WTOが直面する課題と今後の展望
WTO事務局長上級補佐官 宇山智哉
WTOに対する逆風
WTOは逆風にさらされている。とりわけ、西側諸国と中国・ロシアとの地政学的対立、貧富の格差が拡大する中での国内政治における貿易への非難、それに伴う保護主義的措置など、ここ数年間、WTOはますます厳しい環境に直面している。
こうした状況を捉えて、「WTOは死んでいる」「WTOは機能不全」といったような極端に否定的な見方がマスコミ報道などで広がっている。こうした単純な捉え方は誤解を招くし、率直にいって正しくないと思う。
WTOを取り巻く深刻な問題があることは事実であるが、だからといってWTOの機能が全て停止に追い込まれているわけではない。世界貿易の75%以上は依然としてWTOの規定する最恵国待遇ベースで行われている。WTOは、空気のように、依然として大きな役割を果たしている。
私は新たな事務局長となったナイジェリア人のオコンジョ=イウェアラ氏を支える上級補佐官として2021年5月からWTO事務局で勤務している。オコンジョ事務局長はナイジェリアの元財務相、外相で、世界銀行で25年間勤務しナンバー・ツーのマネジング・ダイレクターまで登りつめた逸材である。

1994年モロッコのマラケシュでの協定署名から、WTOは今年で30周年を迎えた。さらにその前身のGATT誕生の発端となった1944年のブレトンウッズ会合から今年で80年の節目を迎える。この間GATT、WTOによる多角的貿易体制は、世界の自由貿易を守り発展させてきた。
WTOは「機能不全」か?
それではなぜ今、WTOが全体として「死んだ」とか「機能不全」などと否定的に語られるのであろうか。
第1はWTOはガット時代からの歴史的経緯により、ラウンドと言われる自由貿易交渉を積み重ねてきたが、1994年に妥結したウルグアイ・ラウンド以降、大きなラウンド交渉で成果が出せていない、という点である。第2は、紛争解決制度が十分機能していない、とりわけ第2審に当たる上級委員会が機能していない、という点である。第3は、WTOメンバー間にこれまで80年間の歴史の中で経験していない地政学的対立が起こっており、多角的貿易体制そのものが危機に瀕しているとの点である。
これらを一つずつ見ていきたい。
ラウンド交渉停滞とWTO発足後の実績
まず、第1の、ラウンド交渉が成果を上げていない、という点である。確かに、ウルグアイ・ラウンドが妥結した1994年以降大きなラウンド交渉の成果は出ていない。2001年に開始されたドーハ・ラウンドも紆余曲折があったが、2008年の閣僚レベルでの交渉が決裂し、その後このラウンドが全体としてまとまるインセンティブが失われている。この背景として指摘されるのが、メンバーの増大と途上国の発言力の高まりである。ガット発足当初のメンバーが同じ価値観を共有する仲間で、冷戦期には東側と対峙した国々であったのに対し、WTOはさまざまな価値観を持つ多くの国や地域が参加している。とりわけ、途上国はルールの適用について適用の免除や適用開始時期までの猶予期間、さらには、協定実施のための能力支援を主張することが多く、交渉は常に複雑になり、難航する。決定はコンセンサスが必要とされるが、それは容易ではない。
しかしWTO発足以降有益な成果が出ていないかと言えば、そうではない。
ドーハ・ラウンド全体の合意が困難になったことを踏まえ、2008年以降は合意可能な分野を見つけ、個々の分野での交渉が行われた結果、2013年の第9回WTO閣僚会合で輸出入等の手続きを合理的迅速に行うための「貿易円滑化協定」が合意された。これは各種援助と相まって、途上国の税関の機能の向上に資するものとして高く評価されている。
2022年の第12回WTO閣僚会合では、SDG14.6の目標にもなっている漁業補助金の規制のうち、違法、無報告、無規制の漁業に対する漁業補助金の禁止に合意した。これは、海洋資源の持続可能性に関する初めてのWTOルールとして歓迎された。
特定分野の貿易に携わる有志メンバーが交渉して成果を上げた例も多い。例えば、WTO発足後に行われた基本電気通信サービス、金融サービスに関する交渉はいずれも1997年に合意し、その後のグローバル経済に大きな貢献をした。最近では、2021年にサービス産業に対する国内規制に対し、貿易促進の観点から透明性の向上などの一定のルールを適用するための合意が成立した。
デジタル化が進む中IT製品の関税も1996年、2015年の2度にわたる交渉が妥結し、関税撤廃が実施された[1]。また、ウルグアイラウンド時に合意され、その後2010年までに行われた4回の医薬品関税撤廃交渉により、医薬品や7000品目を超える成分の関税が撤廃されている。
今年2月には125のメンバーが外国投資を円滑にするためのルールに合意し、現在これをWTO協定の一部に入れ込むための交渉が行われている。さらに、91のメンバーが参加する電子商取引のためのルールも合意されつつある。
WTOが設立されてから、中国、ロシアを含む36カ国がWTOに加盟した。現在のメンバーは164になり、今年中にさらに2カ国が加盟する予定である。これら諸国は加盟交渉を乗り切るために国をあげて大胆な国内経済改革をしており、それがその後の経済発展に大きく貢献した意義は極めて大きい。さらに22もの国がWTO加盟を目指し、極めて困難な交渉を続けている。WTOが果たす価値が依然として大きいとみられている証左だ。
これらの合意一つ一つは大きなラウンド交渉とは異なるが、実際のビジネス、人々の生活に大きなインパクトを与えていることを強調したい。
紛争処理手続きの現状と改革案
第2は、紛争解決手続きの問題であるが、これは確かに深刻である。米国は長年にわたり、上級委員会の判断がWTOで合意された範囲を逸脱しているなど不満を強めていたが、トランプ政権になってから、今日に至るまで上級委員の任命を拒否し続けており、結果として上級委員会が全く機能していない状況にある。
これについては、次の2点を指摘したい。
まず、紛争解決手続きの問題については、2022年と2024年のWTO閣僚会合で2024年末までに紛争解決手続きの完全な機能回復を図ることで合意がなされており、そのための作業が進められている、ということである。

また、その機能が完全に果たされていない中でも、WTOの紛争解決手続制度は引き続き活用されていることも指摘したい。第1審のパネル報告書が出されたあと、自らの主張が認められなかった当事者が上訴せず、それを受け入れるケースも少なからずある[2]。さらには、米国とインド、中国と豪州の貿易に関する紛争など必ずしもWTOの手続きによらずとも、二国間の対話で紛争が解決した例も出てきている[3]。元々WTOの手続といっても紛争の解決を目指すものであり、こうした対応は歓迎されるべきものであろう。
さらに、上級委員会が機能していない中での暫定的な対応として、2020年より有志国が仲裁によって紛争を解決する仕組み[4]を立ち上げている。これには、日本、EU、豪州、カナダ、中国など54カ国が参加しており、少なくともこのメンバー間の紛争は2段階の紛争解決の仕組みが機能しうることになる。
地政学的対立の影響と新しいグローバル化の動き
第3に地政学的対立の問題がある。冷戦時代のGATTが市場経済価値を共有するメンバーの集まりであったこと、WTOが設立されたポスト冷戦時代は西側の価値観がロシアや中国を含む旧東側諸国にも波及すると信じられていたことから、GATTやWTOメンバーの間で地政学的対立が起こることは最近までなかった。ポスト冷戦時代の終焉が顕著になってきたここ数年間で、WTOは初めて自らのメンバー間での地政学的対立を経験している。その深刻さは、メンバーがとった個々の措置がWTO違反かどうかという次元を超えて、第二次対戦後の世界経済の発展を支えてきた多角的貿易体制そのものがぐらついているのではないか、との議論を産むほどである。とりわけロシアのウクライナ侵攻の後、世界経済は「反グローバル化(de-globalization)」または「分断(decoupling)」に向かっているとの議論も出た。
世界経済の分断の論調を深刻に受け止めたオコンジョWTO事務局長は、ロシアのウクライナ侵攻直後にWTOのエコノミストに指示し、仮に世界経済が分断に至った場合を予測し、長期的に見て少なくとも世界のGDPの5%が失われるとの試算をとりまとめた。これは日本経済が丸ごとなくなるに匹敵する大きな損失である。これに基づき世界の指導者、有識者、メディアに対し、経済の分断を避けるよう訴え続けている。
さらに、問題の本質が、重要な産物の生産が一定の国や地域に過度に集中していることによるリスクであることから、こうしたリスクの回避のためには、貿易の分断ではなく、問題となっている過度な生産集中を回避すべく、むしろ生産を多くの国に分散させるようにすべきである、と主張し、これを「新しいグローバル化(re-globalization)」と呼んでいる[5] 。「新しいグローバル化」は、特定の国への過度な依存からくるリスクを軽減するのみならず、これまでグローバル・バリュー・チェーンに組み込まれていなかった途上国に参加のチャンスを与え、日本をはじめ東アジアの国々が経験してきたような貿易主導型経済発展をアフリカや南アジアなど他の地域に広げることに貢献できるのではないか、とも述べている。そして、「新しいグローバル化」実現のためには開かれた多角的貿易体制が必要である。

WTOの着実な成果へ向けてのオコンジョ事務局長のリーダーシップ
こうした言論戦の一方で、国際社会が分断の危機を孕んでいる中で、多角的貿易体制の強靭性を高める最良の方法は、何よりもWTOが目の前の一つ一つの課題に対して結果を出すことである。
アルゼンチンのブエノスアイレスで開催された2017年の第11回閣僚会合は、ほとんど期待された成果が出せない厳しい結果となった。その後、コロナ禍が地球を覆い、本来2年に一度開催されるべきWTOの閣僚会議の延期が続く中、2021年の3月にオコンジョ事務局長が就任した。彼女の目下の課題はWTOが現在の国際社会の課題に対応できる姿を示すことであった。

こうした状況のもとで取り組んだ第12回目の閣僚会合(MC12)であったが、オミクロン株の蔓延でさらに延期になる中、2022年2月に同年6月の開催を決めた直後にロシアのウクライナ侵攻が起こった。WTOの決定はコンセンサスである。ロシアもウクライナもWTOメンバーである以上、これらの国、さらには、米国、EU、アフリカ、日本、中国など全ての加盟メンバーの同意がないと閣僚決定には至らない。毎日のように開かれるWTOの各種委員会等の会合で、ロシアのウクライナ侵攻へ非難とロシア側の反論が繰り返される中、オコンジョ事務局長は水面下のさまざまな接触を試み、強いリーダーシップと固い信念でWTOで結果を出す重要性を訴えた。6月の閣僚会合では、先述の漁業補助金協定の採択、コロナウィルス・ワクチン生産に向けて途上国に一定の知的財産保護の柔軟性を与える決定、電子的な送信に関税を賦課しないモラトリアムの延長、紛争解決手続きの2024年までの機能回復など10本の決定が合意された。2年後の本年2月の第13回閣僚会合では、期待された漁業補助金協定の第2弾の合意はあと少しで逃したものの、東チモールとコモロのWTO加盟承認、電子商取引のモラトリアムの再延長など10本の決定に合意したほか、有志国が推進していたサービス国内規制ルールのコンセンサスによる発効、有志国が推進する投資円滑化協定の採択など多くの成果を得た。困難な情勢の中、WTOは結果を出して前進を続けている。

WTOを取り巻く情勢は厳しい。これまで当たり前と思っていた多角的貿易体制が今後も意味のある役割を果たし続けるには、日本を含めた国際社会によるこれまでにない真剣な努力が必要である。オコンジョ事務局長はとりわけ日本の役割を高く評価し、今後のリーダーシップを期待している。読者の皆様のご支援を心よりお願いする次第である。
(了)
(本稿は全て筆者の個人の責任で著したものであり、WTOを含めて筆者がこれまで属した組織の意見を反映したものではない。)
[1] WTOによれば、1996年のITA1合意品目の輸出総額は2.5兆ドル、2015年のITA2合意品目の輸出総額は2.1兆ドルである(いずれも2021年)。
[2] 2019年12月に上級委員会の活動が停止されてから今日(2024年6月)までに、14件のパネル報告書が上訴されずに、採択された。一方で、この期間に上訴され、現時点でペンディングになっている案件は24件である。
[3] 2019年12月2019年12月に上級委員会の活動が停止されてから今日(2024年6月)まで、17のWTO紛争案件について、当事国の合意が成立した。
[4] 「多数国間暫定上訴仲裁アレンジメント(MPIA)」と呼ばれる。
[5] オコンジョ-イウェアラ「なぜ世界は引き続き貿易を必要としているか」2023年「フォーリン・アフェアーズ」誌(7-8月号)掲載。