インドネシアの大統領選挙と今後の二国間関係
前駐インドネシア大使 金杉憲治
インドネシアでは来年2月に5年に一度の大統領選挙が予定されている。グローバル・サウスの中核の一つであるインドネシアは昨年、G20サミットを成功裡に主催し、今年もASEAN議長国として存在感を示したことを受けて、大統領選挙の動向についても世界が注目している。ジョコ大統領下の10年間弱、インフラ開発や産業の下流化等を通じて安定した経済成長を続け、今なお支持率が80%近くに達する大統領の後を誰が継ぎ、どのような政策運営を行うかに注目が集まるのも当然である。インドネシアにおいて、中国や韓国と激しい競争に晒されている日本にとっても、それは重大な関心事である。本稿では、インドネシアの現状と大統領選挙の見通しについて触れた後、日本とインドネシアとの二国間関係の将来についても簡単に論じたい。
国際情勢が流動化している中で、今後の動きを見通すことは極めて難しい。日本とインドネシアとの関係についても然りであるが、同時に、インドネシアに関して今後とも「変わらない」と思われることが幾つかある。
第一に、インドネシアの建国以来の国是たる「自由で能動的な(independent and active)」外交政策である。これは1953年にハッタ副大統領が「Foreign Affairs」に発表した論文が基礎になっており、その後の非同盟運動にもつながっている。ロシアによるウクライナ侵略が起きたり、米中間の競争が激しくなったりしている今日でも、この外交政策は一貫して維持されている。インドネシアにとって中国は最大の貿易投資相手であり、当地で中国の経済的な存在感はますます大きくなってきている。最近でも、本年7月末にジョコ大統領が訪中し、習近平主席との間で新首都「ヌサンタラ」建設への支持や電気自動車などの「新エネルギー車」分野での協力に合意している。本年10月に開催された第3回「一帯一路」国際協力サミットフォーラムにもジョコ大統領は参加している。因みに、本年10月から本格的な運営が始まった「ジャカルタ・バンドン高速鉄道」は、日本から中国に協力相手を変えた後、紆余曲折はあったものの、当初の予定から4年遅れながらも開通し、中国との「一帯一路」協力の一つの象徴と位置づけられている。このような中国との緊密な経済関係と同時に、安全保障分野では、インド太平洋地域での米国のプレゼンスを前向きに捉えており、長年にわたって二国間のガルーダシールド軍事演習を実施してきた。更には、昨年以降、米国と共催の形で多国間軍事演習「スーパー・ガルーダシールド」を開催し、これには日本の陸上自衛隊も参加している。陸上自衛隊は昨年、インドネシア及び米国との共同降下訓練に参加し、今年は水陸両用作戦及び共同射撃訓練にも参加している。ここに端的に現れているように、大国間競争に巻き込まれず、自国の利益を最大化する「自由で能動的な」外交は今後とも継続していくと思われる。
第二の「変わらない」ことは、建国100周年に当たる2045年までの先進国入りを目指すべく、経済開発を最優先する政策である。ジョコ大統領の10年間で、インドネシアのインフラは大きな改善を見せているし、また、世界の経済規模上位30カ国の中で5番目に位置する経済成長を記録している。世界有数の埋蔵量を誇るニッケルを活用して電池を作り、それを搭載する電気自動車を製造するという産業の下流化に韓国と中国の企業は応えて、当地における自動車市場でのシェアを拡大している。ニッケル鉱石の輸出禁止ついてはEUからWTOに訴えられ、パネルで敗訴しているものの、それを不服として上訴し譲る気配は全くなく、更には、ボーキサイトや銅、錫にも同様の輸出禁止措置を検討している状況にある。こうした中で、本年8月に南アで開催されたBRICSサミットにおいてインドネシアのBRICSへの加盟も取り沙汰されたが、結局、加盟申請は行わず、むしろ同じタイミングでOECDに加盟申請している。いずれの決定においても、その根底にあるのは加盟することがインドネシアにどれだけの経済的なメリットをもたらすか、にあったと言われている。
第三に、インドネシアの地政学的な重要性は不変である。インド太平洋の中心に位置するASEANの盟主として、インドネシアはその存在感を増している。インドネシアを含むASEANは今後とも世界の経済成長センターであり続けるであろう。また、インド太平洋におけるシーレーンの重要性も論を俟たない。白石隆熊本県立大学理事長によれば「インド太平洋」という言葉をこの15年で最初に使ったのはユドヨノ前大統領とのことであり、実際、筆者もユドヨノ政権下のマルティ外相がASEAN拡大外相会議において、当時は耳慣れなかった「インド太平洋」に繰り返し言及していたことを覚えている。日本が提唱する「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」に呼応する形で、インドネシアがAOIP(ASEAN Outlook on the Indo-Pacific)の策定を主導したことは、インドネシアも自らの立ち位置を良く理解していることを表している。
翻って、次の大統領選挙について言えば、別図にあるとおり、三つ巴の激戦になっている。インドネシアの大統領選挙は米国と同様、正副大統領候補のペアで争うことになっているが、来年2月14日の第1回目の投票ではどのペアも過半数を獲得できず、6月26日に上位2ペアによる決選投票が行われる可能性があり、その上で新大統領の就任式は10月20日に予定されている。現在の立場に鑑み、私見というよりは当地で広く報じられていることを元に、各候補について一言ずつコメントしたい。俯瞰的に言えば、国民からの人気が高いジョコ大統領が自らの長男のギブラン副大統領候補(ソロ市長)と組んだプラボウォ国防相に相当程度肩入れしており、プラボウォ候補が選挙戦の序盤を有利に進めている。これに対して、最大与党・闘争民主党の支持を受けたガンジャール前中部ジャワ州知事がどこまで対抗できるのか、また、アニス前ジャカルタ州知事がそこにどのように絡んでくるか、という絵柄になってきている。見方を変えれば、闘争民主党のメガワティ党首(元大統領)と、党員であるにも拘わらず党首と事実上袂を分けたジョコ大統領との「代理闘争」とも評されている。
プラボウォ候補については、ジョコ大統領からの信頼や、その経験と実績(直近2回の大統領選挙でジョコ大統領に敗れており「三度目の正直」。二期目のジョコ大統領の下で国防相として安定した仕事振り)はプラスであるが、72歳という年齢から健康不安も噂されていることや、過去の人権侵害に関する疑惑はマイナスである。更には、ギブラン副大統領候補を擁立したことに伴う縁故主義への批判がどこまで広がるか、も懸念材料である。ガンジャール候補については、知事としての清廉なイメージや実務能力を評価されているが、最大与党「闘争民主党」のメガワティ党首の「呪縛」から逃れられないと見られていることが影を落としている。アニス候補については、米国や日本への留学経験を背景とする豊かな国際感覚や、イスラム系の支持が期待出来ることはプラスだが、ジョコ大統領との確執に加えて、イスラム系の支持を得るために過去「identity politics」に頼ったとされることはマイナスになる。
このように各候補について様々な評価がある中で、本稿を執筆している11月下旬の時点ではプラボウォ候補が相当程度、有利な立場に立っているが、最終的な展開を予断することは未だ難しい。しかし、その上で最も重要なことは、どの大統領候補とも日本は一定の関係を築いてきているし、また、誰が大統領になったとしても、日本とインドネシアとの関係に大きな変化は予想されないということである。
その上で、今後の両国関係を考える上で幾つか重要と思われるポイントを述べたい。
第一に、言うまでもないが、経済関係の更なる強化である。両国の強い相互依存関係を生かして、日本は①生産・輸出基地としてのインドネシアの底上げ、②人材育成(技能実習も含め)、③アジア・ゼロエミッション共同体(AZEC)を中心に現実的かつ円滑なエネルギー移行、④インフラ開発支援(離島開発や新首都「ヌサンタラ」等)、⑤インドネシアにおける社会課題の解決(廃棄物処理や環境改善等)——といった分野でインドネシアに貢献できるし、それが日本の利益にもなってくる。また、上述の通り、インドネシアは現在、OECDへの加盟申請を行っているが、円滑な加盟審査を支援していくこともお互いを裨益することになる。
第二に、共に海洋民主主義国家であることから生じる安全保障上の対応への協力である。この面は近年着実に協力が積み重ねられてきているが、インドネシア側が「心地良い」と感じるペースを基本としつつ、日本側から①ソフトな安全保障協力(国連平和維持活動や人道支援・災害救助活動等)、②海洋安全保障面の能力向上(人材育成等)、③ハードな安全保障協力(上述の多国間の軍事演習スーパー・ガルーダシールド等を通じて)、④防衛装備品の移転、といった分野で更なる協力を推進していくことが重要である。
第三に、次世代を担うインドネシアの若者に対する更なる働きかけである。日本に対する好感度は引き続き高いとは言え、かつての「日本シンパ」の世代は働き盛りを過ぎており、今のインドネシアの若者は世界をよりフラットに見ている。将来にわたって日本を選んでもらえるよう、様々な工夫をしながらオール・ジャパンで「何故、日本の方が良いのか」を発信し、実感してもらわなければならない。インドネシアで関心の高い日本語教育を継続的に支援していくことの重要性も言うまでもない。
第四に、日本がインドネシアをより「対等な」パートナーであると意識して協力する姿勢である。今のインドネシアは日本人の多くがイメージするかつてのインドネシアでは全くなく、変化を恐れない柔軟な政策運営やデジタル分野ではむしろ日本が学ぶべき相手であり、それを前提にインドネシアと向き合っていく必要がある。もちろん、「上から目線」をあからさまに示す場合は多くはないとしても、インドネシア側は微妙にその気配を感じ取っており、この点は特に肝に銘じておきたい。
12月の東京での日ASEAN特別首脳会談を経て、来年の選挙で誕生する新大統領との関係作りの中で、日本はインドネシアとの間で様々な可能性を探究していかなければならない。
最後に、インドネシア側が持つ将来への自信を示す発言として、ジョコ大統領による2021年の施政方針演説の一節(インドネシア政府の英訳による)を引用して筆を置きたい。 “Amid today’s disruptive world, the spirit to change, the spirit to make changes and the spirit to innovate have become the foundation to build an advanced Indonesia.”
(了)