<帰国大使は語る> 内戦を経て発展に向かうアフリカの資源大国・アンゴラ


前駐アンゴラ大使 丸橋次郎

 2020年10月から2022年12月まで駐アンゴラ大使を務めて最近帰国した丸橋次郎大使は、インタビューに応え、アンゴラの特徴と魅力、日本との関係とその展望、在任中に経験したことや力を入れて取り組んだこと等について以下の通り語りました。

―アンゴラはどんな国ですか。その魅力は何ですか。

 未だアフリカは多くの日本人にとって遠い存在です。その中でもアンゴラはさらに縁遠い国だと思います。おそらく「アンゴラ」と聞いて、多くの方は「アンゴラ兎」を思い浮かべられるかと思いますが、アンゴラという国は、このアンゴラ兎とは全く関係はありません。アンゴラ兎の原産はトルコです。アンゴラという国名は、かつてこの地を支配していた「ンドンゴ」王国の王号「ンゴラ」に由来しています。
 現在のアンゴラを一口で言うと、サブサハラアフリカの中では、政治的に安定し、経済的には大変将来性豊かな国の一つだと思います。ただ、その陰には独立からその後の内戦という厳しい歴史がありました。アンゴラは1975年11月、ポルトガルから独立しました。1960年代初めに始まったポルトガルとの解放闘争を戦った3つの解放戦線グループが独立後も纏まれず、内戦が勃発しました。当時の東西冷戦を背景に、ソ連、キューバを中心とする東側の支援を受けた政府軍(アンゴラ解放人民運動:MPLA)と米国や南アフリカの支援を受けた反政府軍(アンゴラ全面独立民族同盟:UNITA)との内戦は、東西対立の代理戦争の様相を呈し、30年近くにわたる熾烈な戦いとなりました。最終的に和平が達成されたのは2002年4月で、2022年は和平達成20周年でした。20年という時間が長いか短いか、見方は色々ありますが、アンゴラの多くの人々にとっては、未だ20年という感じのようです。確かに、地方には未だ廃墟と化した建造物が多くみられますが、私が最も強く感じた内戦の爪痕は、現在アンゴラ社会で中心的な役割を担う30歳から40歳代の多くの国民、特に男性は、本来なら学教教育を受けているべき時代に内戦に駆り出され、基礎教育すら十分に受けられなかったことです。これが、アンゴラにおける人材不足という形で大きな負の遺産として残っています。

 一方、アンゴラは、植民地時代から、石油やダイヤモンド等の天然資源が豊かで、農業分野でも、コーヒー、綿花等、世界的にも有数の産地でした。これだけ豊かだからこそ、宗主国ポルトガルは最後まで手放さなかったのでしょうし、東西の代理戦争の的となったとも言えましょう。 また、この豊かさ故に、内戦が長続きしたという皮肉な一面があったことも否めません。

 アンゴラは、今やサブサハラアフリカで、ナイジェリア、南アフリカに次いで第3位の経済規模となり、石油生産量も、ナイジェリアと1、2位を争うなど、資源大国です。内戦時には東側の支援、内戦終了後の経済開発資金の多くは石油を担保に中国に依存してきましたが、現在は、多角的な経済外交を目指しています。

 文化・歴史的には、ブラジルをはじめ米州に送られた奴隷の多くはアンゴラ出身だったこともあり、アンゴラの文化は南米にも伝播しました。ブラジルのサンバの起源はアンゴラの「センバ」と呼ばれる音楽ですし、ブラジル料理として有名な「フェジョアーダ」はアンゴラから連れて来られた多くの奴隷の食事でした。このように、アンゴラがブラジル文化にもたらした影響は実に大きいものがあります。

 現在のアンゴラが抱える最大の課題は、国の富をいかに3000万人余りの国民に均霑するかです。アンゴラでは、内戦を知らない若者層が増えており、彼らは、貧富の格差が一向に改善しない現実を前に、独立以来、継続して政権を担ってきたMPLAに不満を募らせています。そうした状況から、2022年8月に行われた総選挙(大統領選挙)においては、MPLAが辛うじて第一党を死守し、ロウレンソ大統領は再選されましたが、議席は大幅に減らしました。野党UNITAは当初不正を訴える等、社会的混乱の可能性もありましたが、最終的には結果を受入れ、選挙は平和裏に行われました。私は、選挙前には、アフリカ諸国では日常茶飯事な選挙時の武力衝突も懸念していましたが、それは杞憂に終わりました。これは、与野党問わず、未だ内戦の悲惨さを経験している人々の二度と武力紛争は繰返さないとの強い意志があったからだと思います。私が話した多数のアンゴラ人は、未だ悲劇的な内戦をしっかりと記憶しており、二度と武力紛争は繰返したくないと考えています。アフリカでは多くの国で部族対立を原因とする武力衝突が起っていますが、幸いアンゴラではその危険性は小さいと思います。これは素晴らしいことで、こうした国民としての一体感を維持して、国の富がより多くの国民のために活用されれば、アンゴラは、アフリカにおける、経済的に豊かで政治的に安定したモデル国になり得ると思います。

―在任中に経験された大きな出来事や特筆すべき事柄はありますか。

 2年の在任中、半分以上はコロナ禍により対外活動は制限され、残念ながら二国間の交流は限られました。特筆すべき出来事は、2022年9月に行われたロウレンソ大統領の第2次政権発足時の就任式に桜田義孝衆議院議員が特派大使として出席されたことです。ロウレンソ大統領は就任式当日に桜田特使と個別に会談し、就任式出席に謝意を述べられました。コロナ禍で対面交流が暫く停滞していただけに、この特使派遣はアンゴラ政府から高く評価されたと思います。

―アンゴラと日本との関係はどのようなものですか。今後の展望はいかがですか。

 日本とアンゴラは1976年9月に外交関係を樹立しましたが、日本政府が本格的なODAを通じて政府間での実質的な関係が始まったのは、1989年、当時の外務省アフリカ第2課長がルアンダに出張した時だったと記憶します。その際、在ポルトガル大使館勤務であった私が通訳として同行、当時のドス・サントス大統領との会談にも立ち会いました。アンゴラは未だ内戦の最中でしたが、石油をはじめとする資源大国、アンゴラは日本にとっても重要な国となるとの認識のもと、早晩、訪れる和平を見据えて、水産や農業分野でのODAを開始しました。

 当時、既に主要商社やメーカー等の日本企業は進出しており、我々に、大使館の早期開設への期待が表明されました。今回、約30年振りにアンゴラに赴任しましたが、残念ながら、日本企業のプレゼンスは当時よりも小さくなっていました。私が着任当初挨拶したアンゴラの外務大臣は、ODAより日本企業の投資を期待すると言われたので、在任中、少しでも日本企業がアンゴラに目を向けるよう、在京アンゴラ大使と共にアンゴラのアピールをしました。経済ポテンシャルはあり、政治的には安定しているので、是非、農業、水産、エネルギー(再エネ)、レアメタル等、幅広い分野での進出を期待したいと思います。個人的には、青年海外協力隊の派遣を通じて、人材育成面での技術協力に加え、将来的なスタートアップの萌芽となりうる若者の交流が始まることを期待しています。

―大使として在任中、特に力を入れて取り組まれたことは何ですか。

 私は、以前、アフリカ大陸の反対側に位置し、同じくポルトガル語圏であるモザンビークにも在勤したことがあります。モザンビークは地理的に日本により近く、日本の民間企業のプレゼンスも大きく、二国間関係はより緊密でした。よって、少しでもモザンビークのように日本との関係が緊密になるよう、機会ある毎に日本の関係者へのアンゴラの宣伝に努めました。しかしながら、TICADを通じ、日本とアフリカの全体的な交流は以前よりも緊密になってきたものの、未だアンゴラは、多くの日本企業にとり、言葉の問題に加え、過度の官僚主義、汚職等により、ビジネスを行うにはハードルの高い国であることを改めて認識しました。ただ、任期中に、南部のナミベ州において、豊田通商と東亜建設がJBIC等の融資を受けてナミベ湾包括開発事業をスタートさせたことは大きな朗報でした。このプロジェクトは、アンゴラ南部おける物流の大きな改善を目指すもので、アンゴラ政府にとり最重要なインフラプロジェクトの一つです。

(写真)ナミベ湾包括開発事業起工式

 このように未だ民間投資は限られる中、日アンゴラ関係の基盤は、引き続き、JICAや大使館を通じたODAです。特に、JICAは正式に事務所が発足してからは4年余りですが、インフラ、医療、農業、人材育成等、数多くのプロジェクトを実施しています。但し、これらが必ずしもアンゴラ政府や国民に十分知られていない感じがしました。よって、これらを少しでも周知してもらうよう、種々の支援プロジェクトやイベントには出来るだけ私が出席して、メデイアインタビューを受けて、日本の対アンゴラ支援の広報に努めました。言うまでもなく、ODAの原資は国民の血税です。それらが、有効に活用されることはもちろんのこと、日本の貢献を現地の人たちに知ってもらうことは最も重要な任務の一つであると考えていました。

(写真)地元テレビ番組に出演

 今ひとつ、日本の対アンゴラ協力の分野として強調したいのは、内戦の大きな傷跡として今も数多く残っている対人地雷の除去があります。地雷除去は我が国の高度な機材供与や、アンゴラで活躍している内外のNGOへの資金供与という形で継続的に取り組まれてきました。地方の経済開発や農業の振興等に地雷除去は不可欠です。たまたま私の離任前、アンゴラでの最後の出張となったのが、草の根・人間の安全保障無償協力でNGOを支援した地雷除去サイトでした。地雷除去はまさしく、人間の安全保障に直結する分野です。引き続きの貢献を期待したいと思います。地雷の関係で、ひとつ明るいエピソードを紹介します。アンゴラでは内戦や地雷で足を無くした人を良く見かけますが、2022年、トルコで開催されたアンプティサッカー・ワールドカップでアンゴラは準優勝しました。実は、2018年の前回大会では優勝しており、アンゴラはアンプティサッカーの伝統的な強豪だったのです。私は、そもそもアンプティサッカーの存在自体知りませんでしたが、アンゴラ選手の活躍でこうした種目があることを知ると同時に、アンゴラの人々の逆境への強さに大きな拍手を送らずにはいられませんでした。

(写真)草の根・人間の安全保障無償資金協力による地雷除去計画供与式

―在外勤務で特に印象に残ったことはどんなことがありますか。

 私は外務省に43年間お世話になりました。ポルトガルでの在外研修を皮切りに外務省生活の多くは在外勤務で、延べ11公館に勤務しました。各国、各地で多くの思い出深い経験をさせて頂きましたが、あえて特に印象深い思い出を申し上げれば、大喪の礼(1989年2月:本省)、9.11テロ(2001年9月:シカゴ総)、そして日本人ブラジル移住100周年(2008年6月:サンパウロ総)でしょうか。ポルトガル語専門職として、最初の在ポルトガル大使館在勤時に、たまたまアンゴラに出張。その後、1989年の昭和天皇の大喪の礼において、アンゴラからの代表団(当時の外務大臣)の接伴員を務めました。そして、今回、アンゴラ大使として外務省生活を終えたのも何かの縁だと思います。9.11のテロは本当にショックでした。当時、シカゴ総領事館に勤務していましたが、その際の米国全土での犠牲者に対する哀悼と遺族への強い連帯感は忘れられません。そして、通算では最も長く在勤したブラジルにおいて、日系社会最大の行事となった移住100周年にサンパウロ総領事館で関われたことは幸せでした。現在の天皇陛下が皇太子として訪問されました。ブラジル社会での日系人の方々の活躍、日本への深い愛着と期待の気持ちは常に心に響きました。

 在外勤務で共通して感じたのは、任国(地)の人たちの「日本」に対する憧れ、敬意、親日感です。日本がいつもまでも、そうした国であって欲しい、日本人の一人として微力ながら引き続き貢献出来ればと思います。

 私は、外交の大きな目的は、「全ての人々が平和で持続的に経済的繁栄を享受できる世界を造ること。そのためには、紛争を回避し、政治、経済、社会的な安定を維持すること。換言すれば、世界で不安定な状況が生まれることを回避すること。」だと思ってきました。何処の任国(地)であろうと、そのために日本が出来る貢献をすることが、まさしく「情けは人のためならず」、日本の国益にも資するものと思います。