余談雑談(第187回)日中交流について

元駐タイ大使 恩田 宗
日本はユーラシア大陸の東端に位置し英国は同じ大陸の西端にある。英仏海峡は小舟でも渡れるが東シナ海は小舟では渡れない。遣唐使の船は当時としては大型であったが毎回1~2隻は漂流か難破し船団の全船は渡りきれなかった。鑑真和尚も日本への渡航に5回失敗している。大陸の西部では西暦43年ブリテン島がローマ帝国に組み込まれ今英国は西欧諸国の一員として同盟関係にある。大陸東部では、57年、倭の奴国(ぬこく)が後漢の冊封体制に組み込まれた。「日中交流二千年」と言われる所以であるが今の日中関係は対決的と形容し得る程冷ややかである。
日本統一が成る前は一部の豪族は大陸の帝国に朝貢していた。奴国の使者は献上品を携え半島経由の長旅をして洛陽に赴き光武帝より印綬を下賜された。苦労して遠隔地に朝貢していたのは権威ある皇帝から自分達の存在と地位を認めて貰い寛大な下賜品を得るためだった。邪馬台国の卑弥呼は240年に奴隷10人布2匹2丈などを魏に献上し金印と銅鏡100枚他の物品を貰っている。5世紀の倭の五王になると安東将軍に任じて貰うなど官爵称号の獲得を主目的にした。聖徳太子の遣隋使や奈良時代の遣唐使は多数の仏僧・学生を連れており高度な文化の輸入を目指した。この頃が日中交流の黄金時代で阿倍仲麻呂や吉備真備の様な国際人が輩出している。
遣唐使は894年廃止された。交流「二千年」と言っても明治までの約千年は公的接触はほぼなしである。個人的交流も元々少なく今も少ない。又「交流」と言ってもこちらが一方的に求め学ぶ偏った関係で先方の対日関心は薄かった。明朝の地図に日本が台湾辺りの島として描かれているらしいがその程度の認識で済ませていたのである。江戸時代の日本人は大陸と往復できず「学ぶ」と言っても漢籍を読むだけで満足せざるを得なかった。日本の指導層の中国文化に対する尊敬と憧れの念は歴史を通して強く幕府の要人や大名などは長崎の中国人商人を通じ現地情報や新刊書などを手に入れていたらしい。鎖国の220数年間日本人の努力は国内に集中し日本固有の独特な文化を創り育てる結果になった。鎖国のメリットだと言える。
イギリスは欧州に溶け込んだが日本は中国と融合しなかった。文明史家のA・トインビーやS・Pハンチントンは日本文明を中国文明と別の文明として挙げている。日中は隣国同士であり漢字を使うのも両国だけである。国家も個人も互いにもう少し親しく交流して然るべきである。戦争の加害者・被害者のトラウマを克服する必要があるが加害者としての日本の工夫がやや足りなかったと思う。
