ウクライナ侵攻1年、分断が進むオリンピック世界をどう立て直すか


日本オリンピック・アカデミー会長、日本パラスポーツ協会評議員
早稲田大学招聘研究員、元駐ギリシャ大使 望月敏夫

はじめに

 ロシアによるウクライナ侵攻1年、パリ五輪パラリンピック大会まであと1年少し、世界や日本でオリンピック運動が揺れている。ロシアとベラルーシ選手を国際競技大会から排除すべきか否か、IOC の対応をめぐり各国政府や国際スポーツ界に分断が深まり、競技大会への参加という手続的問題を超えて対ロシアの象徴的な政治外交問題に発展している。来年夏のパリ大会のボイコット論まで聞かれ、旧ソ連によるアフガニスタン侵攻に絡む1980年モスクワ五輪のボイコットとそれに続くロスアンゼルス五輪の報復ボイコットという五輪史上最悪の事態が頭をよぎる。

 足元の日本では、東京大会の開催をめぐる国論の分断に上塗りする如く、大会組織委員会関係者と民間企業の不正容疑が発覚し国民の間に五輪そのものへの幻滅を招き、1964年東京五輪以来の世界屈指の五輪愛好国に亀裂と分断が生じている。この影響もあってか、2030年札幌冬大会招致にも国内的盛り上がりを欠き賛否が分断されている。海外の五輪ファミリーの分断が国内の分断を広げている面もある。

 五輪の歴史は古代ギリシャ以来大小のクライシスの歴史であり、政治への向き合い方以外にも環境や財政問題など多くの課題に悩まされてきた。五輪の消極面を書き立てるのはやさしいが、他方でスポーツそのものの隆盛、国民の連帯、女性や障がい者の地位向上など、消極面を補って余りある効果を出している。この小論ではこの五輪の全体像を描く余裕はないが、現下の課題に限定してどう対処すべきか、筆者が講義や書き物で従来から用いている「スポーツと政治・外交の相互関与」の分析枠組み【注】に則り、私見を述べてみたい。

【注】「2020+1東京大会を考える」(日本オリンピック・アカデミー編著2021年メデイアパル社)ご参照。

1.“どうするトーマス”

 トーマス・バッハIOC会長は、ウクライナ侵攻勃発直後にロシアとベラルーシでの国際大会開催禁止や両国選手、役員の国際大会からの排除を勧告した。これは侵略国に確固たる姿勢を示した国際社会の総意を反映する一大決断であるとして高く評価され、各国政府や国際スポーツ界も勧告に従い行動した。ところが時の経過とともに一枚岩に緩みが生じ、国旗、国歌が付かない中立の立場でロシア選手等の出場を認める国際大会が出始め、ついに本年1月IOCは選手をパスポートで差別してはならないと一見分かりやすい表現を用いて、選手が中立の立場かつ侵攻を支持していない立場ならば排除勧告を再検討し大会復帰の可能性を探るとの姿勢に転じた。この方針転換にウクライナ側はもとより欧州諸国を中心に多くの政府とスポーツ界はロシアを勇気づけるとして強く反発し、開催都市パリのイダルゴ市長も「ウクライナに爆弾が降り注ぐ中で、何事もなかったかのようにロシア選手団がパリに来て行進することは考えられない」と表明した。反響の大きさに驚いたのか、IOCは本年2月初めに異例の長文のQ &Aを発表し、得意のレトリックを弄して方針転換の“真意”の説明に忙しい。更に侵攻1年目、ロシア軍の大攻勢の中で、日(永岡文部科学大臣署名)、英、仏、米を含む34ヶ国関係閣僚は英国主催のオンライン会議の後に共同声明を出し、選手の「中立」が本当に確保し得るのか、その明確な定義をIOCに求めバッハ会長の“翻意”に疑義を呈した。バッハ会長は大会参加の可否は政府が決めるものではないとの強気の発言を繰り返しているが、スポーツ界の分断が深まる一方、外部から見る限りバッハ会長は微妙な立場に立たされている。

2.バッハ会長流の舵取り 

  もともとバッハ会長は、スポーツの基本理念である非政治主義、政治的中立、スポーツの自治を信条とし政治的圧力や差別を回避しようとしてきた。76年モントリオール五輪のフェンシング団体で金メダルを取りながら、続く80年モスクワ大会のボイコットで出場出来ないなど、政治介入が一種のトラウマになったとも言われる。IOC副会長時代だが2009年コペンハーゲンIOC総会の基調演説で非政治主義の重要性を強調したことが(東京招致活動中の筆者も会場で聴いたが熱弁であった)、その後の会長選挙で当選を後押ししたと言われる。同じく副会長時代に日本側との会食でも非政治主義の意義を一人で滔々と述べて、明朗ながらも押しの強い性格であるとの印象を持った。

 このような姿勢は、ロシア選手等の排除勧告に踏み切った際の理由説明に良く現れており、政治と一線を画しスポーツの世界の話にしようとする涙ぐましい程の努力が見られた。例えば、選手の排除勧告は誰が見ても国際政治上の「制裁」であり世界中もそう受け止めてこれを評価したのだが、バッハ会長はロシア等での国際大会開催の禁止とプーチンへの叙勲を取り消したのが「制裁」であり、排除勧告は選手や試合の安全を守る「防御的措置」と表現した。

 また侵攻はオリンピック休戦を求める国連総会決議の違反なので対抗措置を取るのだと述べたが、国連憲章と国際法違反であると言うべきところを無理して五輪に関連付けて休戦決議にすり替えている。古代ギリシャ由来のオリンピック休戦は選手の往来の保障が主で1952年国連総会決議に盛られて以降その理念的価値は別として停戦の実現に至った例はない。総会決議に拘束力は無くロシアも08年グルジア戦争や14年クリミア侵攻で反故にした“累犯者である。今回も侵攻非難の安保理決議や数次の総会決議を意に介していないので、IOCが休戦決議を引用するのは見当違いの観がある。(なお筆者は休戦決議の準備に携わったことがあるが、夏冬五輪の2年に1度採択されるので国連事務局でもルーティン化し注目度が低い。)侵略しているのは政府で選手に罪はないとの二分法の論理もバッハ会長の口癖であり、一般の人には訴えやすいが、旧ソ連圏や現在の社会主義国ではほとんどの選手は政府の丸抱えであり、五輪のアマチュア時代にも「ステート・アマ」と呼ばれた伝統を今も引きずっている。絶えない国ぐるみドーピングも同じ素地から来る。

3.バッハ会長の“積極的非政治主義”

 一方で、バッハ会長の言動を見ると、政治との関わりを忌み嫌いスポーツの自主性に逃げ込むスポーツ界の伝統とは全く異なる非政治主義である。最近の主要演説でも戦争と平和は政治が決める問題であるとしつつも五輪は平和のシンボルと道しるべを提供するとして、積極的に政治の領域に入り込み五輪運動を進めるという言わば“積極的非政治主義”を展開してきた。大阪やバリ島でのG 20会合や毎年の国連総会に赴き平和を訴え、08年平昌冬大会では一部種目の南北朝鮮統一チームの結成に動き、その後北朝鮮を訪問し金正恩総書記と抱き合い仲介者的な姿をPRしている。

 以上はほんの一例であり詳しくは霞関会ホームページ(2020年3月30日付)に掲載された小論「権威主義国家とオリンピック」に記したが、理念を叫びながら現実も考慮するバッハ会長の論理は時には二枚舌のようにも聞こえて分かりにくい。ご本人もジレンマに悩んでいると声明等の中で“告白”しているのだから他人にはもっと分かりにくく、このためメディア等では優柔不断、迷走、一貫性に欠けるなどと揶揄されている。

 しかしバッハ会長にとりパリ大会は任期中の最後の大会となる。これを差別のない正常な形で実現し有終の美を飾り、IOCの権威と自分自身の名声を残すことが究極目的であり、それを追求する過程で場合により政治や経済の「スポーツ外的要素」にも良い顔をする。迷うところはない“確信犯的”姿勢と言えよう。「排除勧告」もいずれは解除する方向でタイミングを見計っていたと思われ、本年に入り「中立」方式で見直しを打ち出したところ、反発がこれほどの大合唱になるのは想定外だったろう。選手の差別をなくすために国際スポーツ界は団結(unity)せよと呼びかけたが、皮肉にも分断を招いてしまったのはバッハ会長の誤算だったかもしれない。本年5月頃のIOC総会ほか五輪関係の重要行事が続きパリ大会の予選も始まる。IOC、国際スポーツ団体や各国政府の間の綱引きが続く中でバッハ会長は旗幟鮮明を迫られる。

4.スポーツと政治の連携(コラボレーション)―ロシア選手等の「排除勧告」を維持せよ!

 筆者は上記ホームページ掲載の小論において、民主主義国と権威主義国の対立が加速する現下の世界で、権威主義者が人類の普遍的価値と国際法に著しく違反する行動を取る非常事態には、民主主義国と価値を共有するオリンピック運動は非政治主義の原則を止揚させて政治との協調路線(コラボレーション)を取るべきであると主張した。ウクライナ情勢は正にこれに該当する。バッハ会長の言動は国際政治上の「戦略的曖昧さ」(strategic ambiguity又はpatience)に当たると言っても良いが、この戦略は過去に多くの禍根を残した。そこから抜け出て民主主義国と協調する「関与政策(Engagement policy)」が正しい政策であり、ロシア選手等の「排除勧告」がこれに当たる。

 仮に「中立」方式でロシア選手等の差別をなくし形だけ正常なパリ大会にすることを選んだ場合、欧州諸国を中心とする大規模な大会ボイコット(開閉会式だけではない)や会期中に仏国内と世界各地で抗議活動等の騒乱が起きる可能性が過去の事例に照らし高いと筆者は懸念する。直近の2020東京大会はパンデミックのため1年延期、無観客、会場変更等もあり定例の形式に照らせば“不正常”な大会だったが、それでもやり切ったこと自体が世界中のスポーツ界と政府から高く評価された。バッハ会長も最後まで政治的圧力とやり合ったとの証しを残し、最終的には無難なオプションを選ぶであろう。 近代五輪の祖クーベルタン男爵の母国、ちょうど100年ぶりの仏での五輪開催、マクロン大統領2期目の節目等で特徴づけられるパリ大会は開催国フランスにとって若干“不正常”でも開催することが至上命令であり、そのメッセージをバッハ会長は重く受け止めざるを得ない。

 日本政府は34ヶ国声明に加わり正しい選択をした。一方で、日本が主要メンバーのアジア五輪評議会(OCA)が今秋のアジア大会(杭州)にロシア選手の参加を容認する決定をしたことがバッハ会長の見直し路線の正当化に再三利用されている。平時における「スポーツの自主」は重要だが、日本の安全保障環境はウクライナ情勢が他人事でないことを示している。札幌招致を念頭にバッハ会長の意向を忖度する必要はない。

 なお、ロシア選手の排除は本当に制裁的効果としてプーチンの心証に対する圧力となりうるか、という基本的問いかけもある。多くの事例は別途記すが、プーチンを含むロシア側の言動から明らかなように、スポーツ大国ロシアの名誉ある地位を世界に誇示できるのは五輪の場が最適であり大会の国内開催や自国選手のメダル獲得は国策上優先度が高い。制裁として選手を排除しナショナリズム高揚や国威発揚の機会を奪うことは政権にダメージとして働くので“五輪カード”は有効である。   

5.日本国内の分断にどう対処するか。

 東京大会のスポンサー企業の選定に絡む贈収賄容疑に続き、33競技を実施する計画立案業務の入札を巡り独占禁止法違反の談合疑惑が表面化し、国民の五輪不信を増幅させた。日本では明治時代以来の学校教育の教えに加え、64年東京五輪の成功体験の結果、「スポーツは清く正しく美しくあらねばならない。聖なる五輪でお金を稼ぐなど邪道だ」との“五輪原理主義的”な認識が底流にある。これはこれで日本のメリットであるが、コロナやウクライナの影響で社会全体が神経質になり閉塞感が漂っている時期でもあり、“カネまみれの五輪”というイメージが独り歩きし国民の五輪認識の分断を加速させている。

 この事態を改善し五輪に対する国民の信頼を取り戻すためには、(1)対症療法および(2)構造的改革が必要である。 

(1)対症療法 二件の不正容疑の解明はすでに司直の手に委ねられており、今後の捜査と裁判を待つことになるが、2月10日スポーツ庁とJOCは国際競技大会の運営において守るべき規範を定めた「指針案」を発表した(近く正式決定され「指針」となる)。大会組織委員会理事会の適正人材選考、ガバナンス強化、コンプライアンス研修、運営の透明性と情報開示、利益相反取引を監視する独立委員会の設置等11項目を強制力はないが努力目標として提案している。「指針案」の先例は、会計処理やセクハラ、パワハラ等の不祥事が続いた国内の競技団体を対象に2019年にスポーツ庁が策定した「ガバナンス・コード(組織統治規定)」がある。双方とも“お上”の指導に頼らざるを得なくなった産物だが、「コード」に基づき競技団体が定期的点検と報告を行う仕組みのおかげで、筆者も障がい者スポーツ団体の点検に関わった経験があるが全体的に不祥事は減少している。

 ただ五輪競技の多くの現場にいて筆者が実感したことだが、試合の企画、運営、後始末を統括するには長年の経験に基づくノーハウや人脈が必要で、これに長けた企業を想定するのは組織委の担当者としては自然だろう。問題は公金を使う以上公明正大な競争入札によるとの肝心な点を疎かにし受注調整など一線を越えてしまい、監督すべき幹部や理事会もこれを看過した。贈収賄の汚職容疑を巡る状況も同様で、組織委の幹部は出身母体で活躍していた有能な人材だがスポーツや五輪の経験に乏しかったため、専門性のある民間出身の人物に任せきりになった。このような“外注”は大会遂行上やむを得ないとの意見も多いが、そうであるならばそれを監督しその責任を負う体制の強化が不可欠で、今後の「指針」の運用上のポイントになる。メデイアやネット上では一般市民から、「組織委、東京都等の責任者達はひとごとのように“ほおかぶり”している。仕事を外部に丸投げし検証も検察に丸投げしている」との批判が多く聞かれる。政官民の既得権集団や癒着が根強く残る現状に改革を迫る庶民の目は厳しい。

 この点で参考になるのは、英、仏、米は自国開催の五輪大会を念頭に日本より厳しい監督責任体制を法令で定めており、3月初めに仏スポーツ大臣はガバナンス確保のためのより強固な体制を発表した。スキャンダルを一番嫌うIOCからも日本の改革を注視する声が聞こえる。2030年札幌冬大会も視野に入れて今後日本で開催予定の陸上や水泳の世界選手権、2026年愛知アジア大会等に「指針」を活かす必要がある。

(2)構造的改革 不正を招いた背景としてその根底にある社会風土や慣行を明らかにしない限り再発は防げない。これは大会組織の内部に深く踏み込まないと実態をつかみにくいデリケートな問題だが、自浄作用に通じるちょうど格好の参考材料が本年1月に公表された。これは昨年10月に大会のスポンサー契約を巡る贈賄容疑で会長等が起訴された出版大手の「KADOKAWA」が東京地検の捜査と並行して社内の実情を第3者委員会(「ガバナンス検証委員会」委員長中村直人弁護士)に調査させ結果を公表した長文の報告書である。

 この中で委員会は、事件の「真因」となる企業風土として次の3点を認定した。(1)上級者(特に会長)の意向への過度の忖度。これは上級者の不明瞭な職務権限や実質的な人事権に起因しているため、職員は言わば諦念に陥り内部通報等も出来ず、また取締役会も適切な監督を怠った(2)経営理念の不浸透や法令遵守意識が希薄な役職員(3)意思決定上の透明性や内部統制の不備と組織間の相互牽制の不備。この上で、委員会は具体的な改善案を提言している。特に報告書の結論部分(第153ページ)では改革のポイントとして、「KADOKAWAは9社統合や多くのM&Aにより、色々な文化、社風の企業が集まるグループになり経営管理上苦労も生じたようだが、この多様性は自由な発想と柔軟な議論、多くの気づきをもたらす要因である。今回の事案はあったものの、今後風通しの良いフェアな組織にして行くため重要な特質である」と指摘している。今後の政官民から成る組織体のお手本にして欲しい。

おわりにーこれからの1年

 スポーツライターの大野益弘氏は、この小論冒頭の【注】に記した書物の中で、「オリンピック・パラリンピックを楽しむための二大要素は『選手の活躍による感動』と『お祭り気分』であるが、残念ながら東京大会ではその「お祭り気分」を味わうことが出来なかった。だが東京大会は特別であり、ほんとうはもっと、圧倒的にすごいのだ」と述べている。東京大会で十分に味わえなかった「お祭り気分」を今度こそパリで味わえると期待していたところ、ウクライナ侵攻と五輪疑惑の発生により世界と日本で五輪離れが進み人々の気持ちが萎縮してしまったというのが現状である。

 しかし、これから1年以内に転機が来る。オリンピック運動にとって好機である。国内にあっては不正容疑の裁判結果が見えてくる一方、「大会運営の指針」に沿って各種の国際大会が円滑に催されよう。札幌招致の機運醸成活動は一時休止に追い込まれたが、冬眠から抜け出して反転攻勢に出る時期が来た。時間もあまりない。海外ではロシア選手等の参加の扱いが国際大会(IF)ごとに異なるなど紆余曲折はあろうが、パリ大会が近づくと一応の決着を見るだろう。そしてパリ大会になる。新たな五輪価値を実現させる前向きの動きに世界の関心が集まるだろう。若者、女性、性の多様性、都市環境、文化との融合等の新鮮な五輪の価値は、世界中の五輪運動に活気と連帯感を取り戻すきっかけとなるだろう。

 ただ、これで「お祭り気分」に浸るのは時期尚早の気がする。残念ながら1年後もウクライナ情勢が重くのしかかる懸念が大きい中で、最重要の五輪価値である相互理解、友好、平和は未だそこにない。この分岐点における五輪運動としては、ウクライナでの正義の実現を最優先とする姿勢と支援を持続しつつ、運動の多角的発展に努力することが肝要である。パリで不十分だったらその次の大会で「圧倒的にすごい」五輪大会の実現を目指そう。政府、民間を問わず五輪に関わるすべての人と組織の意欲と実践行動にかかっている。

(了)