「ODA理念の批判」と「ODA批判の理念」
-ODAに対する負のイメージからの脱却の道を探る-


元タイ国駐箚大使 元JICA理事 小島誠二

はじめに(ODA批判の嵐を経験して)
 1980年代末から1990年代初頭までの期間は、今では開発協力と称されるようになったODAに対する批判が「最も盛んであった」時期とされる(佐藤仁『開発協力のつくられ方』、注)。筆者は、1989年から約4年間外務省経済協力局の課長を務めていたので、ODA批判の嵐の真っ只中で、ODAの実務に携わっていたことになる。この時代あるいはこの時代に先立つ時代、外務省及び国内援助機関はODAに対する様々な批判に応える努力を続けた。ODA理念の明確化の努力はその中心をなすものである。これに対し、ODAを批判する人々、特に「問題案件」を取り上げる人々がODAをどうしようと考えていたのかは必ずしも明らかではない。筆者にはODA批判に理念は不在であったように思われる。そのことが、ODAに負のイメージを与え、その後のODA予算の大幅削減につながり、ODA予算増反対の正当化に使われてきたように見える。本稿では、この負のイメージからの脱却の道を探ることとしたい。
(注)1960年から2018年までの「批判本」の数から導いた結論である。これに対し、1980年以降1992年6月までに2つの邦字紙に掲載された記事の内容から、80年代末になり批判的なトーンがやや収まりつつあるとする見方もある(草野厚『ODA 一兆二千億円のゆくえ』)。

1.ODA批判時代の到来
 この時代は、特定の案件に批判が集中したことが特徴である。この時代のODA「批判本」を見ると、インドネシア、フィリピン及びタイの案件が多数取り上げられている。この時代に、ODA批判が盛んとなった理由として、途上国側の「民主化潮流」と「NGOの役割拡大」が挙げられる(佐藤仁前掲書)。途上国側の流れに呼応して、日本側でも地域研究者、NGOなどからODA批判が頻繁に行われるようになった。ただし、この時代以前であっても、当該国政府を直接批判することなく、相手国の一部の利害関係者の意見を引用する形で日本のODAを批判することは可能であったし、実際そのような批判はなされてきた。なお、以下の引用文献の著者の肩書は、基本的に出版時のものである。

2.ODAを批判する人々と擁護する人々
(批判する人々)
筆者の限られた文献調査によれば、この時代、日本のODAを批判した人々又は媒体は、次のような地域研究者、NGO、市民団体、新聞各社、月刊誌などであった。
●幅広くODA批判を展開した村井吉敬上智大学教授を中心とするグループ
●いわば一匹狼としてダム建設に伴う住民移転を取り上げ、外務省・海外経済協力基金(OECF)を糾弾した鷲見一夫横浜市立大学教授(1992年以降は新潟大学教授)
●フィリピンの輸出指向型工業化に伴う問題を取り上げた横山正樹四国学院大学助教授
●独自の環境汚染調査に基づいてフィリピンにおける日本のODA案件を批判したNGOメンバー
●社内の各部を動員して体系的に連載記事を取りまとめた朝日新聞(『援助途上国ニッポン』)
●社会部の連載記事を掲載した毎日新聞(『国際援助ビジネス』)
●開発経済学者及びNGO主宰者が援助そのものに疑問を投げかける論考を掲載した月刊誌「世界」(1989年10月号「特集 援助という逆説」)
(擁護する人々)この時代に、ODA批判に正面から反論し、内側からの改革を提案した学者はそれほど多くない。渡辺利夫東工大教授及び草野厚慶応大学教授は援助現場を訪問して、批判派が指摘した事実の間違い、批判派が取り上げなかった利害関係者の発言などを紹介した。実務の観点から、専門に亘る論点を含め詳細な反論を行ったOECFのOBもおられたが、この方の著書が多くの一般読者の眼に触れたようには思われない。1990年度『我が国の政府開発援助 上巻』(ODA白書)は、外務省として初めて体系的にODA批判に応えることを試みた報告書として注目される。

3.ODA批判の概要と問題案件
ODA批判の概要)まず、ODA批判本で展開された批判の概要を次のとおり紹介したい。
●日本のODAには理念が存在しない。理念が不明確である。理念と実践が乖離している。
●援助が外交目的のために使われ、米国の戦略目的に奉仕している。
●日本のODAは日本の経済利益一般又は特定企業の利益のために使われている。
●日本のプロジェクトは、日本企業によって形成され、日本企業が受注して物品・サーヴィスを提供している。
●日本のODAは権威主義政権を支援し、同政権の腐敗を助長している。
●日本のODAは開発途上国の環境破壊に加担し、強制移住を容認している。
●ODAを通じて建設された施設、提供された機材などが援助目的に沿って活用されていない。
●援助の司令塔が不在であり、援助基本法が存在しない。
(問題案件)この時代に「問題案件」として繰り返し取り上げられた案件は、ビルマ(ミャンマー)における四大工業化プロジェクト(商品借款)、フィリピンにおける輸出加工区建設、国立航海技術訓練所拡充計画、「政治性」を伴っているとされた商品借款、インドネシアにおけるコタパンジャン(現地語では「コトパンジャン」)ダム建設、ボロブドゥール遺跡保全、タイにおける社会教育文化センター建設、東部臨海開発計画、東北タイ造林事業、インドにおけるサルダル・サロバル・ダム建設、ザイールにおけるマタディ橋建設、パプアニューギニアなどにおけるJICA開発投融資などである。特に、コトパンジャン・ダム建設については、2000年代になって住民による日本政府などを相手とする損害賠償請求がなされ、最高裁まで争われたが、日本政府などが勝訴した。
(ODA批判の理念の不在)ODA批判の中には、アジアの人々は「自立」を求めているとして「援助なき発展」を主張する考え方、ODAは「善なる西洋近代化の輸出である」とする考え方、援助は南北格差と国内格差を温存し、強化するとする考え方などといった援助否定論(批判の理念)があった。しかしながら、ODA批判本の多くは、ODA批判が一般国民のODAに対する見方にどういう影響を及ぼすかを深く考えることなく、ODAの「問題案件」をいわば事件として取り上げることにとどまっていた。また、開発と貧困と不平等の間の相互関係について深く考察し、開発を実現し、貧困を削減する方策について前向きの提言を行ったようにも見えない。

4.ODA擁護の概要と政策・制度改善努力
(1)ODA擁護の概要
 上記3.の批判に対して擁護派は次のような反論を展開している。
●「人道的配慮」と「相互依存関係」が基本的理念とされてきた。重要なことは「国民の大多数が援助の必要性を認めているか否か」である(1990年度ODA白書)。
●開発途上国の発展のためには、民間企業活動の活性化が重要であり、ODAはそのための条件を整備する役割を果たし得る(1990年度ODA白書)。日本企業支援に対する批判については、多くの擁護派がこの時代に進展した円借款のアンタイド化に触れている。
●JICA及びOECFにおいて環境配慮のガイドラインを作成し、環境配慮のための組織的対応を強化してきた。相反する住民の意志をどのように調整するかは、すぐれて途上国自身の国内調整の問題である(1990年度ODA白書)。
●「要請主義」については、要請の精査・検討、相手国政府との政策対話、国別援助計画の作成などによって対応している。
●ODA批判においては、「相手国政府の実施能力にかかわる問題」及び「案件実施対象地における住民たち」が取り上げられてこなかった(佐藤仁前掲書)。
●ODA基本法に書かれることになる援助のあり方について意見の一致は見られず、援助の目的を貧困削減にすると片寄った協力しかできないことになる(笹沼充弘前掲書)。
●「援助庁」の如き新たな機関を設置することは屋上屋を架すことになり、行政改革の思想に逆行する(1990年ODA白書)。
●援助の実務家からは、ODA事業の実態と報道内容に乖離が生ずる理由として、事業に対する理解不足、技術への理解不足、発展途上国の事情に対する理解不足、開発事業そのものへの誤解、既成概念の影響、発展途上国への偏見などが指摘されている(笹沼充弘前掲書)。
(2)政策・制度改善の努力
 この時代、外務省と国内援助機関は、ODA批判に応えつつ、ODA政策・制度の改革・改善に取り組んだ。
(ODA大綱の策定)まず、1992年ODA大綱が作成され、援助理念のうち援助の必要性が「理念」として、援助姿勢が「原則」として取りまとめられた。2003年8月には同大綱が改定されている。
(援助実施の一元化)この時代においても、各省庁間の連携・調整の努力が行われた。1988年12月には、官房長官、外相などが出席する対外経済協力閣僚会議が設立された。また、1998年6月には外務省が政府全体を通ずる調整の中核としての機能を担うこととなった。ただし、ODA実施体制の一元化は2000年代を待つ必要があった。
(社会環境配慮の強化)1989年10月「環境配慮のためのOECFガイドライン」が策定され、1995年8月の改定により、借入国における環境影響評価(EIA)が義務付けられることとなった。他方、JICAは1990年から「環境配慮ガイドライン」を導入し、環境と地域社会に影響を及ぼす開発調査の実施に当たっては、事前調査の際にスクリーニングとスコーピングを行うこととした。
(NGOに対する支援とNGOとの対話)1989年度に、途上国で活動するNGOなどに対して直接援助を行う小規模無償資金協力制度が設立され、また、海外で活動する日本のNGOを支援するためのNGO事業補助金制度が発足した。1996年には年4回NGO/外務省定期協議会を開催することとなった。
(情報公開)日本政府は1998年11月、ODAの課題や国別の援助計画を明確にし、案件の選定から事業の実施、事業評価に至るまでのプロセスの透明性の向上とODAに関する情報公開の促進に取り組んでいくことを表明した。

5.ODA批判が残した負のイメージ
(ODAに関する世論の動向)
内閣府が行っている「外交に関する世論」は、調査対象者に対して経済協力(開発協力)を①積極的に進めるべきである、②現在程度でよい、③減らすべきである、④やめるべきである及び⑤分からないからの選択を求めている。1978年から2020年までの結果を見ると、①の割合は、1978年以降1989年までは40%前後であったが、1990年に下降を始め、2004年には18.7%まで低下し、その後回復に転じ、2020年には30.6%となっている。これに対し、③の割合は、1978年以降1989年までは一桁台で推移していたが、1990年には初めて10%を上回り、2004年に25.6%のピークを迎えた後、2020年には10%を下回る数字に戻っている。この間④の割合は終始5%を上回ることはなかった。また、②と⑤を合わせた割合はほぼすべての年で50%を上回り2020年には57.6%となっている。ここから言えることは、1990年を境にODAに対する支持が弱まり、2004年まで続いた後(注1)、2005年以降回復に転じたが、依然1970年代及び80年代の水準に戻っていないことである。また、より重要なことは、ODA予算が大幅に削減されているにも関わらず(注2)、40%以上の回答者が引き続き現在程度でよいと答えており、分からないと答えている回答者を含めると約半数の回答者がODAに関心を有していないよう見えることである。なお、2005年以降回復に転じた理由は必ずしも明らかではないが(注3)、単にODA予算が大幅に削減されたことに一部の世論が遅れて反応した結果にすぎないのかもしれない。この関連で、ODA支持が低下し始めた時期と回復し始めた時期の予算レヴェルがほぼ同じであることは興味深い。世論の一部はODA予算の多寡に反応しているように見える。
(ODA批判が残した負のイメージ)佐藤仁東大教授が2016年から2018年に行った調査によれば、この時代に「問題案件」とされた12案件のうち10案件は「今では地元の人々に評価される対象に変化していた」(佐藤仁前掲書)。筆者としてはこのことに安堵してばかりはいられない。経済協力(開発協力)に対する世論の動向は、それぞれの時期の国際情勢、国内の経済状況・財政状況などを反映していることは言うまでもないが、筆者には、ODAに対する世論の無関心と1990年以降のODAに対する支持の低下・低迷の背景の一つとして、ODA批判、とりわけ1980年代末から90年代初頭に盛んとなったODAに対する批判があるように思われる。そして、2005年以降も国民の間に依然負のイメージが残され、ODA(開発協力)に対する積極的支持が十分得られていないことが、ODA予算の伸び率の制約になっているのではないかと考える。
(注1)安藤直樹JICA財務部長は、この時期の支持低下・低迷の要因として、「バブル経済崩壊以降の経済停滞と財政状況の悪化」及び「天安門事件以降の対中国感情の悪化」を挙げている(安藤直樹「外交世論調査における開発協力への支持の変遷」政策大学院大学)。
(注2)1997年度まで一般会計当初予算は一貫して増額された後(1997年度1兆1687億円)、2015年度までに半減され(2015年度5422億円)、2016年度になり微増に転じている。
(注3)安藤直樹部長は2005年以降の世論支持が回復している最も重要な理由として、「国際貢献に対する世論の成熟」を指摘している(前期論文)。

6.負のイメージからの脱却の道(ODAから開発協力へ)
 このような負のイメージから脱却することは容易ではない。そのためには、一方でODAによる国際貢献の重要性に対する理解を得るとともに、日本の現下の経済・財政状況に鑑みODAが広い意味での国益(国際益)にもかなうものであることを幅広く訴えることが基本となろう。
(ODAから開発協力へ)2015年2月に策定された開発協力大綱では、「狭義の「開発」のみならず、平和構築やガバナンス、基本的人権の推進、人道支援等も含め、「開発」を広くとらえることとする」とわざわざ断っている。このように記述した背景には、ODAには一般に想定される開発を超える貢献が求められていることを改めて明らかにし、ODA(開発協力)に対する一層幅広い支持を得ようとする意図があったものと考えられる。
(国際貢献と国益の関係)日本の置かれた経済・財務状況に鑑み、ODAに対して開発途上国の開発・貧困削減とともに、日本経済の活性化に期待が寄せられるのは当然である。日本政府としては、内外において国際貢献と国益との関係を丁寧に説明していくことが求められる。
(開発協力政策・制度の不断の改善・改革)幸い、ODA批判の時代以降においても、援助政策・制度の改善・改革の努力は続けられている。国際社会からの要請、開発途上国を取り巻く環境の変化、途上国の援助ニーズの変化などに応え、開発協力政策と制度を不断に改善し、改革することが求められている。特に、開発協力という考え方を取り入れることとした背景には、政府が民間企業、地方自治体、NGOなどと連携を図っていくことの重要性に対する認識があったことを想起し、これらの機関・団体との一層効果的な連携の道を探っていくことが大切である。
(伝統的なODA案件の着実な実施)今後とも、ODA案件を着実に実施し、ODA批判の原点となった「問題案件」を作らないことが重要であることは言うまでもない。他方、国内援助機関が「むずかしいもの、失敗したり、問題を残したりする可能性のあるものには尻込みしてしまう」という懸念もある(笹沼充弘前掲書)。国内援助機関には、開発途上国の開発・貧困削減に資するのであれば、十分な調査、利害関係者への丁寧な説明、他の二国間・国際援助機関の成功例の調査などを行った上で、将来主流となり得るような難しい案件にも取り組んでいってもらいたい。

(引用文献)
佐藤仁『開発協力のつくられ方 自立と依存の生態史』東京大学出版会
草野厚『ODA一兆二千億円のゆくえ 日本の国際貢献のあり方を問う』東洋経済新報社
朝日新聞「援助」取材班『援助途上国ニッポン』朝日新聞社
毎日新聞社会部ODA取材班『国際援助ビジネス ODAはどう使われているか』亜紀書房
月刊誌「世界 」1989年10月号「特集 援助という逆説」岩波書店
外務省経済協力局編1990年度『我が国の政府開発援助 上巻』財団法人 国際協力推進協会
笹沼充弘『ODA援助批判を考える』工業時事通信社
安藤直樹「外交世論調査における開発協力への支持の変遷」政策大学院大学