ミャンマー情勢の現在と今後

  
駐ミャンマー大使 丸山市郎  

 2021年2月1日未明、ミン・アウン・フライン司令官率いる国軍が、アウン・サン・スー・チーさんやウイン・ミン大統領を拘束し、全権を掌握しました。現在に至るもスーチーさんや大統領は拘束下にあります。本稿では主にクーデターに至るまでのミャンマー内政の動き、そしてその後の国際社会の対応を述べたいと思います。

ミャンマーと軍事政権

 ミャンマーは1962年から88年の26年間ネー・ウイン独裁政権の下事実上の軍事政権が続いていました。同時期にタイ、インドネシアといった東南アジア諸国の多くが経済発展を遂げていく中で、ミャンマーは独裁政権の下で1987年には最貧国になるまで経済は落ち込みました。このような状況に大きな不満を抱いた学生、公務員、市民による全国的なデモにまで発展したのが1988年です。この民主化運動は、ミャンマーで戦後初めて民主化を求めて国民全体で運動として発生したものとして今でも国民の多くに記憶されています。
 88年に全国規模で民主化運動が起こった時に母親の看病のため居住していた英国から一時帰国していたアウン・サン・スー・チーさんは、独立の父として国民の尊敬を集めているアウン・サン将軍(独立直前の1947年に暗殺されています)の娘というカリスマ性も相俟ってこの民主化運動の中心者となっていきます。
 しかしこの民主化運動は1988年9月に国軍の全権掌握によって終息しますが、アウン・サン・スー・チーさんは、その後も国民民主連盟(NLD)の事実上の党首として民主化運動のリーダー的存在となって政治活動を継続し軍事政権と対峙していきます。

(写真)アウン・サー・スー・チー氏(Wikipedia)

テイン・セイン政権の登場と政治改革

 1988年から23年間続いてきた軍事政権は、2011年3月に元軍人であるテイン・セイン大統領率いる形式上民間政府の体裁を取った政府に政権を引き渡しました。テイン・セイン大統領は、軍事政権のナンバー4の序列でしたが、就任後民主化、経済開放に向けて多くの改革を行い、その結果2016年には米国がミャンマーに課していた経済制裁の全てを解除するまでに至りました。日本もこのような民主化に向けた改革の動きを受けて2013年には1988年から事実上停止していたODAの全面再開に踏み切ることになりました。また2014年にはミャンマーは、1997年のASEAN加盟後初めて議長国としてASEAN首脳会議等一連の会議を主催するまでに至りました。
 アウン・サン・スー・チーさんは、1988年から2011年までの間、3回計15年間の自宅監禁措置を受けていました。しかしテイン・セイン大統領は、2012年に行われた補欠選挙にNLDの参加を認め、その結果アウン・サン・スー・チーさんは下院議員として当選しました。その後2015年には総選挙が実施され、アウン・サン・スー・チーさん率いるNLDが圧勝しました。テイン・セイン大統領が、この選挙結果を受け入れ平和裡にNLDへの政権委譲を行いました。1962年のネー・ウイン国軍司令官による軍のクーデター以降、50年以上軍事政権が続いてきていましたが、初めて総選挙で選ばれた政権が誕生したことはミャンマーの民主化進展を象徴的に示すものとして国際社会から非常に高い関心を持って受け止められました。

NLD政権の登場と2020年総選挙

 2015年の総選挙の結果を受けて、2016年3月NLD政権が誕生しました。但し憲法では、外国籍の配偶者や子供を有する者は大統領になれないと規定されているため、アウン・サン・スー・チーさんは、大統領ではなく、「国家最高顧問」という憲法の規定にない職責に就きました。アウン・サン・スー・チーさんは、このポストの立場から実際には政府を主導しました。しかしこのような憲法にない役職を作ったことは軍のNLDに対する不信を持つ大きな契機になったと見られています。
 NLDとしては初めての政権運営であり、やはり政権発足当初は特に経済などの政策運営に「もたつき」があったことは否めません。しかし前述の通り、1962年から50年以上軍事政権の下にあったミャンマーの国民にとって、NLD政権は50年振りに初めて選挙で選ばれて登場した非軍事政権であり、またそれを率いているのはこれまで長年に亘って民主化運動を率い国民の間で非常に高い人気を得ているアウン・サン・スー・チーさんであるため、NLD政権は多くの国民の強い支持を受け続けていたと言えると思います。そのような状況の中で行われたのが2020年11月の総選挙でした。

2020年総選挙を巡る動き

 2020年総選挙が初めてNLD政権の下で行われました。一部にはNLD政権の発足当時の「もたつき」もあったため、選挙で多少の劣勢を予測する声もありました。しかし結果は、2015年の総選挙と同様にNLDの圧勝となりました。その背景には、国民が50年以上という長い期間の軍事政権下での生活を経験しそこには絶対に戻りたくないという気持ちが非常に強く、また1988年以来ミャンマーの民主化運動を指導してきたアウン・サン・スー・チーさんに対する強い民主化への期待と支持があったがことが容易に想像されます。ここで大きな問題は国軍自体がNLDが選挙で勝つと予想していなかったことです。
 ミャンマーではNLDが参加した選挙は、2020年の前には1990年及び2015年の2回実施されました。いずれも国内、湖西社会の多くはNLDが優勢と予測をしていました。しかし国軍は、この選挙の2回いずれも国軍系政党が勝利すると予測していた事実があります。そのような予測となる理由は、国軍とミャンマーの特殊な文化があると考えられます。上層部に対しては下の者は「聞き心地のよい」情報しか上げない傾向が非常に強いことです。2020年総選挙でも同様の事態が起こりました。2020年11月選挙の投票日当日、ミン・アウン・フライン国軍司令官は、投票箱の前に立つメディアのカメラを前に「選挙結果を尊重する」と述べていることは国軍系政党が勝つことを前提にした発言と捉えられます。
 2020年11月の選挙の結果がNLD勝利で判明した頃から、国軍は、NLDが勝利したのは選挙に不正があったからであり、特に有権者名簿が意図的に改竄されているとの主張を外に対しても発するようになりました。

(写真)ミン・アウン・フライン国軍司令官(Wikipedia)

2021年2月クーデター直前の動き

 国軍は、特に2021年に入ると、2020年総選挙には有権者名簿に不正があったとして有権者リストのチェックをNLD政権に強く求めるようになりました。これに対してNLD政権側は、2020年選挙で選出された国会議員による議会の初めての招集を2月1日に行うとの発表を行いました。それに対して国軍は、議会の招集前に有権者名簿の見直しを行うべきだと強く主張しNLDと国軍の間での緊張が高まっていきました。但し国軍がクーデターを行いアウン・サン・スー・チーさんや大統領を拘束し政府の全権を一気に掌握するとまで想像していた者は殆どいませんでした。

2021年2月1日国軍全権掌握

 私は、2月1日午前4時頃、ミャンマー人民主活動家からの突然の電話で目を覚ました。「スーチーさん始めNLD幹部が拘束された。軍によるクーデター決行であり、これから自分は抵抗活動に入る」との一報でした。彼はその後拘束され、2022年7月当時ASEAN議長国だったカンボジア政府の呼びかけにも応じず死刑が執行され、国際社会に強い衝撃を与えました。
 クーデター直後、多くの国民が全国でデモを行い抗議の声を上げました。当初国軍もデモに対して解散を命じるに止まっていましたが、2月後半頃より取り締まりが急に厳しさを増し路上で銃の発砲など暴力的になっていき、その様子はデモ参加者等が撮影したスマートフォンの動画を通じて国内外に伝わり大きな衝撃を与えていきました。スーチーさん始めNLD幹部は殆どが拘束、投獄され、また多くはこれを逃れるためにタイ国境等を経由して海外に逃亡しました。特に海外やタイ国境付近に逃れたNLD関係者を中心として抵抗組織としてNUG(National Unity Government)がクーデター直後に組織され、国際社会との連携、国軍への抵抗活動を続けてきています。
 全権掌握直後、国軍は国家緊急事態を宣言し、憲法の規定に従い2023年8月までに選挙を再度実施するとしてきましたが、本年8月治安が確保されていないとして更に6ヶ月国家緊急事態を延長し軍政を引き続き続けていく姿勢を示しています。

国際社会の動き

 日本を含む国際社会は国軍の全権掌握に対して中国、ロシア、タイ、インドといった極一部の国を除き政府承認をしない厳しい姿勢を取ってきています。
(1)ASEAN
 ミャンマーでの政変後2021年4月、インドネシアでミャンマー問題を議論するためのASEAN特別首脳会議が開催され、ミンアウンフライン国軍司令官が出席しました。会議では暴力の停止、全ての関係者との対話、ASEAN特使派遣など5つの事項がコンセンサスで合意されましたが、暴力は現在も継続しており特にインドネシア、マレーシア、シンガポールは5つのコンセンサスについて進展が見られないとしてミャンマーに対して非常に強い姿勢を示してきています。シンガポールの最大銀行の一つであるUOBはミャンマーの政府機関や企業が海外とのドル取引を行ってますが、9月以降原則ミャンマーの取り扱いはしないとしているほどです。
(2)欧米
 欧米は、国軍全権掌握に対して非常に厳しい姿勢を示し続けてきています。具体的には国軍幹部、閣僚、国軍企業、国軍に近い県警のある企業に対して個別制裁(targeted sanction)を課してきています。特に米やEUは、ミャンマーには大使ではなく臨時代理大使レベルを派遣することにしています。
(3)中国、ロシア、インド
 クーデター後、国軍とロシアや中国との関係は特に緊密になってきています。ロシアとは兵器取引など軍事協力の拡大、原子力発電協力など経済関係など全般での関係の強化が顕著です。ロシアのウクライナ侵攻直後では軍報道官がロシアの軍事行動を支持するといち早く発表しています。
 また中国も同様に軍政との関係をクーデター後も進めてきており、これまでに合意されていた港湾や鉄道といった「一帯一路」プロジェクトの進展を引き続き行ってきています。
 インドは中国の影響力の拡大に対する懸念、国境地帯の安定といった観点から、軍政に対しては懸念を有しつつもこれに関与する立場を取ってきています。
(4)我が国の対応
 クーデター後のミャンマーの混迷する政治状況に対してASEAN、日本も含め国際社会は有効な打開策を見出せないままの非常に困難な状況が続いているのが現状です。
 日本は政府承認を控える姿勢を維持してきており、ODAも原則新規案件は実施しないとの立場を取ってきています。軍政に対しては、第一に暴力の即時停止、第二にアウン・サン・スー・チーさんを始めとする拘束者の釈放、第三に民主的な政体への復帰を一貫して働きかけてきていますが、事態は改善されるどころか益々悪化してきていると言わざるを得ません。日本にとってミャンマーは歴史的に深い関係を持ってきている国であり、ミャンマー情勢の打開、改善のためにASEAN各国及び米とも連携、調整しながら、ミャンマーの民主化、人権状況の改善のため様々な努力を続けていくことが益々重要になっていると考えられます。