余談雑談(第186回)日本と西洋の出会い

元駐タイ大使 恩田 宗
日本が初めて西洋に出合ったのは戦国時代で先方も宗教改革と大航海で激動していた。西洋では先ずスペインとポルトガルが外洋に乗り出し前者は米大陸を発見した。発見の翌年の1493年、ローマ法王アレキサンデル六世は競う両国を西半球はスペイン東半球はポルトガルに割り振りそこでの領土の支配を認めキリスト教布教の保護を命じた。
50年後、種子島にポルトガル人が漂着した。彼の所持する火縄銃の威力に驚いた島の領主の種子島時尭(ときたか)はその場で大金で買い取った。銃は複製、大量に生産され日本の軍事力を飛躍的に高めた。日本がポルトガルや他の西洋諸国に侵されずに済んだのは時尭の功績だと言える。F・ザビエルはその6年後鹿児島に上陸した。宣教は苦難の連続で僧侶の敵意や市民の偏見に苦しめられたが西洋の日本布教の熱意は衰えず秀吉の宣教師追放令が出た頃には宣教師約50人信者20~25万人(人口比約1%)に達していた。
徳川幕府はキリスト教信者を探し出し棄教しなければ磔刑・火刑・流罪等に処した。260年間で大きな殉教事件は数件個別には数十件に及んだ。信者は「吉利支丹」と書いていたらしいが江戸中期に「切支丹」に変えられ以来そのままである。「殉教」も信者達はラテン語風に「マルチル」「マルチリョ」と呼び「丸血留」と記していたという。
開国すると待ちかねていたかのように米・仏・カナダ等から多数の宣教師が来日した。彼等は先進文化の紹介者として歓迎された。当時信者数はほぼ零だったが急速に増え明治の末には13~15万人を超えた。(但し人口比は0.2~0.3%)。その後は軍国主義で教勢は伸び悩み敗戦後も占領軍の支援にも拘わらず信者数はあまり増えなかった。世相の世俗化や少子化に災いされ、昭和の半ば頃から現在に至るまで、人口比は1%前後で横這いし実数はやや減少気味である。
西洋は出合いの当初から日本のキリスト教化を望みそのため根気よく努力してきた。しかし日本は西洋の先進的産物は進んで受け入れたがキリスト教は実質拒絶している。ニコライ堂のニコライやラフカディオ・ハーンは明治時代に日本人のキリスト教化は見込みがないと書いている。生れつき信者の遠藤周作も「キリスト教は(日本人の)肌に合わない」と言っている。しかし今聖書はよく読まれておりキリストの生誕や十字架での刑死・復活の話は広く知られている。教徒の政治家・学者・文学者・芸術家も多数輩出している。キリスト教は1%という数字が示唆するより遥かに深く日本の社会文化に浸透している。「丸血留」の血は無駄に流されてはいない。
