ピューリタン革命とバルバドス


    駐バルバドス大使 品田光彦

 新しい在勤地に赴任すると一応はその国の歴史を紐解くことにしているので,バルバドス在勤の辞令を受けた時この点では少しがっかりしました。
 なにしろカリブ海の東端にポツンと浮かぶ人口30万に満たない小さな島国です。なにか世界史上の大きな出来事の当事者になったという話も聞いたことはないし,だいいち日本人のほとんどは「バルバドス」と聞いても,どこにあるどんな国なのかも知らないでしょう。

 なので,この国の歴史といってもせいぜい「1627年に英国植民地となる」→「奴隷を使役するプランテーションで作った砂糖を欧州へ輸出して栄える」→「1966年に英国から平和裡に独立」→「議会制民主主義が定着した中所得国となり,欧米人のリゾート地として知られるようになった」オシマイ,という程度の話ではないかと思ったりしたものです。
 ところが実際に住んでみて,いろいろ調べてみるとなかなかどうして,こういう小島嶼国にもけっこうエキサイティングな歴史があることに気付かされました。考えてみれば,国が小さければ小さいほどその運命は自律的というより他律的な面が大きいので外界からの影響にもろにさらされ続けてきたわけです。
 本稿ではバルバドスの歴史のほんの一断面を切り取って,英国の植民地になって間もない頃の顛末をご紹介したいと思います。

1.革命の勃発
 フランシス・ウィロウビー(1613-1666年)という男がいました。英国サッフォークの男爵の家柄の生まれです。成人すると父のあとを継いで貴族院議員となりました。
 当時の英国国王はスチュアート朝のチャールズ1世。この王は王権神授説を唱え議会を無視する専制政治を行っていました。議会では英国国教会体制に不満をもつカルヴァン派のピューリタン(清教徒)が力を増し,王党派と議会派の対立が深まっていました。
 チャールズ1世は11年間も議会を開かずに独断専行の政治を続けていたのですが,プロテスタントの一派,長老派が優勢だったスコットランドで反乱が起きます。王は反乱鎮圧の財源を賄うためにやむなく議会を招集しました。ところが議会は戦費調達のための課税をこばみ,1642年,王党派とオリヴァー・クロムウェル率いる議会派の間に武力衝突が起きて英国は混乱状態となります。ピューリタン革命のはじまりです。
 ウィロウビーはこの時,一旦はクロムウェルに同調して議会派に加わりました。しかしまもなく,王政打倒も辞さない過激なクロムウェルと仲たがいして,より穏健な長老派の議会リーダーとなります。このことが後にウィロウビーをバルバドスに結びつけることにつながったのでした。
 ロンドンを占拠したクロムウェルはチャールズ1世を拘束して,あくまで立憲君主制を望む長老派を議会から追放し,ウィロウビーも投獄されてしまいます。チャールズ1世は1649年,クロムウェルの議会派によって斬首されるという非業の死をとげました。王を失った英国はしばらくの間,共和制の国となります。

2.ウィロウビー,大西洋を渡る
 一方ウィロウビーは財産を没収されたものの数ヶ月後に釈放されます。彼は故チャールズ1世の息子,チャールズ2世を奉じてオランダに亡命していた王党派にとりあえず合流したあと,新天地を求め大西洋を渡ってバルバドス植民地に向かいました。1650年のことです。
 彼のこのバルバドス行きの背後には,当時バルバドスの植民地利権を握り,チャールズ2世一派のおぼえがめでたかった英国貴族カーライル2世伯爵という人物がいました。これには次のような経緯があります。
 ピューリタン革命が起きたあと,英国内の混乱を逃れて王党派,議会派双方の人々が入植者として続々とバルバドスに渡ってきました。彼らは本国で失った財産を取り戻そうと砂糖プランテーションの経営に力を注ぎます。プランテーションの労働力を確保するために西アフリカとカリブ地域の間では大西洋奴隷貿易が本格化していました。プランテーション経営で成功した者は砂糖輸出で巨富を築き,英国様式の立派な邸宅を建てるようになります。バルバドスが「リトル・イングランド」と呼ばれはじめたのはこの頃のことです。
 こうしてこの島では王党派と議会派が混在していたのですが,はじめのうちは親元の英国と違って両派はわりあい仲良くやっていたようです。両派の間に「七面鳥とローストポークの誓約」という約束事がありました。これは「王党派」とか「議会派」という言葉を発した者は,罰としてそれを聞いた皆を家に招いて七面鳥とローストポークを振る舞わなければならないという冗談半分の約束でした。時にはわざと罰を受ける言葉を発して,両派一緒になってドンチャン騒ぎの「飲み会」を開くということもあったといわれます。
 ところがチャールズ1世が処刑されてクロムウェルの軍事独裁が始まると状況が一変します。迫害から逃れるために王党派が大挙してバルバドスに流れ込んだので,両派の間のバランスが崩れたのです。チャールズ1世を殉教者と仰ぐバルバドスの王党派が議会派の財産を没収するなどしたので,両派の対立が強まります。
 当時バルバドスではフィリップ・ベルという人物が植民地総督をつとめていました。ベルは島内を,各地に点在する英国国教の教会を中心に11の教区(パリッシュ)に分けて治める制度(註1)を導入するなど手堅い実務家ではありました。しかし,王党・議会両派の抗争はベルの手にあまると考えたカーライル2世伯爵が,その手腕を見込んで送り込んだのがフランシス・ウィロウビーだったというわけです。
 新総督となったウィロウビーは両派のいざこざの火消しにつとめ,議会派の財産没収を帳消しにさせるなどの成果をあげました。
 そればかりか彼はこの時期,バルバドスを起点にカリブ海を南下して南米大陸の北東端にあるスリナムにちょっかいを出すということまでしています。スリナムには英国人とオランダ人が入植していたのですが,ウィロウビーの武装船団は英国人入植者の中心地に砦を築きます。この砦は「ウィロウビー要塞」と名付けられました。これが現在のスリナムの首都パラマリボです。(註2)

首都ブリッジタウン中心部(左手に見えるのは国会議事堂) (筆者撮影)

3.カリブ植民地はフランチャイズ制だった
 ところが今度はバルバドスにとってより深刻な事態が持ち上がります。宗主国である英国の海軍艦隊がバルバドスに攻め込んできたのです。
 どうしてそんなことになったのか。
 王党派が幅を効かせるこのちっぽけな植民地島のことをクロムウェル治下の英国が苦々しく思っていたのは当然です。しかし宗主国をキレさせた原因はもうひとつ別のところにありました。
 それはバルバドスとオランダの関係でした。もともと英国によるバルバドスの植民地化当初は,バルバドスからタバコなどの産品を英国に運び,英国からは新たな入植者や生活物資をバルバドスに運ぶという取引が行われていました。ところがピューリタン革命で英国内が乱れると,英国・バルバドス間の交易が停滞します。そこに割って入ったのがオランダでした。
 オランダの提供する物資が英国よりも安かったこともあってバルバドス・オランダ間の交易関係は急速に拡大しました。砂糖キビの栽培やプランテーションで働かせるアフリカ人奴隷の輸入をバルバドスに持ちかけたのもオランダです。商売上手なオランダ人はバルバドスのタバコ農場主をブラジルまで連れて行って砂糖キビ栽培の見学ツアーみたいなことまでやっています。またオランダは,落ち目のポルトガルから西アフリカの奴隷供給拠点を引き継いでいたので,新大陸での奴隷取引の得意先を物色していたのでした。
 ハプスブルグ家スペインの属領だったオランダは16世紀後半にスペインから独立していく過程で急速に経済発展しました。中継貿易をつうじて世界各地に進出し,アムステルダムは国際金融の中心地となります。日の出の勢いのオランダと植民地バルバドスが結びつきを強めるのを英国は極度に嫌いました。
 カリブ地域での英国の植民地経営のやり方というのは,はじめから海軍の軍艦が他人様の土地や島に押しかけていって領土を奪うのではなく,裕福な貴族や商人が出資した武装商船が乗り込んでいって,本国の承認を得た上で「ここは英国の土地ということで決まり」と宣言したのでした。そして先住民や奴隷を使役して鉱物資源を採掘したりプランテーション経営をしたりして富を収奪し,本国はその上前をはねていたのです。つまり英国領土を名乗ってよいという本国のお墨付きは,現代のコンビニチェーンのフランチャイズ制のようなものだったわけです。ですからバルバドスがオランダと取引するのに英国が怒ったのも無理はありません。町のコンビニ店がフランチャイズ親会社のライバル企業から勝手に商品を仕入れて儲けるようなものだったからです。
 当時の西欧は重商主義の時代。各国は戦費調達や軍,官僚組織の維持のために自国の輸出を最大化,輸入を最小化することによってひたすら富を貯めこもうとしていました。そのためにとられた方法は,競争国にイチャモンをつけてその産品にやたらと高い関税をかける,あるいはそもそも交易自体を禁じてしまうということでした。なにやら昨今の国際情勢を彷彿とさせるところ無きにしもあらずですが,ともかくこのようなやり方の問題はしばしば競争国同士の戦争につながるということでした。
 あちこちの植民地でバルバドスと同じようなことが起こっていたので,クロムウェルの英国は1651年,航海法を導入して植民地がオランダと取り引きすることを禁じてしまいます。今でいうデカップリングです。これが後の英蘭戦争へとつながっていきました。

17世紀後半に建てられたプランテーションハウス(現在はラム酒工房として観光スポットになっている) (筆者撮影)

4.英国艦隊のバルバドス討伐
 こうした中で半ば公然とオランダとの交易を続けるバルバドスに対し,宗主国である英国はついに討伐のための海軍艦隊を差し向けたのでした。正規の英国海軍の船がバルバドスに到達したのはこの時が初めてです。艦隊を率いていたのはジョージ・エイスキューという提督でした。
 迫ってくる英国艦隊を待ち受けるバルバドス総督ウィロウビーは,航海法を制定した本国の議会に対し「バルバドスが代表を送ってもいない議会が決めたことに従ういわれはない」と宣言して宗主国に反旗を翻しました。”聞いてない。クロムウェルごときが治める本国がナンボのもんじゃ”という気概だったのでしょう。身のほど知らずのそしりは免れませんが,こんなふうにウィロウビーというのは相当とんがった男だったようです。
 ウィロウビーはエイスキューの艦隊を迎え撃つために,首邑ブリッジタウンを擁するカーライル湾(註3)沿岸やホールタウン,スパイツタウンといった要衝に植民地民兵部隊を配備。オランダも武器や物資を供給してバルバドスを支援します。
 カーライル湾に到達したエイスキュー艦隊を待ち受ける陸上の布陣は歩兵6千,騎兵4百と強固なものでした。この島を屈服させるのは容易ではないと考えたエイスキューは海上からバルバドスに降伏を呼びかけます。が,ウィロウビーは「国王以外の権威は認めない。我々は島を守る」と回答してはねつけました。ここに至りエイスキューは,海上を封鎖してバルバドスを兵糧攻めにする作戦に出ます。
 小さな島は絶体絶命の窮地に立たされました。エイスキューはさらに隙をついて4百人の兵士を上陸させてバルバドス側に大きな損害を与えます。これに動揺した島内の一部が寝返って島南東部のオイスティンス港でエイスキューの部隊に合流してしまいました。
 身内の造反でさすがのウィロウビーも交渉の席につくことに同意します。交渉の末「バルバドス憲章」とよばれる和議が成立しました。憲章の中身を見るとバルバドス側の無条件降伏というわけではなく,互いにかなり譲歩した形跡がみとめられます。憲章はバルバドス内で没収された議会派(つまりクロムウェル派)への財産の返還を保証する一方,英本国で財産を取り上げられていた王党派への財産返還も認められています。そのほかにも,信教の自由の保障,バルバドス住民への課税にはバルバドス議会の同意が必要,すべての国との自由貿易を容認,バルバドス下院議員は現地自由民の選挙で選ぶなど、当時としてはかなり進歩的な内容になっています。

5.ウィロウビー,英国に帰る
 もしウィロウビーが最後まで降伏せずにエイスキューの部隊と地上戦になっていたら,その後のバルバドスの歴史はずいぶんと違ったものになっていたかもしれません。「名誉ある降伏」を可能にしたウィロウビーはしかし,総督の地位を解任されて英国に帰国することとなります。後任の総督になったのは,ほかでもないエイスキューでした。
 この時にウィロウビーが財産没収も投獄もされなかったのは,エイスキューが「ジェントルマン精神」を発揮したためか,あるいはウィロウビーとエイスキューの間になんらかの取り引きがあったのか,そのへんは定かではありません。
 クロムウェル治下の本国に戻ったウィロウビーにはその後も平穏な暮らしがまっていたわけではありませんでした。クロムウェルは1653年に終身護国卿となって苛烈な軍事独裁体制をしきます。ウィロウビーは国内の権謀術数に巻き込まれて2度も投獄されています。
 しかし,クロムウェルはその統治に民衆の不満が昂じるなか,1658年に病死。議会では長老派が勢いを盛りかえし,1660年には大陸に亡命していたチャールズ2世が呼び戻されて王政復古となり,英国は君主制の国に戻りました。

6.最後の航海
 ここでまたウィロウビーとバルバドスの縁が復活します。
 島に戻った彼は,1663年,チャールズ2世によって再度バルバドス総督に任命されました。ところが,今度は落ち着いて島の統治に専念するかと思いきや,彼は総督の仕事を代理の者に任せてしまい近隣の島々への外征事業に取り組みはじめたのです。
 まずはセントルシア島。この島は当時フランス領でしたが,ウィロウビーの船団はフランス駐屯地を攻略。「先住民が島を英国に売却することに同意した」という口実をデッチ上げて島を奪いとってしまいました。(註4)
 つぎに向かったのはオランダが占領していたトバゴ島です。ウィロウビーの船団がこの島に達すると,先乗りしていたロバート・サールという英国人の武装集団が島で略奪行為をはたらいているのに出っくわします。ウィロウビーは乱暴狼藉をやめさせ,英国駐屯地を築いて引き揚げました。(註5)
1666年7月,ウィロウビーは最後の航海に出ます。
 今度は16隻の大船団に千人の兵士を乗せて,フランスにとられていた,北東かなり遠方のセントキッツ島を取り戻しに向かったのでした。ところが,途中グアドループ島のあたりを航海中に悲劇が襲います。船団がハリケーンの直撃を受けたのです。多くの船が被害をこうむり,ウィロウビーが乗った旗艦「ホープ号」は沈没。
 波乱に満ちた人生を送ったウィロウビーはカリブ海の藻くずと消えたのでした。
 ウィロウビーは世を去りましたが,バルバドスはこのあと砂糖輸出で大いに儲け,一時はカリブ英国植民地の中で最も繁栄した島として,そしてそのダークサイドとして,カリブ奴隷貿易のハブとして知られるようになりました。

 フランシス・ウィロウビーとジョージ・エイスキューが対峙したカーライル湾。
 この場所には現在,大型リゾートホテルや洒落たレストランなどが建ち並んでいます。海岸通りを内陸側に渡ると首相府の建物があります。白砂のビーチには欧米からの多くの観光客がくつろぐ姿を見ることができます。(コロナ禍の今はかなり少なくなっていますが・・・・涙。)
 ある時,筆者がカーライル湾沿いの,観光スポットから少し離れた小道をぶらぶら歩いていると,雑草が生い茂り朽ち果てた,かつてはさぞかし立派だったであろう館の痕跡があるのに気付きました。敷地は分厚い石塀で囲まれているのですが,その石塀には,なにやら一列に穴が開けられています。よく見てみると,それは海の方角に向かって作られた狭間(はざま=銃眼)ではありませんか。
 宗主国の艦隊を迎え撃つウィロウビー達がこの狭間から,眼前の青く澄んだカリブ海に向けて鉄砲を構えていたのかもしれません。

カーライル湾の眺め(筆者撮影)

(註1)この11教区は,現在に至るまでバルバドス島内の地域区分として維持されています。
(註2)英国とオランダはスリナムの領有権をめぐって争いましたが,1667年のプレダ条約でオランダが北米のニューアムステルダム(現ニューヨーク)を英国に譲り,かわりにスリナムがオランダに帰属することとなります。ス

(註1)この11教区は,現在に至るまでバルバドス島内の地域区分として維持されています。
(註2)英国とオランダはスリナムの領有権をめぐって争いましたが,1667年のプレダ条約でオランダが北米のニューアムステルダム(現ニューヨーク)を英国に譲り,かわりにスリナムがオランダに帰属することとなります。スリナムは1975年にオランダから独立。
(註3)「カーライル湾」の名称は、バルバドスが英国植民地になって間もない時期に植民地利権を握ったカーライル伯爵(1世)にちなんでつけられました。
(註4)このあとセントルシアをめぐっては英国とフランスが争奪戦を繰り広げ,最終的にナポレオン戦争後の1814年にパリ条約で英国の領有が確定するまで14回も領有権が変わりました。1979年に英国から独立。
(註5)トバゴ島の事情はセントルシア島よりもさらに複雑で,英仏蘭などの間で31回領有権が変わっています。結局セントルシアと同じく1814年に,隣のトリニダード島とともに英国領になり,1962年にトリニダード・トバゴとして独立。