した。それは、如何なる国際法規をもってしても正当化されない、何らの大義も正統性もない、あからさまな侵略行為であった。その日、1300km余りの陸上国境を挟んでロシアと接している隣国フィンランドの多くの人々は身震いし、そして、ウクライナの惨状を、80年余り前の1939年11月30日、突如ソ連軍がカレリア地峡の国境線を越えて侵攻してきた「冬戦争」の勃発というかつて自国に降りかかった惨禍と重ね合わせて見たのではないか。ロシアがまた、隣国に対し自らの意思を通すために武力に訴えるという挙に出ることもあるかもしれないと薄々予想しつつも決して見たくないと思っていた事態が現実のものとなってしまった。フィンランドの人々にとってはそのような既視感の入り交じった衝撃的な出来事であったのではないかと思われる。
2017年に独立100周年を迎えたばかりのフィンランドは、自国の安全と生存に多大の影響を及ぼしかねない国際環境の大変動に何度か見舞われてきたが、衝撃度という意味において今回の事態は最大の部類に入るのではなかろうか。これまでフィンランドは、巧みな外交と精強な国防体制、そして迅速な対応で、その都度独立と国家体制を守り抜いてきた。今般、新たな危機的状況に直面して、フィンランドの動きはこれまでと同様に、或いはそれ以上に素早いものであった。これまで維持してきた軍事的非同盟政策を長い歴史の中では瞬時に変更し、NATO加盟へと舵を切ったことは象徴的なことであった。しかし、それは言わば「熟柿が落ちる」が如くなされた政策決定であり、2月24日の大規模なロシアのウクライナ軍事侵攻は、そのことを促す「最後のひと突き」であったとも思われるのである。
ここに至るフィンランドの来し方を暫し振り返ってみたい。
フィンランドとロシア
フィンランドは、数世紀に亘りスウェーデンの統治下にあり、続く一世紀を帝政ロシアの一部となる運命を辿った後に、1917年のロシア革命の最中に独立を果たし、今からほんの数年前に独立100周年を迎えた若い国である。よく指摘されることであるが、フィンランドの独立の機運を醸成することとなった一つの要素として、日露戦争における日本の勝利があった。極東の新興国である日本が帝国ロシアを打ち破ったことが、自分たちもできるのではないかという気持ちをフィンランド人に抱かせることになった、という訳である。フィンランドの人々のレーダースクリーンにこれまで意識しなかった極東の小国「日本」という点が、ポンと乗ってきた瞬間であったのかもしれない。2012年から2016年にかけてヘルシンキに駐在していた際に、筆者自身、フィンランドの友人たちからよく言われたことがある。「フィンランドと日本は殆ど隣国だ。間に「小さな国」が一つあるだけだ」と。フィンランドの人達の日本を眺める心象風景に「ロシア」という地政学的要素が常に介在しているように感じられるところであった。日露戦争を通じて日本を意識し始め、第二次世界大戦中の「冬戦争」「継続戦争」というソ連軍との激戦の末に多くの国土を失い、その後も長く1300kmの陸上国境でソ連、ロシアと対峙し、常にその巨大な隣国との関係に腐心せざるを得ない日々を送ってきたフィンランド、そして、第二次大戦後もソ連軍の侵入を受け今も北方領土問題を抱える日本。フィンランド人と日本人の間には、自覚的であるかどうかは別として、このロシアを東と西から挟み込んでいる関係にあるという共通の意識が底流としてあるのではないかと思わせる経験であった。
「国境」というものが規定し、或いは、国境地域にもたらす様々な状況、影響、事象を調査し研究する「国境学」(border studies)というのが日本でも一つの学問の領域として近年定着してきているようだが、フィンランドの場合、この1300kmに亘るロシアとの陸上国境の存在が、人々の内なる心理、そして、その安全保障観、ひいては国家観そのものに甚大な影響を与えてきていることは間違いないと思われる。筆者は、在任中、北はNATOとロシアが直接対峙するノルウェー・ロシア国境から南のフィンランド湾における海上国境に至る数カ所のノルウェー側及びフィンランド側の主要な国境通過地点を視察に訪れ、それぞれの地点における状況と空気感をつぶさに見聞する機会に恵まれ、現地の国境警備隊幹部との意見交換も行うことができた。遡って筆者が駆け出しの外交官であった1980年代初頭のソ連時代に、フィン・ソ国境をソ連側から列車で通過した際の風景と雰囲気も未だに記憶に残っている。21世紀の国境は、ソ連軍と直接対峙していた往時のピリピリした緊張感は和らいでおり、犯罪やテロの防止といった共通の関心事もあり、両国国境警備隊間の実務的協力は相当進んでいるようでもあったが、フィンランド側においては一貫して決して警戒感を緩めてはいないことが窺えた。
尤も、ソ連時代と異なり、出入国管理の窓口にはロシア側から買い物客や観光客が殺到して長い列ができていたのが印象的であったし、フィンランドとノルウェーの側からは国境を越えてロシアに安いガソリンを買いに行く人が目立った。2014年のロシアによるクリミア「併合」の前年、2013年の1月初めの一週間には、ロシアのクリスマス休暇を利用して約50万人のロシア人がフィンランドを訪れたと言われていた。人口500数十万のフィンランドに一週間に50万人のロシア人が殺到したわけである。特に、ヘルシンキ一番の繁華街エスプラナーディ通り界隈はロシア人の買い物客、観光客で溢れ、筆者もそのあたりを歩いているとロシア人の海の中を泳いでいるような感覚に陥ったものである。ロシアに早くから進出していたフィンランド最大手のストックマン・デパートの本店はその通りの一角を占めていたが、ロシア通貨であるルーブルによる直接支払いを認めたのもその頃であった。フィンランドの人達はよく言っていた。「ロシア人は、昔は戦車でやって来たものだが、今はベンツに乗ってやって来る」と。そして、今、ロシアは再び本当に戦車に乗り換えてウクライナにやって来た。「次は・・・」という気持ちは理解できる。
ソ連との二つの戦争:冬戦争と継続戦争
1939年秋、独ソのポーランド侵攻で幕を開けた第二次世界大戦は、ヒトラーのナチス・ドイツとスターリンのソ連に挟まれたフィンランドに、独ソ両国の力関係の変化によりその都度揺り動かされ苦悶せざるを得ない試練を与えた。独ソ不可侵条約に付属する秘密議定書において、フィンランドがバルト三国と共にソ連の勢力圏に置かれることが確認されていたことはよく知られている。当時のソ連のドイツに対する不信感は強かったのであろう。フィンランドに対し相互援助条約の締結を求めたり、一連の領土的要求を行なったりしたのも、ドイツがフィンランドを通過してレニングラード(現在のサンクトペテルブルグ)方面に侵攻してくることを恐れたものと思われる。事態を交渉により解決しようとする努力は実ることはなかった。
1939年11月30日の朝、ソ連はレニングラード北方30km余りのカレリア地峡を走る国境線を越えて突如軍事侵攻する。第一次フィン・ソ戦争、即ち、「冬戦争」の勃発である。翌12月1日、ソ連は侵攻と同時に占領したカレリア地方の国境の町テリヨキに「フィンランド人民政府」と称する傀儡政権を誕生させ、この政権が率いる「フィンランド民主共和国」との間で直ちに相互援助条約を締結した。今日、フィンランドの人々は、このようなソ連の手法と、ロシアが軍事侵攻の序曲としてウクライナで見せた「ルハンスク人民共和国」や「ドネツク人民共和国」の「承認」と「友好協力相互支援協定の締結」という事の運び方とを重ね合わせて見ているのではなかろうか。
今ひとつ今日のウクライナの状況を観察していて強く類似性を感じるのが、粘り強い抵抗により各地でソ連軍の前進を食い止めたフィンランド軍の善戦である。当時、これを見て国際社会は驚き、賞賛したと伝えられている。恐らくソ連側が、戦場における地理や気象状況の綿密な把握を怠ったことに加えて、短期間のうちにフィンランドを占領できるであろうと、フィンランド軍の準備と巧みな戦術、そして侵略を受けた側の兵士の士気を過小評価したことが一因であろう。ソ連側は、短期決戦で勝利するとの計画を断念し、戦術の大幅な変更を余儀なくされ、「フィンランド人民政府」ならぬフィンランド正統政府を交渉相手とせざるを得ないことになる。そしてそのことが、翌1940年3月の休戦条約、更には講和条約に繋がっていくことになるのである。「冬戦争」によって領土の割譲を含めフィンランドの喪失したものは誠に大きかったが、国家の独立と主権は死守されたのである。
「冬戦争」終結後も、フィンランドを取り巻く状況は引き続き厳しいものがあった。欧州大陸はほぼドイツに制圧され、一方、バルト三国はソ連に併合されることになる。このような独ソの勢力バランスの下で、フィンランドはドイツに接近・協力することを現実的政策として選択し、そして、1941年6月の独ソ戦の開始とともに第二次フィン・ソ戦争に突入する。「冬戦争」での失地の回復を目的に掲げてのこの戦争はそれ故に「継続戦争」と呼ばれることになる。フィンランド政府は、この戦争はあくまでソ連の侵略に対する自衛の戦争であり(現にドイツ軍の進駐しているフィンランド領土各地を先に爆撃したのはソ連軍であった)、独ソ戦とは別個の戦争であるとの建前を維持し、実際にドイツが強く求めていたレニングラード包囲戦への直接的参加を拒否し続けた。尤も、実質的にはドイツと様々な協力を進めつつ、「共に」対ソ戦に臨んでいたことは否めない。当初フィンランド軍は順調に進軍を続け、9月には「冬戦争」で失った領土の奪還に成功し、更に進軍を続ける。この頃フィンランド側には、実際問題としてドイツとの協力の他に選択肢はなかったのであろうと思われるが、ソ連がドイツに敗北すること、場合によっては独ソの共倒れの可能性に期待する向きもあったのではないかと推察される。
だが、事態はフィンランドにとり暗転する。1943年2月にドイツ軍はスターリングラードでソ連軍に大敗し、戦局がソ連有利に大きく転換した。ここでのフィンランド指導者の動きも現実的で素早いものであった。戦争からの早期離脱の模索である。戦場で攻勢を強めるソ連と、フィン・ソ単独講和阻止を目指すドイツとの間に挟まれ、フィンランドは苦悶することになるが、紆余曲折の後、1944年9月にソ連との休戦条約にこぎつけることになる。休戦条約の内容は、1947年のパリ講和条約で確定することになるが、これによりフィンランドは「冬戦争」で失った領土を含め国土の10分の1を割譲するなど一連の極めて厳しい義務を負うこととなった。
この「継続戦争」をテーマとするフィンランド映画がある。独立100周年の2017年に公開され、多くのフィンランド人が劇場に足を運び、国際的にも話題となった「アンノウンソルジャー 英雄なき戦場(邦題)/The Unknown Soldier(英語題名)」である。この映画は、フィンランドの人々にとっては、苦難を乗り切り独立を守り抜いた戦いであると同時に、ナチス・ドイツの側に立って戦い、一時は冬戦争による失地の回復を超えて占領地を広げるという領土拡大指向の側面を有したこともあって、若しかすると複雑な思いを抱かせるかもしれない「継続戦争」を題材とするものではある。ただ、映画自体のストーリーは、三年間に亘りカレリアの地で対ソ戦に参加する個々の歩兵達の友情、ユーモア、生き抜こうとする意志、そして彼らの家族や近しい人々の苦しみの日々を描くことで、フィンランドの運命を左右した歴史の一時期に思いを馳せるよう誘うものとなっている。隣国へのむき出しの武力行使による侵略という、あってはならない惨劇が、21世紀の今日ウクライナの地で起きているのを日々目の当たりにする中で改めて見るこの映画は、様々な感情と思いを抱かせるに十分なものがあった。
「冬戦争」と「継続戦争」というこれら二つの戦争を通じて多くの人命が犠牲となり、また、国土は荒廃した。休戦条約の履行監視のためのソ連主導の連合国管理委員会がヘルシンキに設置された。代償は極めて大きなものであった。しかし、フィンランドは、ソ連による国土占領を免れ、その後の戦争責任裁判を自ら制定した国内法により実施するなど、臨機の対応を積み重ねていくことで国家の独立と体制の維持に成功し、「生き抜く」ことができたのである。
冷戦期のフィンランド
「独ソ」の間で苦心する世界大戦期を何とか乗り切ったフィンランドは、戦勝国となりより強大になった隣国ソ連と直接対峙しつつ、今度は「東西」の間で苦闘することになる。戦後のフィンランドの外交・安保政策の基本的方向を規定することになったのは、対ソ戦の結果を確定することになった1947年のパリ講和条約に加え、1948年のフィン・ソ「友好・協力・相互援助条約」であろう。第二次大戦が終結し、冷戦が欧州に影を落としていく中、ソ連は東欧諸国に対する支配を確固たるものにするため、これら諸国との間で相互援助条約を結んでいったが、フィン・ソ条約はそれらとは大きく異なっていた。フィン・ソ条約は、単純な相互援助を約するものではなく、フィンランド領域の侵略又はフィンランド領域を経由した対ソ攻撃があった場合、フィンランドは自国領域内で抵抗すること、また、必要な場合はソ連が支援を与えるとの趣旨を規定し、軍事行動の発動と範囲をフィンランド領域に限定する特殊な性格のものとなっている。また、前文には、大国間の利害対立の局外に立たんとするフィンランドの願望を考慮する旨の、国際社会におけるフィンランドの特別の地位を容認すると受けとれる一節が含まれていた。
このように所謂「衛星国」の立場に置かれることを巧みに免れることができたとはいえ、戦後の冷戦構造の下で、フィンランドは、引き続き東の巨大な隣国、ソ連との関係を如何に安定的にさばいていくかを最大の課題としつつ生きていくことを強いられることになる。ソ連を過度に刺激することになりかねない、或いは、ソ連から見て挑発的と映りかねない行動を抑制しつつ、国家の独立と体制を守り、併せて、できる限り西側との関係を深めていくという、繊細な政策を指向することがほぼ唯一の現実的な選択肢であったのであろう。ソ連との間で、能う限り波乱なく「不即不離の関係」を維持しようという努力と言っても良いかもしれない。フィンランドは、大国間の利害対立の局外に立とうとする「中立政策」から出発し、更に、1975年のヘルシンキ全欧安保協力会議に象徴される、東西両陣営に等距離の関係を構築し両者の仲介をも図ろうとする「積極的中立政策」へと発展させていくことになる。このような外交・安全保障政策が、終戦直後からソ連末期の時代に亘りフィンランドの国家運営を続けて指導した二人の大統領の名前を冠せられ「パーシキヴィ・ケッコネン路線」と称されることとなったことはよく知られている。冷戦期を通じて度重なる圧力に晒され苦境に立たされながらも、その都度俊敏な外交でフィンランドの独立と自由民主主義体制は守り抜かれた。この時期のフィンランドについて、属国的姿勢をとっているとしてこれを揶揄する意味合いで使われることのあった「フィンランド化」という用語は、既に歴史の中で淘汰されているものと思われる。
この間のフィンランドの努力として忘れてはならないのが、国は自ら守るという国土防衛に対する人々の強い信念と覚悟に裏打ちされた徹底した徴兵制度の維持である。逆説的ではあるが、ソ連との相互援助条約は、フィンランド領を通じて対ソ攻撃が行われた場合にフィンランド領域内でこれに抵抗することをフィンランドの義務として規定しており、この条約が実質的には「対ソ」防衛力整備に法的な根拠を与える形で機能したと考えられることも興味深い。フィンランド人の国民皆兵への意識、徴兵制度維持に対する幅広い支持は今日も変わらない。ヘルシンキ駐在の間に身近な人々との関係を含めて見聞きした限りでも、フィンランドの人々は、人生の一定期間若い頃に兵役に服し、その後老いるまでの間も予備役として技量・知識が消えないよう何年か毎に訓練のために軍に戻ることを極々当然のこととして受け止めており、国民の徴兵制度に対する支持は揺るぎないものである、というのが筆者の肌感覚であった。
ソ連崩壊とフィンランド
フィンランドにとって、1939年にソ連に軍事侵攻を受けて以来の第二の衝撃的な国際環境の大変動は、1991年末のソ連崩壊であったと思われる。ここでもフィンランドは素早く反応し動く。翌1992年1月には、冷戦時代を通じて中立政策を規定する枠組みとして作用していた相互援助条約は廃棄され、同時にロシアとの国家基本条約が締結された。新たな条約に軍事的条項は消えていた。2月にはEU加盟申請の方針を表明し、翌3月には加盟申請を行い、精力的に加盟交渉を進めた。その後、国民投票を経て、1995年1月には正式加盟を果たすことになる。これ以降フィンランドは一貫してEU の理念に忠実にその一員として行動してきている。EU共通外交・安全保障政策を受け入れ、もはや「中立国」ではなくなり、明確に西側に軸足を置いた「軍事的非同盟政策」に転換することになる。
ソ連の崩壊はフィンランドのNATOへの接近をも加速させることになった。1994年には「平和のためのパートナーシップ(Partnership for Peace :PfP)」に加わり、或いは共同訓練に参加し、或いはコソボ、ボスニア、アフガニスタン、イラク等でNATOが進める国際的な危機管理活動にも積極的に参画するなど、NATOとの協力を深化させていった。最早その協力は、集団防衛の義務を規定するNATO条約第5条の適用がないことを除き、実質的にはほぼあらゆる分野に及ぶと評されるようになっていった。フィンランドは、しかし、ソ連崩壊後においても、ロシアを「過度に」刺激することを避け、ロシアとの間で経済、人的交流の面を含む安定的な関係を維持することを重視して、NATO「加盟」には慎重な姿勢をとり続けた。尤も、フィンランドはこの期間を通じ、NATO加盟を「選択肢」として保持するとの政策を堅持し、実際にも、時に「加盟するような」、時に「しないような」姿勢をとり、ロシアとの間でこのような「NATO加盟カード」を巧みに、かつ、有効に使ってきたように、筆者の目には映る。
このポスト冷戦期においてフィンランドは、徴兵制を基盤とする国土防衛体制の強化、EU共通安保・防衛政策への参画、そして、NATO、更には米国、その他の諸国との二国間、多国間の緊密な協力を通じた安全保障政策を進めてきている。その中で特筆すべきは、北欧5カ国からなる北欧防衛協力(Nordic Defence Cooperation: NORDEFCO)であり、就中、隣国スウェーデンとの極めて密接な防衛協力であろう。当初からのNATO加盟国であるアイスランド、デンマーク、ノルウェーとは異なり、非加盟という道を選択してきているという共通点もあるが、長い歴史を通じて培われてきた両国間の近しい関係は特別である。在ヘルシンキのスウェーデン大使館がフィンランド大統領官邸の並びに位置していることも関係の近さを物語っているように思える。EU加盟、NATO・PfPへの参加、いずれも両国同時であった。政策協調という意味において両国間で日々緊密な連絡・協議が間断なく進められていることは容易に推察されるところである。NATO加盟の選択肢についても、筆者が在勤中に関係者との接触を通じて得た印象は、両国間には「お互いに抜け駆けはしない、加盟を目指す場合は同時に行う」との了解があり、そして、そのような姿勢を保持することがそれぞれの安全保障上最良の策であるとの確信が両国を一層強く結びつけている、というものであった。両国の政府・国防省のホームページがそれぞれ「フィンランド・スウェーデン防衛協力」のページを特に設け、お互いを防衛協力分野における最も近しいパートナーとして位置付けている所以であろう。
「軍事的非同盟政策」との訣別:NATO加盟申請
フィンランドにとっての第二次世界大戦以来の第三の安全保障環境の大変動、激震をもたらしたのがロシアのウクライナ侵攻であることは、多くの論者の一致して指摘されるところであろう。「侵攻」は2014年に開始されている。フィンランドは、2014年のロシアによるクリミア「併合」を国際法に真正面から違反する行為として強く非難し、これを認めず、EUの対露制裁措置に全面的に加わってきている。冷戦期にソ連を過度に刺激しかねないと考えられる言動を慎重に避け抑制的に対応したフィンランドは、そこにはもうない。クリミア「併合」後は、NATOとの協力関係を一層強化することに努めている。2014年9月のNATOウェールズ首脳会合では、フィンランドはスウェーデンと共に、「軍事的貢献により高次の機会が提供されるパートナー国(EOP)」である5カ国の内に位置付けられることとなり、緊密度は更に高まることになった。NATOとの緊密な協力関係は既に「加盟」寸前の「紙一重」のところまで深まってきていた感があったが、それでもフィンランドは「加盟の選択肢」を温存し、フィンランドなりにロシアとの対話を継続し、平和的な軟着陸を目指した感がある。経済交流や北極協力も引き続きそれなりに維持されていた。
そのようなフィンランドにとって、2022年2月24日の出来事は全てを根本的に変えるものであった。これ以上はない程のあからさまな国際法違反の武力行使を伴う隣国への侵略。フィンランドは最も強い言葉でロシアの行動を非難し、ウクライナへの確固たる支持と支援を表明した。EU加盟国としてのものを含め即座に強い対露制裁を実施した。2010年以来ヘルシンキとサンクトペテルブルグを3時間半で結び両国間の人の往来に大きな役割を果たしてきた高速鉄道アレグロ号の運行も停止させた。長きに亘り政治的・軍事的紛争の枠外に置かれるべしとの精神で進められてきた北極地域の環境保護と持続的発展のための協力である「北極評議会」(AC: Arctic Council)や「バレンツ・ユーロ北極評議会」(BEAC: Barents Euro-Arctic Council)の活動についても、フィンランドは他の北極圏関係国とともに、ロシアと関係するものについて停止させる措置を講じることになった。
フィンランドは再び電光石火の素早さで動いた。遂に、「紙一重」で残していた「加盟カード」を切り、NATO加盟申請に踏み切ったのである。正に「フィンランドらしい」と思わせる動きであった。そして、今回も盟邦スウェーデンとともに、である。この間、世論は圧倒的に加盟支持に傾いていた。2022年5月12日、ニーニスト大統領とマリン首相は共同記者会見を行いNATO加盟の方針を表明した。5月17日、議会はこの政府方針を承認。翌18日、ブリュッセルにおいて、フィンランドとスウェーデンの加盟申請が行われた。7月5日、NATO加盟国は両国の「加盟議定書」に署名し、各国がこれを批准する手続きが開始されることになった。異例の速さであった。ロシアのウクライナ軍事侵攻は、正に「熟柿が落ちるための強烈なひと突き」であった。
今振り返ってみるとき、戦後、日米同盟を基軸として平和と繁栄を確保してきた日本と、中立政策を基本として長く厳しい時代を生き抜き今日の豊かで進取の気風に満ちた国となったフィンランドは、スタイルと手法、そして辿るべき道筋を異にしてきたとはいえ、ソ連・ロシアの東と西の隣国として、自由と民主主義、人権、国際法の遵守といった基本的価値を共有し、相互に一目置く間柄であった、と改めて思われる次第である。