アフガニスタンの水事情~砂漠の国の農業
日本体育大学理事長 元衆議院議員 松浪健四郎
はじめに
ミャンマー、アフガニスタンの悲劇が続いているのに、ロシアのウクライナ侵攻が余りにも大事件であるがゆえ、これらの国の現状は消されてしまいそうだ。しかし、現在のウクライナ国民の置かれた現実に立てば、胸が痛むばかりか、「平和」の難しさを痛感させられる。
「アフガン問題を風化させないで下さい」、故緒方貞子先生との約束ゆえ、筆者には世界がどんな状況にあっても語り部の役目を果たす義務がある。先日、JICAの「地球ひろば」での「国際河川問題」の講演会に出席した。
そこで、「アフガニスタンの水事情」について書くことを思いたった。永年ボランティア活動を展開されてきた故中村哲医師の取り組んだ川も、国際河川であった。そこに現地の水事情の複雑さがある。中村医師に起こった出来事、立派な活動を憎む人たちがいた事実は、国際河川の問題と関係があるのかもしれない。すでに事件はうやむやにされ、タリバン政府は動こうとはしない。
芥子を産する地
南蛮貿易の歴史をもつ大阪府堺市の小島屋製の「ケシ餅」は、芥子の実で表面を覆う饅頭で人気が高い。独特の餅菓子だ。この和菓子に用いられている芥子はインドからもたらされ、後に堺でも栽培(江戸時代初期)されたという。現在はアフガニスタンの生産が世界の8割を占め、国連の麻薬取引監視チームによれば、年間、約506億円がタリバン側の収入になったと推計されている。私がアフガンに在留していた1975(昭和50)年当時、日本の有力商社がアフガンで買い付けていた。日本では栽培が認められていない故。
アフガン東部、仏教遺跡ハッダのあったジャララバード市近郊を流れるクナール川(カブール川)の水が芥子栽培に用いられてきた。芥子からアヘンを抽出し、ヘロインを精製するが、種子は食べられる。昼夜の温度差が大きい気候が良いという。この芥子栽培が常に反政府勢力の資金源となってきた。が、全土を掌握したタリバンは「芥子栽培をなくし、麻薬ゼロにする」と宣言した。諸外国から信頼を得るため穏健なイメージを印象付ける狙いであるとの疑念もあるが、今後とも注視する必要がある。1999年頃タリバンに芥子をやめるように我々はすすめた。どうもタリバンは覚えているらしい。実際にタリバンは2001年にはアヘン生産高185トン(前年比97%減)を実行してみせた。しかし、国際社会の無理解から翌年は例年並みとなり、バーミヤン仏破壊の暴挙にもつながった。又カブール入城後のタリバンの外務大臣(現)の発言のひとつは「芥子を撲滅しようか・・・」だった。
ジャララバードはパキスタンと国境を接する地域にあるが、ここは主流民族のパシュトゥン(アフガン)族の住む地であり、日本政府は1970年代初めから、国際協力機構(JICA)を通じ、稲作指導の支援を長期間続けてきた。クナール川の安定した水量と地質が米作りに適していたようだ。JICAは毎年、稲作のための農業実習生を日本に留学させ、日本式の水田農業を広めてもいた。
故中村哲医師による護岸工事や用水路・灌漑工事支援事業もジャララバード近郊であった。クナール川はパキスタンの山岳から発し、アフガン経由でパキスタンに流れる国際河川だ。その水を横取りしているかのように映ったために反感を買ったという声がある。砂漠の国にあっては、水利問題は日本では想像がつかないほどデリケート。水利灌漑大臣なるポストがあるくらいだ。
首都カブールの下方にダム湖のソロビがある。青い水の美しい湖だ。カブールは標高1800メートルと高地にあるため、ソロビ湖の水は送れないが、水力発電所として役立っているばかりか水道水としてもジャララバード近郊の住民を助けている。
外貨を稼ぐ果物
ジャララバードの農業は野菜類と柑橘類が中心だった。この国にはゴボウ、レンコン、サツマイモがなかったが、ミカンの種類は日本並みに豊富だった。周辺諸国に陸送で輸出して外貨を稼ぐ代表的な果物となっていた。特に果肉が鮮血のように赤く、甘くて大きいミカン「サンタナ」は忘れられない。アフガンは雨の降らない砂漠の国でありながら農業国である。ハルブーザと呼ばれるメロンも輸出品の代表で、ラグビーボールの4倍ほどの大きさで甘い。さらに有名なのは、甘いスイカ(タルブーズ)でメロン並みの大きさで安価だ。アフガン人が最も自慢するのは、80種類もあるブドウであろう。古代ペルシア時代からの産物だ。さすがに種なしの種類はないが、シャインマスカット並みの大粒で甘いブドウも外貨をもたらす産品だった。これらの果物は、国の中央を東西に走るヒンズークッシュ山脈のイラン・パキスタン側に隣接する南西部側で栽培されていた。砂漠地帯の各地のオアシス周辺の農場が産地だ。砂地で昼夜の温度差が大きい環境がメロン、スイカ、ブドウ、ザクロ、モモなどの栽培を助長させたが、オアシスに十分な水が昔からもたらされていた事実を知っておかねばならない。「ヒンズークッシュ」とは、現地語で「インド人殺し」という意味だ。峻険で7000メートル級の峰もあり、インド人がアフガンに攻め入ることができない障壁となる山岳地帯。この岩山の山脈は晩秋を迎えると、茶褐色から純白に染められる。美しく化粧された山脈を人々は歓迎して祝う。春から夏の雪解け水こそが人々が生きるための貴重な水なのである。山脈の雪こそが恵みであり、古くは雪室を使ってもいた。
ヘルマンド河
ヒンズークッシュから中央部のカンダハル市近郊を流れる大河であるヘルマンド河には米国政府が1950年代から援助してきた。いくつものダムを造り、発電所を建設したが、1996年にタリバンが権力を掌握すると援助は中断。その後、米国はタリバン打倒を果たしたが、建築を伴う援助をせず、軍事力に資金を回した。それでもヘルマンド河がもたらす水は農業に貢献したし、米国が架けた数本の橋の効果も見逃せない。
カンダハルは、紀元前4世紀にアレキサンダー大王が制圧し、アレキサンドリアとも呼ばれたアフガンの要衝。90年代のタリバン政府は、このカンダハルを首都にした。タリバンによるバーミヤンの大仏破壊を中止させるために筆者がムタワキール外相と交渉を行ったのもカンダハル。砂漠地帯ではあるが、アルガンダーブ河の支流からの水とタルナク川の水によって豊かな緑のあるオアシスとなっている。近くのシンダンドという地に空軍基地があってイランやパキスタンからの侵攻に目を光らせていた。
カンダハルから幹線の国道を西方へ走らせるとヘラートという古都に着く。イラン国境近くのオアシスで、ここでも名物は巨大なザクロ。直径10センチもあり、粒は大きくて甘い。搾った深紅の汁はジュースとしてもおいしいが、良質の染料ともなる。アフガン絨毯の特徴は、このザクロ汁で染められた羊毛で織った紅い色だ。数十年も使用していると、色褪せてきてピンク色に転じるが、値打ちが出て高価になる。
筆者は、アフガンの幻のミナレット(尖塔)と謳われるジャムのミナレットを観るために旅をしたことがある。カンダハルとヘラートの中間、ヒンズークッシュの麓に900年前にレンガで建てられた65メートルの気品ある尖塔だ。日本人でここを訪れた人は少数。辿り着くまで、雪解け水の小川に泣かされた。道が川のようになっているため、車の通行に苦労したのだ。世界一の高さを誇るミナレットに到着する前、チャグチャランという軍基地の側をハリールード川が流れていた。結構、水量のある川で、ヘラートまで肥沃な平野が広がる。ハリールード川の水は天の恵みそのもので、雪解け水は果物を中心とする農業地帯を作り、平野を緑に染める。ジャムのミナレットは、ゴール朝期イスラム建築の王様と言われる貴重な歴史遺産だ。さてタリバン暫定政権には、保存する技術と能力があるのだろうか? 誰が塔を守るのだろうか。
アフガンの北部
アフガン北部に位置するヒンズークッシュ山脈の裏側一帯は、アムダリア河からの恩恵を受ける。日本へ大量に輸出されている甘草は、アムダリアの支流両岸で育つ。綿花の栽培が盛んなのも、支流の豊富な水のおかげである。北部は昔からの馬の産地でもある。馬には牧草が必要だ。牛は短い草でも食べることができるが、馬には長い草が必要だ。つまり、馬の産地には湿地を作るほどの水が求められるのだ。国際河川であるこのアムダリアの存在は大きく、この地の文化と経済を支える。
北部にはウズベク族やタジック族が住む。タジック族には交通関係の仕事をする人やキャラバンサライでのホテル、茶店の経営者が多い。ウズベク族は絨毯を織り、農業にも精を出す。絨毯は輸出品として、欧米で人気が高い。羊の腸はソーセージ用の輸出品で、塩漬けにして保存する。カラクルの毛皮も塩漬け保存し、外貨獲得の貴重な産品となっていた。その昔、70年代プスティーンと呼ばれる羊のアフガンコートが大流行した。
現在、主流民族のパシュトゥン部族は同じイスラム教スンニ派の信者として一体となっているが、タリバンの原理解釈は厄介だ。そして、北部の軍閥たちはタリバンと応戦せず、戦闘を避けイランにいるとも聞く。農業と手工業が盛んな地だけに、治安の良さと平和な社会が国民に戻ってくることを願いたい。
首都カブール
カブールの人口は100万人を超えている。この大都市の水道施設は日本政府の援助で整備された。50年以上も前からの協力だ。日本人が尊敬されるのは、ひとつには砂漠のオアシスに水道という近代的なライフラインを造ったからにほかならない。人造湖のカルガから低地のカブールに流れる水は、どれだけ市民を喜ばせたか容易に理解できる。元々、カブール川だけが水源だったが、カルガのおかげで水の心配がなくなった。私は3年間、カブールで生活したが、停電は毎日あったけれど、断水は1日もなかった。日本の水道技術の高さの証だ。
シルクロードの十字路の国、アフガニスタン。褐色の地で一木一草も生えさせなかった砂漠の国土だが、主要な4本の川がオアシスを流れて農業国へ転換した。険しい山岳地帯として国に横たわるヒンズークッシュ山脈だが、その山に深くより高く積もる雪こそが、人々に水を与えてくれている。筆者は滞在中、この国の各地を旅行した。秘境とされる地まで足を延ばし、この国の活力を感じ取った。イスラム教の敬虔な信者である国民は、今や政権がタリバンに移ったのは現実で、戦乱の40年を過ごし、安穏とした生活であれば受け入れるのかも知れない。半世紀近く、戦闘の中で生きてきた国民の心情は、私たちの想像を遙かに越えるところだろう。
女子の教育を認め、芸術やスポーツで交流し、世界の国々から受け入れられる必要がある。外国から協力と支援を仰がねば、この国の運営は財政的にも難しい。一度失敗した経験を持つタリバンなら気付くだろう。外国軍駐留を嫌ったのはイスラム原理主義に拘泥するためだったが、民主主義を学び、採用することだ。孤立する国家であれば結局、国民の支持は得られないだろう。
三年前の10月、当時のガニ大統領が日体大講堂で記念講演をされた。「平和のために全力を尽くす」と語られたが、国外逃亡したという報道に接して、何とも言えぬ気分を味わった。
アフガニスタンは二度、三度と訪れたくなる不思議な魅力を持つシルクロードの国、多くの日本人も安心して訪問できる国であってほしいと望んでいるのだが・・・。