ベートーヴェン生誕250年-その生涯・音楽・時代―
元駐ハンガリー大使 稲川照芳
毎年年末になると、日本のあちらこちらからベートーヴェンの交響曲第九番合唱付きの演奏が聞こえてくる。今年はベートーヴェン生誕250周年に当たるが、コロナ禍の中でどうなるであろうか。ベートーヴェンは1770年12月17日にボンで受洗され(生まれたのは多分16日)、1827年3月27日に56歳少しでウィーンでこの世を去った。
私はもちろん音楽の専門家ではないが、外交官としてボン(2回4年)、ウィーン(3年半)、プラハ(2年近く)ブタペスト(3年)に在勤し、その間ベートーヴェンの音楽にも接してきたので、その生涯の一端を記述してみたい。
私がそもそもベートーヴェンの音楽を手に取ったのは高校1年生の夏に自分の小遣いをはたいてベートーヴェンの交響曲第6番「田園」を収めたレコードを初めて買ったときだった。もちろん、ベートーヴェンの音楽は以前から時々耳にしていたが。そして高校2年生の秋に前から悪かった左耳に加えて右耳に雑音(耳鳴り)がし始めたのである。それ以来ベートーヴェンの人生は私の胸から離れなかった。その後、1966年にボンを訪れたときに初めて「ベートーヴェン・ハウス」を訪ね感動した。
1.ベートーヴェンの時代の歴史的背景
ベートーヴェンがボンにいた1789年、フランス革命が起こった。当時、ベートーヴェンがフランス革命をどのように受けとめたか分からないが、「自由・平等・博愛」は彼には共感できたであろう。しかし、ナポレオンが1804年に自ら皇帝になり、05年にはアウステリッツの戦いでオーストリアを屈服させ、06年には神聖ローマ帝国を廃し、ウィーンを占領、1810年にはオーストリア皇帝の息女マリー・ルィーゼと再婚したことについて、ベートーヴェンは決して快く思わなかっただろう。その後、ナポレオンは1812年にロシア遠征に失敗し、13年にはライプツィヒの諸国民戦争に敗れたのをきっかけに14年にはエルバ島に流された。勝利した欧州の大国はオーストリア帝国宰相メッテルニヒが主催したウィーン会議に参加した。ベートーヴェンはこの会議に集った各国代表を前に演奏会に参加している。そして1810年代後半にはオーストリアをはじめとする神聖同盟が成立し、20年代にはメッテルニヒの保守反動政治が始まる。
2.ボンでのベートーヴェン
ボンはローマ人がライン川左岸に進出したときに設立されたが、18世紀には選帝侯であるケルン大司教のレジデンスとして栄え、宮廷には楽団があった。ベートーヴェンの祖父ルードヴィッヒは1733年にベルギー・フランドル地方のメヘレンからボンの選帝侯居城の宮廷楽師として着任した。1761年には宮廷楽長になっている。ルードヴィヒの息子ヨハンの2番目の息子(長男)としてベートーヴェンは1770年12月に生まれた。ヨハンは5男2女をもうけたが、多くは幼少期に亡くなり、成人したのはルードヴィッヒ(ベートーヴェン)と弟のカールとヨハンのみであった。
若きベートーヴェンは音楽の才を発揮しヴィオラ等を楽団の中で演奏していた。彼の才能に期待した選帝侯は1787年春にベートーヴェンをウィーンに送った。モーツァルトに師事すべくウィーンに到着したベートーヴェンは、短いウィーン滞在中、モーツァルトからレッスンを数回受けたようだ。
短い滞在の後に父ヨハンからの便りで母の重病を知らされ、ベートーヴェンは急遽ボンに戻った。そして7月には母が亡くなり、やがて父も酒に溺れるようになった。ベートーヴェンは若くして一家を支えるようになった。交響曲第九で、エリジウムの娘が天国で一体化させる、と唄っているのは、結婚もできず幸せな家族も持てなかったベートーヴェンの思いがあるのかもしれない。彼は引き続き宮廷楽師を続ける一方、1789年5月にボン大学に入学するほか、これとは別に読書会に所属し、そこでシラーの詩「歓喜に寄す」を知ったようだ。そして92年の夏にロンドンから帰路ボンに立ち寄ったハイドンと会った。
3.ウィーンに移ってからのベートーヴェン
1792年11月にウィーンに移り、1827年3月に亡くなるまでの37年間弱をウィーンで過ごしたが、この時期は3つに分けられよう。
(1)「ハイリゲンシュタットの遺書」(1802年)まで
ベートーヴェンはウィーンに到着の始めハイドンに師事する(モーツァルトは既に死去)一方、ウィーン在住の音楽愛好貴族の子弟を相手にピアノを教えたり(その中には「不滅の恋人」の有力な候補とされるヨゼフィーネ・ブルンスヴィックもいた)、作曲(「月光ソナタ」、「悲愴」等や交響曲第1番)も作曲していた。しかし、1796年頃より難聴がひどくなり、1802年4月に医者の勧めにより養生のためにハイリゲンシュタット(現在はウィーン19区の一つ)に赴いた。ここでの最後に「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いた。これは遺書というより難聴という音楽家にとって致命傷ともいうべき過酷な運命と闘う決意を表したものと言えよう。
(2)ウィーンに戻ったベートーヴェンは作曲活動を活発に再開し、交響楽曲第2番、第3番「エロイカ」、第5番「運命」、第6番「田園」、第8番に加え、バイオリン・ソナタ「クロイツェル」、ピアノ・ソナタ「熱情」、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」、バイオリン協奏曲二長調、オペラ「フィデリオ」等を作曲した。この間、ベートーヴェンの音楽家としての名声はヨーロッパ中に響いた。
1812年夏にはテプリッツ(現在のチェコの地)の温泉地に保養し、そこでは文豪ゲーテにも会っている。有名なエピソードであるが、あるとき二人で散歩しているときにオーストリアの皇后一行が通りかかり、ゲーテは帽子を取り会釈して拝礼し道を空けたのに、ベートーヴェンは堂々と胸を張って一行の前を通り過ぎたという。宮廷人と誇り高き芸術家の態度の違いと言われる。
(3)ベートーヴェンの遺品の中から出てきた「わが不滅の恋人へ」の手紙の宛名を巡って世紀の論争がある。現在ではどうやら二人に絞られているようだ。その一人がヨゼフィーネ・ブルンスヴィック。ヨゼフィーネは青年時代、夫ダイムと死別してからのウィーン時代にベートーヴェンからピアノを習い、また聴いていた。彼女は現在のハンガリーのマルトン・ヴァシャールのブルンスヴィック家の出身。ベートーヴェンもそこを訪れていた。同地はブタペストの西方32キロの地にあり、現在ハンガリー科学アカデミー農業研究所で、その中に「ベートーヴェン記念室」がある。もう一人は、ベートーヴェンの友人ブレンターノの妻アントーニエ。「わが不滅の恋人へ」の手紙の日付は7月6、7日となっているが、遺書の3通の手紙はテプリッツから出されたようだ。
(4)ピアノ・ソナタ「ハンマークラヴィーア・ソナタ」を作曲した1817年~18年頃よりベートーヴェンの生活に重い陰が生じる。既に弟カールがなくなってから甥のカールの後見を巡って義妹との法廷での争いに加えて、耳もほとんど聴こえなくなり健康も次第に悪化していった。それでも1823年に「ミサ・ソレムニス」を、1824年に交響曲第9番「合唱」を作曲した。そして1826年には嬰ハ短調弦楽四重奏曲を完成させた。その年、ピストル自殺を図って一命をとり止めた甥カールと共にウィーン近郊にある弟ヨハン宅で休んでウィーンへの帰り、1827年3月26日に亡くなった。
(2020年10月20日記)