エリザベス女王の思い出


元駐英大使 林 景一

 2022年9月8日、70年余在位されたエリザベス女王陛下(以下敬称略)が96歳で崩御された。TVでも放映されたように、国葬に先立つ棺の公開安置の際には、長蛇の列をなして哀悼の意を表する25万人もの英国民の姿が見られた。これは、70年の在位を通じて女王がいかに英国民に敬愛される存在であったかを示したと思う。また、我が天皇皇后両陛下やバイデン米大統領を始め、世界中の要人が葬儀に参列したことは、英国女王というかエリザベス女王の存在が、国際的にもいかに大きかったかを示したものであったといえよう。同女王のご即位は1952年、私の生年は1951年であるから、70年のご在位は、私の人生とほぼ重なる。その意味で様々な感懐があるが、私は、たまたま、女王ご在位の晩年にロンドン及びダブリンに相当期間勤務する機会を得た。具体的には、政務参事官(後に名称公使)として3年(1996-99)、特命全権公使として1年弱(2010-2011)、特命全権大使として5年半(2011-2016)と、 3ポストで2回、計9年余英国に在勤する機会を得たのである。また、この間に、英国に隣接して、歴史的、経済的、社会的にも最も近く、愛憎半ばする隣国アイルランド に大使として2年半(2005-2008)在勤したので、結局、90年代後半からBrexit直前の2016年5月まで、エリザベス女王の晩年の20年(女王が70歳から90歳までの期間)の内、半分以上の計12年近くにわたり、いわば現場において、直接、間接に女王の動向を見聞することとなった。この間、在英大使館にあっては、天皇皇后両陛下(当時。現上皇上皇后両陛下)の国賓ご訪英(1998年)、同両陛下の女王ご即位60周年記念行事(Diamond Jubilee)ご出席(2012年)等の二国間重要行事を含め、女王の動向を直接間接に見聞する機会があった。そうした体験を通じ、女王について特に印象に残る思い出を数点述べてみたい。なお、公表されたもの以外、女王以下王族のご発言の引用は差し控えるべきと考えるので、やりとりは抽象的になっていることをご理解願いたい。

1.女王との出会いと印象(心身の強靭さ)

 96歳までのご長寿ということであるから、客観的にみても強い生命力を持っておられたことは疑いないが、70年にわたり、君主として様々な公務をこなしてこられたことは、女王は心身共に強靭な方であったことを示していると思う。長患いもされることなく、崩御の二日前にリズ・トラス氏への大命降下の会見をされた後、大きな蝋燭の炎が静かにすーっと消えるように逝去されたことも、私には、潔い印象と共に、ぎりぎりまで君主としての公務をきちんと遂行した上で、この世を去られるタイミングまで自ら決めるという意思を持って実行されたようにすら思える。70年に及ぶ女王のご在位中に、女王にお目にかかった人、言葉を交わした人は数知れない。70年の在位下の英国首相は、トラス首相を含めると15人に上る。また、ロンドンには大使が多い。即位当初はおそらく50人程度であっても、現在では170人に上る大使(及び高等弁務官)が駐在するから、女王陛下の70年の在位中に信任状を捧呈して接受された各国大使は、推計で2千人にも上るであろう。我が方大使だけでも、21人に上る。私が信任状を捧呈したのは2011年2月であり、女王は85歳近くになっておられた。私は、女王にご挨拶する日本国大使としては、もう18人目であったが、女王は、飽きたそぶりは微塵もお見せにならなかったどころか、新任大使に、本当に関心を払っておられた。少なくともそういう印象を与えるように気を配っておられるように見えた。私が、以前にも政務参事官として3年勤務しており、今回も特命全権公使からそのまま大使に持ち上がったという経歴を予めご存じで、その経歴を面白く思われたようであった。そして、我が方公使から直接大使に持ち上がった先例は、100年以上前、日露戦争での勝利直後の1905年に、日英外交関係が、特命全権公使から特命全権大使のレベルに格上げされた際の林董(日露戦争の勝因の一つとなった日英同盟条約の日本側署名者)にまで遡るということ、また、以来、林姓の駐英大使が私で四人目であることなどにも興味を示されて話が弾んだ。女王の目から見ると、総じて似たような背景の大使たちを70年にもわたって次々と接受するというのに、気まずい沈黙など全くなく、親しく相手の話に付き合い、相手に関心を示すということは、並大抵ではない。ご高齢にもかかわらず、女王が強い意志(と体力)をお持ちなのだと印象づけられた。

(写真)エリザベス女王陛下への信任状捧呈式(王室提供)

 実は、私が女王とお話させていただいたのはこれが最初ではなかった。女王と最初にお目にかかって会話をしたのは、政務公使時代の1998年2月12日(女王71歳)、林貞行新大使の信任状捧呈に随行する6名の幹部館員の一人として、王宮差し回しの3台の馬車の内の1台に乗って、バッキンガム宮殿に参内して、林大使から紹介された時である。大使による信任状捧呈のやりとりは、女王と一対一で行われる(ただし、英側の外務事務次官が、黒地に金モールの大礼服姿で介添役として侍立)。この間、私を含む随員は隣室で待機させられ、女王のやや甲高い声が時折漏れ聞こえるものの、よく聞き取れなかった。続いて、次席の特命全権公使以下プロトコル順に、一人ずつ呼び込まれる。5番目で、政務公使として紹介されたところ、日英間の政治関係の現状に関わるご質問に対して、緊張のあまり、Yes, very muchの後、 Ma’amと言うべきところをSir(!)と言いかけてしまう。語尾を口籠もって、(very much)Sirをsoみたいに発音して、なんとか取り繕った記憶がある。ただ、私が緊張しているのを看て取ってか、にこやかに笑って、二の矢の質問をされなかったのは温かい気配りであったろう。その後、毎年恒例のバッキンガムでの園遊会(初夏)や夜会(晩秋)、1998年5月の天皇皇后両陛下(当時)の国賓訪問などでお見かけして会釈する機会はあったが、私自身が女王と会話した記憶はない。しかし、大使となった2011年以降は、園遊会や夜会では、女王以下の王族に個別に紹介されるので、簡単なやりとりをさせてもらった。園遊会や夜会は、我々にとっては、年一回の行事(最後には二年に一回となった)であっても、被招待者のグループを変えて、何回かに分けて行われているようであり、80歳代後半、更には90歳を超えた後も、毎回、千人単位の人に交じって何百人もの人とにこやかにお話されていた。もとより、外遊や外国賓客の受け入れなども着々とこなしておられた(外遊は最後には限定された。)ので、心身共にタフでないとできないと思った。確かに、私の在任中まではずっと公務に同伴しておられた、5歳年上のエジンバラ公に精神的に支えられたということは大きかったかもしれないが、基本的には、女王は、国王としての公務について強い使命感、責任感をお持ちで、これが最後まで心身を支えていたということであろう。その意味でも尋常ではない方であったと思う。

(写真)エリザベス女王陛下と懇談(王立国際問題研究所提供)

2. ダイアナ事件の危機とその克服にみられた即応性と柔軟性

 私がロンドンに初めて赴任した1996年8月にチャールズ皇太子とダイアナ妃の離婚が成立した。しかし、その数年前、女王ご在位40周年の慶事のあった1992年には、女王のお子達4人の内、3人に離婚や別居等のスキャンダルが、相次いでマスコミをにぎわせていた。すなわち、長女アン王女の離婚、次男アンドリュー王子の別居(96年に離婚)、そして長男チャールズ皇太子の別居であった。同年にはウィンザー城の火災もあって、女王が「ひどい年(annus horribilis)」と表現された一年であったが、その後も王族の離婚や再婚をめぐるマスコミの騒ぎは収まらず、国民の王室に対する信頼を揺るがせていた。このため、世論調査においても、王制への支持が下がっていたようである。中でも、ダイアナ妃の問題は、王位継承順位第一位の皇太子夫妻をめぐる重大な問題であり、インパクトは大きかった。ダイアナ妃は、1980年、チャールズ皇太子と世界中に祝福されて結婚し、相次いで世継ぎの男子を2人もうけたものの、チャールズ皇太子の不倫疑惑で不和となったとされる。1992年の別居発表から1996年の離婚に至る騒動は、女王にとってembarrassment であり、女王以下他の王室メンバーは、ダイアナ妃に距離を置いて冷ややかに見ていたとされる。その一方で、同妃の美貌と華やかなファッションや言動、特に、1995年11月のBBC『パノラマ』インタビューでの不倫やいじめ等の暴露など、メディアを通じたチャールズ皇太子や王室批判の一方で、対人地雷禁止運動やエイズ患者救済など、弱き者、不幸な者に直接手を差し伸べる、献身的なチャリティー活動が耳目を集めていた。離婚後には、エジプト系の大富豪の子息との交際がニュースとなっていたが、1997年8月末、スクープ写真を求めるpaparazziの追跡をかわすべく自動車で高速走行中に発生した交通事故によって突然亡くなった。国民の多くは、タブロイド紙の扇動も手伝って、ダイアナ妃は、交通事故死とはいえ、王室という体制側、富める強者からいじめられた結果早世した悲劇のヒロインであり、弱き者、貧しき者の味方ということで、民衆の共感を呼ぶ人物だと捉えており、その死を悼む巨大なうねりが起きた。当時私の住む政務参事官用官舎は、ケンジントン・コートという一角にあるアパートであったが、ダイアナ妃一家が住んでいたケンジントン宮殿のすぐそばであった。このため、宮殿に花を供える無数の人が続々現れ、宮殿の鉄のゲートの周囲が花で埋まるのを目の当たりにした。タブロイド紙に煽られた同妃への共感と同情は、反作用として、女王を含む王室への批判、反感となって現れているのも見てとれた。事件当初、女王は、たまたまスコットランドでの恒例の夏休みを過ごしておられて、メディアに出る機会はなく、また、おそらくダイアナ妃はもはや王室の一員ではないという判断もあって、追悼コメントも伝えられなかった。女王としては、孫である二人の遺児がマスコミに晒されるのを避けるということが最大の考慮だったという見方もある。このため、世論は、王室はダイアナ妃に冷たいと受け止め、異例の女王批判の声が上がった。しかし、これに対する女王の反応は迅速であった。おそらく広報に長けたブレア首相の助言もあったとされるが、女王は、ほどなくして王宮に、ユニオンジャックの半旗の掲揚を命じて公式に弔意を示し、自らTVに異例の生出演をして、直接国民に説明をされた。その中では、女王として、また、(母を事故で亡くした2人の若い王子の)祖母としてダイアナ妃の死去を悲しんでおり、また、ダイアナ妃を称賛し、敬意を表するとの趣旨の哀悼のメッセージを発信された。私もTVで見ていたが、短時間の準備で行われた生放送とは思えないくらい落ち着いておられ、(表現が拙いが)「肚の坐った」スピーチであり、真摯な気持ちがよく伝わるものであった。ダイアナ妃は、形式的には既に王室の一員ではなかったが、女王の特別の計らいにより(おそらく、第二、第三順位の王位継承者の母親としてという整理であろう)、ケンジントン宮殿から、王室旗で覆われた棺が近衛騎馬兵の護衛する馬車で運ばれ、ウェストミンスター寺院という最高の格式の場において、盛大に、いわば国葬に準ずる形式で行われた(我が国を代表して藤井宏昭大使が参列)。私の官舎がある地区は、普段は閑静な住宅街であるが、この時ばかりは、最寄りの地下鉄駅から、葬列の通る沿道に向かう民衆の人波で騒然とした。ケンジントン宮殿からウェストミンスター寺院までの沿道では百万人以上の民衆が葬列を見送り、TVの視聴者は、英国人口の半分以上に当たる3千万人以上だったとされている。ダイアナ妃の死は、それでなくとも、90年代に入ってから相次いでいた女王のお子達の離婚や別居等のスキャンダルによる王室のイメージ悪化に、女王ご自身への批判という決定的打撃が加わって、王制廃止論を一気に高め得る状況にあったと思う。そういう意味において、ダイアナ妃事件は、一種の王制の危機であった。しかし、女王ご自身が、危機を察知するや否や、国民感情を見極めて、素早く慣例にとらわれない思い切った決断をして、女王は国民と共にあることを言動で示した。このことによって、女王批判は一気に沈静化したのみならず、むしろ女王に対する敬愛の念が高まったように思われる。女王は、こうして、危険を察知した場合の即応性と柔軟性によって、自らこの危機を乗り切られたといえよう。

3. 国民和解の象徴的役割

 女王には、大英帝国の正負を問わない遺産の継承者として、国家間、国民間の和解など、負の遺産を解消していく上で、果たすべき一定の役割がある。
 その最良の実例は、アイルランドとの和解であった。アイルランドは、12世紀のヘンリー2世の時代以来、英国の植民地支配を受けたが、王権の教権からの独立を求めた英国における宗教改革以降は、カトリックが圧倒的に多数のアイルランドは、プロテスタントの英国王権に対する反乱を繰り返し、1801年には、連合王国に併合された。1919年のイースター蜂起に続く1920年代初頭の対英独立戦争及び内戦の結果、アイルランドは、英国国王を元首とする英連邦内の自治領となったが、その際、プロテスタントが多数を占める北アイルランドが分離されて英国に留まることを受け入れさせられた。その後、アイルランドは、完全独立を達成して共和国になったものの、いわば英国によるアイルランド支配の残滓ともいうべき南北分断は続いており、南北統合は多くのアイルランド人の悲願である。しかし、北アイルランド内部では、英国王に忠誠を誓う多数派のプロテスタントが、カトリックのアイルランドとの併合には反対しており、南北統合を望む少数派カトリックと激しく対立して、3千人以上の死者を出した30年に及ぶ北アイルランド紛争の悲劇を生んだ。こうした経緯、背景から、アイルランド独立以降、英国国王のアイルランド訪問は行われていなかったのである。ところが、私の一回目の在勤中、1998年に「ベルファスト合意』あるいは『Good Friday Agreement 』として知られる和平合意が成ったことで、ようやく紛争終結のめどが立った。その合意履行のための呉越同舟の連立自治政府は、成立しては機能停止を繰り返していたが、2007年、孫の世代に紛争を残さないと決意したイアン・ペイズレーやマーティン・マクギネスら両派のトップが率いる連立自治政府が発足し、真の和平実現の機会が訪れた。この流れを受けて、2011年、女王の歴史的なアイルランド訪問が実現したのである。政治的にも物理的にも一定のリスクのある訪問ではあったが、アイルランド世論が成熟していることと、北アイルランド紛争の和平が実施段階に達したことから、機は熟したという判断があったのであろう。

 しかし、なんといっても女王のパフォーマンスが見事であった。すなわち、「エメラルドの島」と称されるアイルランドの象徴であるエメラルド・グリーン色の帽子とコートに身を包んでダブリンに到着し、まずアイルランドに敬意を表することから歴史的訪問を始められた。ニュースでその服装を見てオーッと声を上げたのは私だけではなかったはずである。そして晩餐会でのスピーチの冒頭、「大統領及びご列席の皆様」という呼びかけをアイルランド語で切り出して、アイルランド官民を感動させた(アイルランド語は、基本的にアルファベットを用いるが、発音はその表記と異なっており、発音自体かなり難しい。)。実は、女王によるアイルランド語の使用がアイルランド人に感動を与えた背景には、英国の苛烈な植民地支配の下、アイルランドの貧農が、生きるために子供をアメリカやカナダなどに移民させようとして、親が子供に、アイルランド語を放棄して英語を学習させたという悲劇的な歴史がある。また、女王が献花に訪れた国立追悼公園は、独立戦争に至るまでの多くの対英反乱で処刑され、あるいは戦死した多数の「反逆者」たちを今やアイルランド独立の英雄として追悼する記念施設である。女王は、ここにある記念碑に献花して軽く頭を下げて敬意を表された。ただ、私には、単なる軽い会釈以上のお辞儀に見えた。そして、これに先立ち、アイルランドの軍楽隊が『God Save the Queen』を演奏して女王及び英国に敬意を表した。女王は、更に、南部のコークという、反英闘争の根拠地として知られる都市を訪問して、そこで市民と親しく交流された。こうした一連の行事は、いずれも、かつては想像もできなかった行動、行為であった。これらの行事を女王自身がにこやかに、和やかに行うことによって、英愛両国の和解が成ったことを内外にアピールしたものであり、そのことがまた、和解の気運を増進させるものであったと評価できる。

 北アイルランド和平というのは、憎み合ってきたカトリック、プロテスタント両派による共同統治という形で北アイルランド自治を達成し、その実績を積み重ねて、いずれは住民投票で北アイルランドの地位を決しようという構想である。北アイルランドの統治者でもある女王が、アイルランド共和国と英国との和解を体現する訪問を行ったということの政治的意味は大きい。将来的な住民投票への長い道のりの重要な一里塚であるといえる。私は、女王に長年仕えた側近に、私がロンドンに縁を持った20年の期間において、女王との一番楽しい思い出は何かと聞いたことがある。私は、ロンドン五輪開会式でのパラシュート降下という答えを期待していたのだが、女王のアイルランドご訪問が一番楽しい思い出であったという答えが返ってきた。上記のような、多少のリスクを伴う二国間関係の和解の象徴的行為を行うことは、まさに国王のみがなし得ることである。いろいろ工夫して、効果が大きく、実はリスクが合理的な範囲内だと計算された行事を実施していただき、それが見事にはまったことは、国王側近としての冥利に尽きるということであろう。

4.政治社会の安定性を与える「錨」の役割

 英国の国王も、立憲君主制の下、政治には関与せず、言動は政治的中立を保つべきこととされている。女王も、その原則には忠実に、政治向きのことには一貫して慎重な言動を保たれた。しかし、政治や社会が極端に振れたり、急激に動こうとしたりするとき、女王の、原理原則に則った、いわば当たり前の言動が、長いご在位の経験の重みと相まって、結果として安定志向の意味合いを持つことがあったように見受けられた。例えば、2014年9月のスコットランド独立を問う住民投票の直前に、当時88歳の女王は、「有権者が非常に注意深く考えるよう」望むと発言されたことがある。これは本件が連合王国にとって極めて重要な投票である以上、当然のことを述べられたものといえるが、感情に流されず、理性に基づいて投票してほしいという意味であるから、この文脈においては、国家の安定つまり現状維持を望むという色がにじみ出ていたといえよう。

 また、外交面でも、これはと思うことがあった。2015年当時(女王89歳)、英国キャメロン政権は、当初は、先例に則って、非公式な形で、首相がダライ・ラマと面会(2012年5月)するなど、対中関係で筋を通した対応をしていたが、ダライ・ラマの件で中国から激烈な反応があって、結局その経済力を梃子とした圧力に屈して、事実上もう会わないと約束させられた。その後は、オズボーン財務相主導の下に、西側の先頭を切る勢いで対中傾斜を強め、『英中黄金時代』を喧伝していた。前年には、李克強首相が訪英したが、到着時に空港でもっと長い赤絨毯を引けと要求したとか、ウィンザー城に滞在中の女王に会見させなければ訪問をキャンセルすると脅したと伝えられるなど、居丈高な姿勢が目立っていた。女王は不快に思っておられたようであるが、英国政府は、ダライ・ラマで懲りており、中国の市場や資金力に目が眩んだ感もあって、唯々諾々とそうした要求に応じて話題になっていた。折しも香港では、教育や行政長官選挙などの面で、締め付けが厳しくなりつつあったにもかかわらず、英国が、日米の意向を無視し、G7の先頭に立って、中国主導のAIIB(アジアインフラ投資銀行)への参加を急いだのもこの頃であった。そのようなやや浮ついた対中傾斜の流れの中で、2015年11月、習近平主席が国賓として訪英したのである。中国の鼻息は荒く、習近平は、民主主義の総本山ともいえる英国議会を訪問した際、英国における法の支配確立は1215年のマグナ・カルタに遡るが、中国では、2千年前に、既に法の支配があった(秦の頃の法家のことか)などと誇らしげに述べていた(外交団も呼ばれており、私もその場にいて、秦の時代の統治が「法の支配(rule of law)」と呼べるのか、むしろ「法による支配(rule by law)」に過ぎないのではないかという気がして、同席の英国の議員たちにもそうささやいたが、誰からも反応はなかった。)。

 そういう雰囲気の中でバッキンガム宮殿での公式晩餐会が行われた。習近平は、そのスピーチの中で、抗日戦争勝利70周年を前面に出して、英中は日本の侵略に対抗した戦友だとぶち上げた。しかし、これに対し、女王のスピーチでは、(1)30年前の初の訪中時に、鄧小平に会ったことに触れつつ、その改革開放路線で中国が大発展を遂げたこと、そしてその「先見性のある」一国二制度の構想のお陰で香港返還が実現したことを述べられた。いわば鄧小平の権威に依拠して、一国二制度の大原則の擁護、遵守の必要性を改めて強調された。そのうえで、(2)今年は国連創設70周年であり、英中は、共に常任理事国として、法に基づく体制(rule-based system)を導く責任があることを述べて、中国が国際法秩序を守る責任があることを強調されたのである。なんら批判の余地のない原理原則についての当然の発言ではあるが、中国が、香港で締め付けを強め、南シナ海や東シナ海で強引な主権の主張を強めるなど、国際合意や国際法を無視して高圧的にふるまっているという文脈においては、中国をたしなめ牽制する意味合いを持つことになる。私はそう受け止めた。また、そうした原理原則が重要だというメッセージは、間接的には、対中傾斜で浮かれるキャメロン政権にも向いていたように私には聞こえた。女王主催の国賓行事には2-3組限定で外国大使が招かれるのが慣例であるが、その中に、日本の大使が呼ばれたのであり、私は、王宮が、日本は中国の隣人として、習近平訪英に多大の関心を有しており、また、AIIBの件を始め、英国の対中傾斜を心配していることも考慮して選定してくれたのだと思った。一般に、晩餐会のスピーチはかなり儀礼的なものであることが多いから、私も、ここまでのメッセージが女王から出てくるとは想定していなかった。しかも、女王のメッセージはそれだけではなかった。外交行事では、どういうワインを供するかは、おもてなしの上で相応の意味を持つことが多い。この夜に供された赤ワインは1989年の『シャトー・オブリオン』であった。周知のとおり、これはボルドー一級格付けの最高級ワインであるが、その中でもこのビンテージは最高評価が付されているものであって、国賓へのおもてなしにふさわしいものであった。同時に、私の外交官としての感覚では、そのおもてなしの裏に、1989年に発生した天安門事件を忘れてはいないというメッセージを含んでいると解釈できると思われた(万一、中国側が問題提起しても、王宮側は、おもてなしとして最高級ワインの最高のビンテージを出したもので、1989年に特別の意味を付すのは考えすぎだと答えるのであろう。)。つまり、女王は、国賓を完璧に接遇しながらも、中国が居丈高な姿勢を示し、英国政府がその勢いに流されかねないという構図の中で、慎重な言動ながら、英中関係の原理原則を改めて想起することで、どっしりとした錨のように、毅然とした外交の基本姿勢を示されたのだと思う。英国国王は、統治はしないし、政治的中立を保つが、政治に関わる言動を一切してはならないという制約まではない。誰も批判できないような慎重に練られた言い回しではあるが、文脈によって一定の政治的意味を持つメッセージを出すことができる主権者(Sovereign)なのだと再認識した次第である。

5.王制の今後

 最後に、チャールズ新国王の治世の見通しについて触れておきたい。
 新国王には、不倫によって妻ダイアナ妃を死に追いやったというナラティブによって否定的なイメージができ上がっているのを克服するという難しい課題がある。なにより、前任者が偉大である場合、後任者は、比較されて苦労するというのが相場である。とはいえ、長年皇太子として修行してこられたのであるから、案外うまくいくのかもしれない。私の在勤時代、チャールズ皇太子は、人権や環境重視の観点から、中国に批判的であることを隠さず、例えば、習近平の国賓晩餐会を欠席したことが話題となった。「英中黄金時代」まっさかりの当時であるから、批判的な論者には、このような態度は、皇太子がやや変わっていることの証だという受け止めすらあったように思う(ただし、チャールズ皇太子も、自らが主役となる、習近平夫妻とのお茶などの行事はきちんと行っている。)。しかし、今となっては、チャールズ皇太子の一貫した中国への批判的態度は、原則重視、一貫性あるいは人間性といった観点から、好ましく見られるポイントではあるまいか。英国政界のある長老も、チャールズ新国王は、良い意味で我々を驚かせるのではないかと、私に述べていた。

 実際、私の体験では、レセプションなどでお会いしたチャールズ皇太子(当時)は、王族の中では、女王を除くと、最もengagingで話題の広い人であり、当時の世間の悪評からすると、意外な感じを受けていた。会話の端々から、例えば、我が国の震災被災者の状況、復興の状況(エネルギー、水産物)などをよく理解し、温かい気持ちを持っておられることに印象付けられたことを覚えている。また、皇太子として天皇陛下の即位礼に出席された翌日の在京英大でのレセプションで、私もご挨拶する機会があり、主催者のマッデン大使が、私を、「駐英大使としてご記憶かもしれないが、その後最高裁判事に就任している。」と紹介してくれた。皇太子は、これを聞いて、もう一度聞き返されたくらいで、そういう転身がなされたことに、本当に驚いて強い関心を示された。私は、そこにとても人間的な感じを受けた。
 以上のようなことから、私見では、多少時間はかかるかもしれないが、新国王をタブロイド紙を通じて否定的にしか知らない国民が、国王としてより身近に接する機会が増えるにつれて、イメージが好転することはあり得ると思う。既に、代替わりはスムーズになされた。加えて、ウィリアム皇太子の人気もある。こうしたことから、私は、英王室にとって、女王逝去は大きな節目であり、試練ではあるが、女王亡き後の英国王室の将来が危ういという見方よりも、当分は安泰だという見方の方に、より傾いている。

(写真)チャールズ皇太子殿下(当時)とご挨拶(SONY提供)