アディスアベバ日本庭園・茶室の復興に取り組んで

  
大阪学院大学教授 前在エチオピア大使 松永大介  

1.はじめに

 サブサハラ・アフリカに日本庭園があると聞いて「なぜ?」といぶかしがる方もお有りかも知れない。私が2019年3月に在エチオピア大使としての信任状をサへレウォルク大統領(女性初の大統領としてアビィ首相の指名を受けた)に捧呈した際、大統領から、首都アディスアベバの「大統領官邸(ジュビリー宮殿)に存在する日本庭園・茶室が荒廃しているのでこれを修復してほしい」との要請を受けた。自分はそれ以来、この要請に応えようと試行錯誤を続けてきた。本稿では、この庭園・茶室の由来とその復興に向けた模索をご紹介したい。

 そもそも、何故アディスアベバに日本庭園が造営されたのか? 話は1956(昭和31)年に遡る。戦争中に途絶えていた日本・エチオピア両国が国交を回復した(国交樹立は、ハイレセラシエ皇帝が即位した1930(昭和5)年)のは、1955(昭和30)年であるが、その翌年、戦後初めての国賓としてハイレセラシエ皇帝が来日した。戦後10年を経て迎える最初の国賓ということで、その歓迎ぶりには力が入っていたようである。昭和天皇自らが、羽田空港にハイレセラシエ皇帝をお迎えに上がられた写真が残っている。皇帝は訪日中、日本庭園の美しさに魅せられ、帰国後、自らの宮殿にぜひその美を再現したいと考え、日本から人を招聘し造営に当たらせることになる。

 ハイレセラシエ皇帝が、日本庭園造営のために招聘した日本人は、橋本陞(のぼる)さんという方である。静岡県の農業試験場に勤めておられたところに白羽の矢が立ち、1958(昭和33)年から1963(昭和38)年までアディスアベバに滞在して、日本庭園と茶室の造営に携わった。橋本さんは、本来庭園や茶室の専門家ではなかったので、試行錯誤と苦労を重ねたようである。結局足掛け6年の滞在になったが、その間の1960(昭和35)年の11月には、当時の皇太子殿下・妃殿下(現在の上皇陛下・上皇后陛下)が造営中の日本庭園をご訪問になっている。
 1960年という年は、ローマ五輪の年でもあった。日本で一番有名なエチオピア人と言えば、マラソンのアベベ選手であるが、彼が裸足で走って優勝したことで一躍世界中で有名になったのが、このローマ五輪である。皇太子殿下のエチオピア訪問は、その約2ヶ月後になるが、滞在中にアベベをお訪ねになり、4年後の東京大会への出場を要請されている。アベベは4年後の東京五輪に要請通り参加し、マラソンで2大会連続の優勝を果たした。もっとも、今度は靴を履いての優勝ではあったが。(ちなみに、東京五輪時、自分は小学3年生であったが、母と共に甲州街道沿いで観戦し、声援を送った。)
皇太子殿下・妃殿下のご訪問については、昭和天皇実録にも関連の箇所がある。お土産を用意して送り出したこと、ご帰国後にエチオピア滞在中のハイレセラシエ皇帝から受けたご厚遇への感謝のご親電を発出したことが記載されている(『昭和天皇実録 第13巻』p.133, p.142)。

 さて、2005年までコマを早送りすると、この年には、戦国交回復50周年を記念して当該日本庭園の拡張と増設がなされている。庭園の拡張に伴い新茶室(数寄屋づくりを模したもの)と滝も造営された(滝はポンプの故障で現在は止まっており、現在水は流れていない)。
 拡張・増設にあたっては、両国の友好親善を表現するコンセプトが導入された。すなわち、1963(昭和38)年に完成された旧茶室をコーヒーハウスと見立ててエチオピアを象徴させる一方、小高い丘に建てられた新茶室を日本を象徴するティーハウスと見立てて、両者が橋の上で出会うというコンセプトである。なお、増設には万博基金と三菱商事の資金協力を受け、工事には地元建設企業と鹿島建設が当たったことが、庭園入り口の銘板に記されている。

2.庭園・茶室修復への模索

(1) 造園家・福原先生のご協力
 さて、大統領から修復の要請を受けた自分は、何から手をつけてよいか思案を始めた。まずは、公的な支援スキームで当てはまるものがないかと考え、文化無償協力の対象になる可能性を外務本省に打診してみた。しかし、適格ではないというのが担当部局からの回答であった。
 そこで思い出したのが、前任地エディンバラの郊外にあるコーデン城の日本庭園の復興を手がけたことでお名前を聞いていた大阪芸術大学の福原成雄(まさお)先生であった。「ダメでもともと」の精神で思い切って先生に連絡をとってみた。福原先生は、2001年の英国の園芸品評会チェルシー・フラワー・ショーで、英国国内やその他諸外国の参加者を抑えて見事「最優秀賞」に輝いた日本庭園の世界的な権威である。福原先生は私からの相談に快く応じてくださった。そして2019年8月、お弟子さんの松川先生を伴い、ヨーロッパでのお仕事の帰途にアディスアベバに立ち寄って日本庭園・茶室を実地訪問された。
 先生は、アディスアベバの大使公邸に掲げてあるハイレセラシエ皇帝が訪日中に日本庭園を訪れている写真をご覧になって、瓢箪の図柄を目ざとく見つけられ、京都の老舗料亭である瓢亭の庭園であると鑑定された。また、アディスアベバ滞在中に行った日本庭園の調査をまとめられ、修復につながる報告書を作成していただいた。
 同月下旬には、TICAD7(第7回アフリカ開発会議)が横浜で開催されたのに併せて、自分は約1ヶ月の帰国休暇をとったが、その際(2019年9月16日)、1ヶ月前エチオピアでお会いした福原先生、松川先生とともに、約60年前にアディスアベバ日本庭園・茶室の造営に当たった橋本陞さんのお話を聞く機会があった。東京駅構内の喫茶室で4人で会い、当時の事情について詳しく教えてもらったのである。
橋本さんは、庭園も茶室も本来の専門外であったために、皇帝から与えられた作庭という課題をこなすのに相当のご苦労をされたことが伺われた。ご本人もエチオピア滞在が足掛け6年に及ぼうとは当初考えていなかったと思われる。
かつてご自分が造営された庭園・茶室の復興が我々の目的であると知り、橋本さんは喜ばれたのだと思う。当時の図面や写真を人数分コピーしてきてくださった。1960(昭和35)年の皇太子殿下・妃殿下のご来訪もよく覚えておられた。
余談になるが、橋本さんは1958(昭和33)年2月にエチオピアに向けて日本を旅立つ際に、ハイレセラシエ皇帝の甥にあたるアラヤ・アベバ氏宛の手紙を毎日新聞社の関係者から託され、エチオピア到着後、本人に会って渡したそうである。アラヤ氏は、1931年のヘルイ外相(当時)の訪日に随行し、その後日本人花嫁との縁談が進みかけたが、事情により結婚話が流れたという話で有名な方である。(この間の経緯は、山田一廣著『マスカルの花嫁−幻のエチオピア王子妃−』朝日新聞社に詳しい。)なお、橋本陞氏は、2019年9月にお目にかかった時は90歳であられたが、その後他界された。謹んでご冥福をお祈りする。

(2) 一般公開という方針
 自分の大使在任中に、大統領官邸(ジュビリー宮殿)に関する重大な方針の決定があった。日本庭園は官邸の敷地の一角にあるが、宮殿の建物を含めて広大な官邸の敷地をゆくゆくは一般公開することが決定された。また、フランスはマクロン大統領の2019年3月のエチオピア訪問を機に、宮殿の修復・整備を支援することを決めた。自分は、フランスが日本庭園・茶室の修復・整備も含めてお金を出してくれるなら、造園や建築の専門家をそのお金を使って日本から派遣できるのだが、と虫の良いことを考えたこともあったが、蓋を開けてみたらやはりフランスの支援対象から、日本庭園・茶室は外れていた。
 もっとも、一般公開の方針には、ふたつのメリットが考えられる。第一は、それによって、日本庭園・茶室がエリート層だけの鑑賞のためでなく、エチオピア国民や内外からの訪問者に広く開放されることである。我々の努力がなるべく広い範囲の人々を受益するほうが望ましいことは言うまでもない。
 第二は、官邸の敷地内のほかの部分が一般公開されるのに、日本庭園の修復・整備だけが遅れて同時の一般公開が出来なくなるわけには行かない。したがって、あらゆる方策を使って日本庭園・茶室の修復・整備のペースを官邸のその他の部分の進捗に合わせるインセンティブになるのではないかというメリットである。
 一般公開に堪えうるまで修復・整備が進めば、この庭園・茶室は、エチオピアのみならずアフリカ全体における日本文化紹介の中心になり得る。というのも、首都のアディスアベバは、アフリカ連合(AU)の本部が置かれているほか、またエチオピア航空のネットワークのおかげで、アフリカ大陸の航空路のハブにもなっているからである。多くの人々が、日本庭園・茶室を訪れることで心の安らぎを得つつ、日本文化への理解をも深められるよう期待に胸をふくらませている。

(3)プレカット木材の輸送
 年が明けた2020年の2月には、芝浦工大の伊藤洋子教授、青島啓太特任講師(当時:現在は追手門大学准教授)が学生を引き連れて来訪され、新旧両茶室の寸法を正確に測定して図面化する作業を行なった。実は、エチオピアの建築物を長年調査してきた芝浦工大の岡崎瑠美特任講師(当時:現在は同大学准教授)が研究費を確保して実現したものであるが、岡崎氏が事情により急遽来訪できなかった経緯がある。
 この時作成された図面が、のちにプレカット木材の準備に役立つことになる。青年海外協力隊OBの久田信一郎氏が大分県産木材の輸出促進に関与していたご縁で、大分県佐伯の森林組合、大成社がそれぞれスギ材、ヒノキ材を提供し、図面通りに前もって切断作業をしてくださった。実は、1963(昭和38)年完成の旧茶室で最も傷んでいた部分は、茶室を囲む形で設営されている濡れ縁と、それを支える支柱(複数)であった。経年劣化による木材の傷みに加え、支柱はシロアリに齧られており、放置すれば崩壊の怖れがある。この濡れ縁と支柱を、現地でカットする手間を省いて日本で前もって切断し、いわばカセット式に現地で古いものと差し替えることを考えたのである。
 プレカットした木材の現地への輸送は、大分県庁林産振興室が輸出促進用に運ぶ木材のコンテナの隙間を活用させていただき、2021年11月にアディスアベバに到着した。到着したプレカット木材は、現地の建設会社に好意で保管してもらった。

(3) 国土交通省スキームへの合格そしてコロナ禍
 大きな課題は復興修復に必要な資金をいかにして集めるかであった。さいわい国土交通省が海外の日本庭園の復興・修復を支援するスキーム(「海外日本庭園再生プロジェクト」)があることが分かり2019年度に応募した。結果がどうなることかと大いに気を揉んだが、幸い受かることができた。2020年度末までの実施対象として選ばれたのである。これで、福原先生率いるチームに来訪いただき庭園復興の作業に当たって頂くことが出来るようになった。
 もっとも伏兵は思わぬところに潜んでいた。コロナ禍である。年度末近くに予定されていた福原先生のチームの来訪は延期された。国土交通省は、スキームに受かったという資格を次年度(2021年度)に繰り越してくれた。
 2020年11月に自分は退官したが、大統領の宿題を忘れる積もりはなかった。しかし、コロナ禍がなかなか収まらないのに加え更なる問題も発生した。内戦である。現在のアビィ首相が就任するまでの約30年間政権を牛耳ってきた北部のティグライ系のグループが反乱軍として首都に迫るという事態が起きた。2020年度の福原先生チームの来訪は再び延期になった。

 他方で、2021年に入ってから、自分は募金を始めた。任意団体として「アディスアベバ日本庭園・茶室をよみがえらせる会」を発足させ、募金の受け皿となる団体名義の銀行口座を開設した。そしてエチオピアにご縁がある方やアディスアベバの庭園・茶室にご縁のある方々に広く声をかけてご協力を頂いた。
 茶道裏千家の千玄室大宗匠には格別のご配慮を賜ったが、大宗匠には別途「よみがえらせる会」の名誉会長にご就任頂いている。裏千家淡交会の国際部長がアディスアベバ日本庭園の茶室でお点前をされた経験があることも嬉しいご縁であった。
 国土交通省のスキームは、基本的に専門家の渡航と宿泊を支援するものであり、修復に必要な資材や機材をカバーするものではない。また、現地建設会社による見積もりから、一般公開が可能な形までの修復を行うには、資金が圧倒的に不足しているのが明らかだった。

3. 待ちに待った庭園・茶室復興作業

 2022年度の朗報は、国土交通省の「海外日本庭園再生プロジェクト」の合格資格の再繰越が認められたことである。コロナ禍にも先が見えてきた。さらには、内戦を起こしたティグライ勢力も地元に撤退した。福原先生のチームは、年度内のアディスアベバ訪問へ向けて準備を本格化させた。
 「海外日本庭園再生プロジェクト」が対象にするのは、あくまで庭園であり建物を含まない。しかし、旧茶室の濡れ縁と支柱をプレカット木材で差し替えることは、建物に関することであり、大工仕事に属する。この作業は、福原先生の盟友である金森清正先生にお願いすることになったが、渡航費と宿泊費を「プロジェクト」でカバーすることは出来ない。そこで、その部分は集まっている募金で賄うことになった。
 福原先生のチーム(建築家の金森先生を含む)は、本年1月29日から2月11日まで現地に滞在して修復作業を行うことになった。コロナ禍で2年遅れての現地訪問実現であった。自分は、勤務先である大阪学院大学での仕事があったので、1週間遅れで2月5日に一行に合流した。宿舎が大統領官邸の真後ろにあるギオン・ホテルであったお陰で、みんなで毎日歩いて現場に通った。大統領官邸側では、毎日官邸事務所ビルの中で昼食を用意してくれた。
 滞在のちょうど真ん中に当たる週末(2月4–5日)には、日本庭園や茶室について学び、併せ現地の竹を使って外周塀を作るワークショップが開催された。一般の人々やアディスアベバ大学学生らが参加して大いに盛り上がった。伊藤大使夫妻もワークショップに加わった。
 大使館には現地政府との調整に始まって宿舎の確保、道具類の通関、空港からの移動に至るまで、きめ細かい協力を頂いた。特に、伊藤恭子大使と高木豊職員には、一方ならぬお世話になった。当方の帰朝以来、数えきれないほどのオンライン会議を重ねてきたが、大使館からの出席がほぼ毎回確保され意思の疎通が図られた。ここに深甚なる謝意を表したい。

 朽ちて崩壊してしまうのではないかと今まで心配していた旧茶室の濡れ縁と支柱が目にも眩い新しいプレカット資材に替えられていくのを目の当たりにするのは夢のようであった。1年余りの保管を経て多少の変形も見られたようだが、ベテラン建築家である金森先生が、その場の創意工夫で細かい問題を克服していった。日本の技術者の腕前が目に見える形で見事に披露されていると誇り高く感じた。

(プレカット木材で濡れ縁と支柱が差し替えられた旧茶室)

 石灯籠や置石が福原先生の指示にしたがって配置し直されると、俄然、これらが生き生きしてくるのを感じた。本来、あるべき位置に戻ったことを、石灯籠や置石たちが喜んでいるようであった。石灯籠は、皇太子殿下・妃殿下がご訪問された際の写真の位置に久しぶりに戻ってホッとしているようだった。また、正門を除くと視線が自然に置石たちに向かうようになった。また、現在の置石は、禅の師匠が弟子を指導している姿を彷彿とさせるような形に置かれている。
 そんなとき、最終日直前の2月9日(木)にサヘレウォルク大統領が庭園を視察されるとの連絡が入った。日本庭園・茶室の修復を要請した大統領自身が現場を訪れてくれることは、自分にとり予期せぬボーナスであり僥倖であった。大統領は「信任状捧呈の際の要請をこれほど長くフォローしてくれる人はあまりいない」と仰って下さった。添付は、その際に撮影した大統領を囲んでの記念写真である。

(サヘレウォルク大統領を囲んでの記念写真:2023年2月9日)

4. 今後の行く末

 日本庭園・茶室の復興は、まだ道半ばである。新茶室の周囲の敷石は敷き直し、茶室外部の筧(かけひ)も修理できたが、新茶室本体は手つかずである。新茶室も建設後18年を経て種々の劣化が生じている。旧茶室も、濡れ縁と支柱がプレカット木材に差し替えられたとはいえ、防腐・防蟻を強化するには上塗が必要であるほか、雨漏りに起因する天井の撓(たわ)みを直す必要があり、さらに雨漏り自体を防がなければならない。庭園については、周囲にふさわしい樹木を適切な位置に植えなければならない。水回りも修理が必要である。
 資材価格も高騰しており、これら全てを賄うための費用は、募金で集まった金額とは一桁違ってくる。したがって、技術的な支援は日本側から行うとしても、資金面はエチオピア側でみてもらう必要がある。自分は2月の滞在中に、この点についてどうする積もりか政府関係者に尋ねてみた。すると、「官邸内で飲食の提供を行う権利と引き換えに修復費用を払う投資家を募集している」との回答が返ってきた。
 一行と共に帰国した後は、修復費用を引き受けう投資家(会社)が出てきてくれると良いがと気を揉んできたが、最近ようやく投資家が決まりつつあるとの情報に接している。慎重ながらも楽観を失わずに取り組んでいきたい。福原先生チームの訪問が実現したとき、物事が成就するときは、あたかも果実の実がなるように生(な)るものであると感じた。条件が整わないうちは、いくらしゃかりきになっても物事は成就しないが、あきらめずに着実に準備を進めることで、段々に庭園・茶室の修復が実現してきたと思う。しかし、道はまだ半ばである。一般の訪問客の参観に堪えうるように修復を完成し、またエチオピアの地に日本文化を紹介するセンターが出来上がるまで、コツコツとあきらめない方式を、今しばらく続けていこうと思っている。