3000年前の病原菌からのメッセージ:一神教と鉄器文明
駐エジプト大使 能化正樹
人類の歴史の中で、疫病は戦争よりもはるかに多くの人命を奪ってきた。欧州では、ペストによる農民人口の減少が封建社会の崩壊を促した。中南米では、スペイン人が持ち込んだ天然痘やはしかによりアステカ・インカ両帝国の人口が激減した。第一次世界大戦末期には、スペイン風邪による死者が戦死者数を上回った。疫病が歴史を決めたとは言わないが、大きな影響があった。古くさかのぼれば、ギリシャ、ローマや中国でも、疫病が指導者の死や内政不安をもたらした例は事欠かない。ただ、最も古い例となると、やはり古代エジプトとメソポタミアではないだろうか。
1.ツタンカーメンの時代
エジプト考古学の第一人者ザヒ・ハワス博士がこんなことを語った。
「今から3300年前、ツタンカーメン王が生まれた頃、首都アマルナの住民の7割がマラリアに苦しんでいた。ツタンカーメンの死因もマラリアだった。残された妻のアンケセナーメンは、ライバルのヒッタイトの王子に結婚を申し込む。ところが、この王子はエジプト人に殺害され、激怒したヒッタイト王はエジプトを攻撃する。しかし、ヒッタイトが連れ去ったエジプト人の捕虜からペストが中東に広がっていく。」
当時の中東では、ナイル川流域からシナイ、パレスチナに広がるエジプトとトルコのアナトリア高原からメソポタミア北部に広がるヒッタイトが、共に全盛期で、現在のシリア、レバノン付近を境に対峙していた。
エジプトは新王国第18王朝(紀元前1570-1293年ごろ)に当たる。女帝ハトシェプスト、古代エジプトのナポレオンと称されるトトメス3世、アブシンベル宮殿を作ったラムセス2世など、著名なファラオが続く時代である。
2.世界初の一神教
ツタンカーメンの先代イクナテンは、世界史上初めて一神教を唱えた異色のファラオとされる。
唯一神は「アテン」と呼ばれ、太陽の円盤から、千手観音のように手の形をした光線が何本も伸び、その先に握られた十字架型の「命」をファラオが受け取る姿を描いた壁画が残っている。イクナテンの行動の背景には神官団への反発があった。テーベ(ルクソール)の地元神アメンを司る神官団が強大化していた。イクナテンは彼らの政治への介入を排するために別の神を奉じた、とするのが通説である。
しかし、疫病の影響も考えられる。当時の文書記録に加え、装飾のない墓への大量埋葬や親子婚を繰り返して直系血族を守ろうとした形跡がある。イクナテンが王族を含む人の命を守ってくれなかったアメン神に見切りをつけ、300キロ離れた安全な場所に新首都を建てたとする研究者もいる。
ただし、この一神教はエジプト人に受け入れられなかった。これまで信じてきた神々を否定された上、神とのやり取りをファラオが独占するからである。イクナテンが亡くなるとアテン信仰は放棄され、その名前まで記録から抹消される。後継者は名前をツタンカーテン(アテン神の生ける似姿)からツタンカーメン(アメン神の生ける似姿)に改め、首都も以前のテーベに戻る。
3.「ヒッタイト病」
ツタンカーメンは10年ほど在位して亡くなってしまう。享年18-19歳であった。権力闘争のはざまで残された妻のアンケセナーメンは、ヒッタイトのシュッピリウマ1世に驚くべき書簡を送る。「私は夫を亡くし、息子がいません。あなたには多くの息子がいるそうです。一人送ってくだされば夫になってもらいます。私は自分の臣民(エジプト人)の妻にはなりません。」
シュッピリウマは不審に思い、エジプト国内の様子を探らせる。そこでアンケセナーメンは二通目の書簡を送る。「私に息子がいれば、自分の国を辱めるような手紙を書くと思いますか。あなたが多くの息子を持っているから書いたのです。送っていただいた息子は、私の夫となり、エジプトの王となります。」
これを読んだシュッピリウマは王子のザンナンザをエジプトに送る。ところが、エジプト側でこの動きを察知した勢力により王子は殺されてしまう。結局アンケセナーメンは、叔父で摂政役のアイと結婚する。父親のイクナトン、義弟のツタンカーメンに次いで三人目の夫であった。
王子を殺されたシュッピリウマはエジプトと戦う。しかし、連れ帰ったエジプト人捕虜が疫病に感染していた。シュッピリウマ自身が倒れ、翌年には後継者の息子も亡くなる。紀元前1322年から20年間猛威を振るった疫病は「ヒッタイト病」と称された。
4.天然痘、ペストと生物兵器
後を継いだムルシリ2世は、疫病に苦しみながら国を治める。彼の恐怖と不安は、「ヒッタイトの祈り」と言われる粘土板記録から切実に伝わってくる。
「父がエジプト領に行った日から(20年間)ハッティ(注:ヒッタイトの首都)は死に続けています。」
「王と王妃と王子に永遠の命と健康と力を与えてください。」
「この土地から疫病を持ち去ってください。」
そして、「神よ、あなたは人類に背を向けた。人類は疫病に侵され、あなたのしもべは減ってしまった」という文章からは、疫病がヒッタイト以外にも広がっていたことが伺われる。
恐ろしい「ヒッタイト病」の正体は何だったのか。確実なことはわからない。そもそも19世紀にパスツールやコッホが細菌学を研究するまで、病原菌というものがわかっていなかった。その前提でいえば、天然痘説とペスト説がある。少し後の世になるが、ラムセス5世(紀元前1150年頃死亡)のミイラには、顔や肩に膿疱があり、天然痘に感染していた証拠とみられている。
ペストについては、古代エジプトの医学書の中にそれらしき記述が出てくる。例えば、紀元前1500年頃に編纂された「エベルス・パピルス」には、「体が黒い斑点で黒くなる時」「水(尿)が赤い液体(血液)になり、体が炭で真っ黒になる時」など、ペストを想起させる症状が書かれている。また、ペストを媒介するノミや黒ネズミの死骸も遺跡から見つかっている。
天然痘にせよペストにせよ、激しい症状で人の姿を変えてしまい、致死率も高かったので、大変な恐怖を起こしたことは想像に難くない。ところが、ヒッタイトは自分たちが苦しんだだけではなかったらしい。アナトリア西部の対抗勢力に野兎病(トゥラレミア)に感染した羊を送り込み、敵地に感染を引き起こした可能性が指摘されている。もし事実なら、世界最古の生物兵器かもしれない。
5.カデシュの戦いと平和条約
紀元前1275年頃、勢力圏の奪回を目指して進軍してきたエジプトのラムセス2世とヒッタイトのムワタリ2世が激突する。場所はカデシュ。今のシリア内戦の激戦地になったホムスの近くで、レバノン国境から数キロである。
戦況はルクソールのカルナック神殿の碑文に残されている。そこではラムセス2世が英雄的勝利を収めたことになっているが、実際にはその後ヒッタイトの勢力圏が南側に拡大している。勝敗はともかく、エジプトにはこれ以上の領土拡張が難しく、ヒッタイトは内紛に苦しんでいた。ラムセス2世の時代は疫病もあった。しかも、両国ともメソポタミアで勢力を伸ばしていたアッシリアの脅威に対抗する必要があった。
この結果1258年、エジプトのラムセス2世とヒッタイトのハットゥシリ3世は和平を結んだ。世界最古の国際平和条約であり、国連本部にもコピーが飾られている。テキスとして、エジプトの石壁に書かれたヒエログリフ版とヒッタイトの粘土板に書かれたくさび形文字版が残っており、細部は別として実質的内容は一致する。装飾的表現を取り払うと、要点は以下の通りである。
・エジプト、ヒッタイト両国の間で永遠の平和と同胞関係を維持する。
・いずれの国も他方の国に侵入しない。
・第三国がいずれかの国を攻撃し、またはいずれかの国で内乱が起こった場合、要請があれば、他方の国が軍を派遣し、これらの敵を殺す。
・いずれかの国から他方の国に重要人物が逃げてきた場合、受け入れずに送り返す。
・千の神がこの合意の証人となる。合意を破った国は、千の神がその国を破壊する。
今日の条約と比べて神が合意を保証する点は別だが、戦争状態を終わらせる平和条約と共に、将来の相互不可侵と相互支援を約束する同盟条約の側面を持つことがわかる。
6.青銅器時代から鉄器時代へ
しかし、平和は長く続かなかった。「海の民」と称される様々な民族が攻勢をかけてくる。
鉄器文明で先行していたヒッタイトは滅亡し、エジプトでは新王朝が倒れて混乱期が訪れる。ギリシャのミケーネ文明も崩壊する。
並み居る強国が「海の民」という雑多な集団によって総崩れになるのは不思議だし、その後、「海の民」が新たな強国を建設したわけでもない。自然災害や経済・社会システムの崩壊などで各国が弱体化していたことが考えられる。要因の一つとして疫病を指摘する研究者もいる。
この一連の動乱は古代史のミステリーであるが、その後に起こったのは鉄器時代の始まりである。それまでヒッタイトが独占していた鉄器技術が流出して普及し、青銅器時代が終わりを告げる。
以上のように見てくると、疫病が一神教と鉄器文明という現代につながる歴史の節目に登場したことがわかる。疫病は歴史の決定的要素というよりは、時代背景の一つに過ぎなかったかもしれない。しかし、恐ろしい病が人の心、そして行動に与える影響は興味深い視点である。ただ、検証は難しい。
エジプトで考古学者たちと話していると、何一つ確実なことはないと感じる。砂漠気候のため、日本では考えられないほど古く多数の遺物がある。4500年前の木材が1年前のものに見えることさえある。ヒエログリフの膨大な記録もある。それでも、古代を知ることはジグゾーパズルをわずかのピースで組み立てるようなものである。空白部分について考えさせられる。「もっと考えなさい」というのが、3000年前の病原菌からのメッセージかもしれない。
7.おわりに 現代の疫病について考える
しばらく前、外務省で担当した「国際保健外交」にのめり込んだことがある。
アフリカの現場を回り、ポリオ撲滅キャンペーンではナイジェリア北部まで出張しようとした(テロで中止になったが)。マラリアが熱帯病でないことも知った。日本でも平清盛などマラリアで死んだとされる歴史的人物がいるし、北海道開拓民も苦しんだ。北朝鮮については最近でもマラリアが課題になっていた。
エイズ・マラリア・結核の世界的な対策を推進する「グローバルファンド」という基金の理事も務めた。その時、不正事案を巡る対応や事務局長(仏人)の辞任のため、人命を守る活動に支障が出そうになった。私は、仏語のバックグラウンドもあり、英語圏と仏語圏、先進国と途上国の間の調整を期待されて新事務局長候補の選考委員長を任された。政治的介入を排するために人事の秘匿性を守りつつ、多様な関係者と公正で開かれた協議をする難しいバランスを求められ、途上国理事のリーダー格だったテドロス・エチオピア保健大臣(現WHO事務局長)ともやりとりした。最終的に理事会の全員が満足する形で候補者を提示し、事務局長選出につなげることができた。
この過程で、各国政府、国際機関、NGO、感染者団体、企業など、国際保健に関わる幅広いステークホルダーの本気度や情熱、コミュニケーションの難しさを体感した。
国際保健で一番大事なのは、政治化を避けつつ政治の関与を確保することである。疫病の歴史を調べるにつれ、ますますそう感じている。
感染症対策は着実に進んでいる。天然痘は1980年に撲滅された。ポリオは、今年8月、アフリカからの撲滅が宣言された。しかし、新型コロナを始め、感染症はこれからも生まれ、変異を繰り返す。そのたびに我々はワクチンと治療薬を開発し、医療サービスを提供し続けなければならない。いたちごっこはこれからも続くだろう。
良いニュースは、強固な保健システムを持つ国は新型コロナにもうまく対応したことである。
日本では、1961年に実現した国民皆保険制度により、家計への負担を抑えつつ、質の確保された医療サービスを受けることができる。そのような環境の実現、いわゆる「ユニバーサルヘルスカバレッジ(UHC)」の普及のため、日本は自らの知見を活かして世界各国に協力してきた。UHC達成に尽力した国々はコロナ対策で確実に成果を挙げている。日本の国際保健外交が適切であったことを示している。
日本が健康寿命が長く活力のある高齢化社会を目指していることも世界から注目されている。国境を知らない病原菌の対策には、国際協力が不可欠である。日本は比較優位を生かし、これからも国際的パートナーシップをリードするべきだと思う。
(なお、本稿の分析や見解は著者個人のものであり、所属組織を代表するものではない。)