クメール・ルージュ裁判終結 裁判の意義と反省


弁護士、元国際司法協力担当大使、元カンボジア特別法廷国連判事 野口元郎

はじめに

 カンボジアのクメール・ルージュ裁判(以下KR裁判またはカンボジア特別法廷という)は、2022年9月22日に、最後の被告人であったキュー・サンパン元国家元首に対する控訴審判決(無期刑)を言い渡し、全事件の裁判を終えた。1979年のKR敗走から43年、2006年の法廷活動開始から16年が経過していた。私は2006-12年まで控訴審(最高裁判部)の国連判事を務めた。この機会に元判事の立場からこの裁判を振り返り、裁判の意義と反省点について考えてみたい。

裁判の意義

 この裁判の主たる意義として、私は通常以下の五点を挙げている。

 第一に、カンボジア現代史の中でタブーとして闇に葬られつつあったKR時代の国家的規模の人権侵害について、国際標準に則った刑事裁判という厳格なプロセスによって事実を認定したことである。裁判によって、被害状況に加え、いわゆる指揮命令系統についてもある程度解明されたことは、KRの犯罪が文字通り国家的規模で行われたことを示すと同時に、重い責任を負うべき者とそうでない者を区別する指標を提供し、これは後述する国民和解の前提ともなる。

 第二に、極く限定された人数ではあるが、被告人が有罪判決を受けて処罰されたことにより、被害者や国民が長年待ち望んだ正義が部分的ながらもたらされたことである。16年かかった裁判で起訴された者は5名、そのうち判決確定前に2名が死去しているので有罪判決が確定したのは3名(うち1名は残りの事件の裁判中に死去)であり、旧ユーゴスラビア、ルワンダなど過去の国際刑事裁判に比べて起訴された人数や判決数が桁違いに少ないことは否めない。起訴の対象をなるべく狭めようとするカンボジア側と、なるべく広く確保しようとする国連側の考え方の違いは、第三、第四事件をめぐる両陣営の長年のせめぎ合いという形で現実化した。とは言え、有罪判決が確定した者のうち1名は悪名高いS21政治犯収容所の元所長であり、残り2名は、それぞれ政権NO.2と国家元首といういわゆるシニアリーダーズの一員であったから、人数は少ないが、被告人、公訴事実とも、KR時代を象徴するようなものであり、それらについて司法の裁きが下されたことの意義は大きい。私が担当した第一事案の控訴審判決が一審の禁錮35年を破棄して無期刑を言い渡したのちにS21の生き残り被害者の1人が「ついに正義がもたらされた」と述べたことは、おそらく既に亡くなっていた人も含めた多くの被害者や国民の思いと重なるところがあったのではないか。

 第三に、裁判が犯罪地であるカンボジアの首都で行われ、かつ裁判手続きが被害者参加と被害者損害賠償を限定的ながら採用したため、被害者、証人を含む多くの国民が裁判手続きに直接参加したことである。法廷傍聴、スタディツアー、学校訪問などを通して法廷の活動に触れた国民の数は2009-20年だけでも約63万人とされる。ラジオやテレビの番組でも法廷の審理の状況は広く紹介された。これら活発なアウトリーチ活動により、特別法廷の意義や活動、審理状況等に関する国民の理解と関心が深まり、それは結果として16年も続いた長い裁判を支える強固な支持を生む原動力となった。

 さらに、多くの国民が直接間接に法廷の活動に触れ、KRの時代に何が行なわれたかを知るようになった結果、学校の教科書もそれを取り上げるようになり、ひいては、国民の間、特に若い世代の間でKR時代について自由な討論を行う雰囲気が生まれ、再発防止や国民和解の土台が築かれていった。

 1990年代以降の国際刑事裁判は全て犯罪地国以外の遠隔地で裁判を行い、その結果、裁判が被害者や被害国民に十分に理解・支持されていないという批判がつきまとったが、特別法廷は犯罪地国の首都プノンペンに設置されたことの強みを最大限に生かしたと言ってよいと思う。

 第四に、カンボジア司法界に対するキャパシティー・ビルディング効果である。カンボジア政府は、法廷の活動開始当初からこれを重視し、その効果に期待する旨公言していた。実際、カンボジア側司法官として選任されたメンバーは、カンボジア司法界を代表する最高幹部を多く含む布陣であった。しかもそのほとんどは開始当初から最後まで変わっていない。彼らは16年間、国内司法と特別法廷の司法官を兼務しており、彼らやカンボジア側職員が国連側の司法官や職員と共に特別法廷で働き学んだことは、徐々にではあるがカンボジア刑事司法の実務に反映されてきている。特別法廷のようなアドホック裁判所はその使命を終えれば幕を閉じるので、その過程を通じて司法官や職員が学んだことが国内司法に十分に生かされていくことは大変重要であり、それがある程度成果を挙げられれば、特別法廷の意義はその存続期間を超えてレガシーとして残るとも言えるのである。

 第五に、国際刑事司法に対する貢献がある。特別法廷は、捜査判事制度、被害者参加、損害賠償制度を取り入れたことなど、国際刑事司法の世界で初めての試みをいくつか行っている。例えば被害者問題は私自身がその後ICC(国際刑事裁判所)の被害者信託基金理事長を務めた間(2012-18年)、ICCの制度や実務の構築をしていくに当たって大いに参考とした。他にも、特別法廷の判決の中には、国際刑事裁判の判例として価値のある論点もいくつか出ている。

反省点

 次に反省点を見てみたい。

 第一に、時間がかかりすぎた。その間に被疑者、被告人だけでなく、被害者、証人、一般国民がどんどん世を去った。特別法廷は、設置された段階では活動開始から3年で捜査から控訴審判決まで全て終わると想定されており、予算もそれを前提に組まれていた。それが16年もかかった最大の理由は、構造と手続きが複雑すぎたためである。特別法廷の手続きは、カンボジアと国連の間の設置条約に記載されている基本的枠組みに加えて、カンボジア刑法、刑事訴訟法、そして司法官団(双方の裁判官+検察官)が1年がかりで作成した内部規則(他の国際刑事法廷の手続き証拠規則に相当するもの)など複数のソースによっているが、捜査公判実務の手続きの大半は内部規則によって動いている。それを複雑にしたのは、まずもって、司法部門から事務局部門まであらゆる部門がカンボジア側と国連側の二重構造になっていることから来る意思決定の複雑さである。次に、フランス法型の捜査判事制度(カンボジア刑事訴訟法でも採用されている)を採用したことにより、検察官との関係が複雑になった上、捜査段階での意思決定を裁く機関として裁判前裁判所を設けたことにより、起訴不起訴を含む1つの意思決定が確定するまでに複雑なキャッチボールと異議申し立て手続きがあり、それに書類翻訳に要する時間が加わって、いちいち数か月を要することになった。

 捜査判事制度を採用したということは、捜査には年単位の時間がかかるが裁判は短期間で終わるということであり、スタート前に国連が作成したスケジュール表では裁判は控訴審を含めても1年前後で終わるとされていた。それが蓋を開けてみると数年かかったのは、特に第二事案では被告人が徹底的に争ったのに応じて公判でコモンロー法制下のような当事者主義的訴訟構造を大幅に取り入れ、被害者や証人の尋問、被告人質問などに十分な時間を割いたからである。これは書面審理中心の裁判と比較して手続きを可視化し、裁判に対する国民の理解を促進するために止むを得ない面もあったかもしれないが、見方によっては、大陸法系とコモンロー法系の長くかかる部分をつなぎ合わせた手続きになってしまったということである。

 被害者参加、被害者損害賠償手続きを限定的ながら採用したことも、裁判に予想外の時間がかかった理由の相当部分を占めている。この点は司法官団が内部規則を制定する際に最も迷ったところであるが、結果的には、前述のとおりこれらを導入したことで裁判に対する国民の理解・支持向上に大いに貢献したので、メリットが上回ったと言えると思う。

 ただし、時間がかかりすぎた理由は制度的なものだけではない。特別法廷側はドナー会議に対し定期的に「裁判スケジュール」を提出していたが、それが予定通りに進行したことは私の知る限り一度もなかった。遅延の理由は様々で、司法官のコントロール外のものも少なくなかったが、司法官が団結して取り組めばもう少し何とかなるのではないかと思われることもあった。私が在任中はできるだけのことはしたつもりであるが、ただでさえ複雑な二重構造の中、国連判事もそれぞれ意見が異なり、迅速化を内部から促進するのは容易ではなかった。国連は資金難にも鑑み、国連やドナーの側から手続きの迅速性やスケジュールどおりの実施を担保させるような方法はないかとずいぶん議論したが、名案は見つかっていない。

 第二に、お金がかかりすぎた。これは時間がかかりすぎたことのほぼ当然の帰結である。結局国連側とカンボジア側の合計で約337ミリオンドルかかっており(2022年8月現在)、日本はこのうちの約88ミリオンドル(約27%)を負担している。それでも法廷は、特にその活動の後半、度々資金難に見舞われ、カンボジア側司法官や職員の給料遅配や、国連側職員の募集制限などが珍しくなかった。ただしこれをカンボジア特別法廷固有の問題とすることは正しくない。当時、およそ国際刑事裁判と名の付くところは例外なく資金難に見舞われていたからである。

 財政面に関しては、日本政府による財政的貢献がなければ特別法廷はそもそも活動を開始できなかったし、16年間続けることもできなかったのは明らかである。この点は予算折衝に当たった関係各位の御努力とともに特筆されるべきことであろう。

 第三に、結果論であるが、もう少し日本人の職員が出ればよかったという思いは残る。カンボジアという地の利の良さ、圧倒的な日本の財政的貢献、並行して行われていた日本政府による法整備支援などの有利な要素からすれば、国連側職員の1-2割の日本人がいても全くおかしくなかったのであるが、実際には他の国際刑事法廷と同様、ここでも欧米人が国連側職員の大多数を占めた。日本人は、私が判事を6年務めたほか、広報部門に前田さん、捜査部門に藤原さんといった優秀なベテランが数年間勤務し、大いに貢献したが、総数で数名を超えることはなく、インターンを含めても数えるほどであった。

 邦人職員増強問題には外務省の担当部署は終始熱心に取り組んできたし、私もあれこれ知恵を絞ったが、短期的な決め手はない。特別法廷に関して言えば、最大のハードルは、2000年代に隆盛を極めた国際刑事法廷の多くが既に任務を終えて店仕舞いしてしまい、今や業界としての雇用キャパシティーが大きく縮小しているため、どのポストも競争は激しく、他の法廷で同等レベル程度の経験がないとショートリストにも残らないというのが実態だからである。また、採用する側としては、英語しかできない者より、英仏バイリンガルの方をどうしても重宝する。経験がないので採用されない、だから経験を積めないという悪循環である。また人材のソースも限られている。前記の財政難が国連側の採用も圧迫したので、ジョブセキュリティーという意味ではどんな人にでも勧められる職場とは言い難い面もあった。これらを総合して人材の層の厚みがないと言ってしまえばそれまでだが、国際機関における邦人職員増(特に幹部クラス)の問題は国力にも直結するので、今後も中長期的に考えていく必要がある。

終わりに

 ロシアによる戦争犯罪が白昼堂々行われている今、カンボジア特別法廷が事件から数十年後に司法の裁きをもたらした事実は重い。人道に対する罪や戦争犯罪には時効はないのである。日本人として、特別法廷で国連判事を務め、正義のプロセスに貢献する機会をいただいたことは、私の職業生活の中でも最大の幸運であった。