<帰国大使は語る>民族融和の道を歩むボスニア・ヘルツェゴビナ


前駐ボスニア・ヘルツェゴビナ大使 伊藤 眞

 2020年10月から2022年11月まで駐ボスニア・ヘルツェゴビナ大使を務めて最近帰国した伊藤 眞大使は、インタビューに応え、ボスニア・ヘルツェゴビナの特徴と魅力、在任中に経験したことや力を入れて取り組んだこと、日本との関係とその展望等について以下の通り語りました。

―ボスニア・ヘルツェゴビナはどんな国ですか。その魅力は何ですか。

 ボスニア・ヘルツェゴビナはバルカンに位置する人口約330万人の国です。

 歴史的には、オスマントルコ時代、オーストリア・ハンガリー帝国時代、ユーゴスラビア時代を経て多様な文化・宗教の影響が建築物、町並みに残っている大変美しい国です。
 こうした歴史的遺産に加え、目を見張るような美しい山々と渓谷、湖が更に多くの観光客を引きつけています。最近ではサラエボに加えモスタル、バニャ・ルカといった都市にも観光客が増えてきており、農業、鉱業等とともに観光は当国にとって最も重要な産業となっています。
 国民の大多数はスラブ人ですが、1992年より95年まで続いた民族紛争では国内のボシュニャク系(ムスリム)、セルビア系(セルビア正教)、クロアチア系(カトリック)が激しく対立し、3年半以上にわたる紛争で死者20万人以上、また220万人もの難民・避難民を出した戦後欧州最悪の紛争となったことは記憶に新しいところです。
 95年の「デイトン和平合意」により3民族の代表による輪番制の大統領評議会や閣僚評議会が設置されていますが、いずれかの民族の代表が反対すると国家としての意思決定が停滞する状況にあります。民族間の不信感は未だに強く、国際社会による紛争防止の枠組みとして民生面での和平履行を監督・監視する上級代表、和平履行のガイダンスを策定する和平履行評議会が設置され、日本もこの運営委員会メンバーとして活動を行っています。
 このほか、第一次世界大戦の引き金となったサラエボ事件、1984年のサラエボ冬季オリンピックは日本でも有名ですが、オリンピック会場となったスタジアムが紛争中、あまりの犠牲者の数に埋葬場所として使われたことは悲しい事実です。

(写真)サラエボ市内ラテン橋にて

―在任中に経験された大きな出来事や特筆すべき事柄はありますか。

 在任中の前半はコロナ禍で活動が制限されていましたが、その中でも精力的に30以上の地方都市を訪問し、自治体長、現地関係者他との会談を行い、首都にいるだけでは感じることの出来ない当国の素晴らしさとポテンシャルを実感しました。
 こうした関係は草の根無償資金協力案件として後日具体化し、教育、医療、文化を中心に幅広い両国関係の強化に大きく貢献することが出来ました。
 また、在任中の最大の出来事は茂木外務大臣(当時)の公式訪問です。23年ぶりの現職外務大臣の訪問ということで当国側の力の入れようには驚きましたが、通常中々集まることのない大統領評議会の3メンバーがラマダン中のメーデーの週末に全員顔をそろえて大臣との会談に臨んでくれました。
 大統領評議会メンバーとの会談に加え、外相会談においても二国間関係の更なる推進、国際情勢を巡る意見交換が行われました。
 また、これまでの我が国の支援に対する感謝と今後の協力に対する期待が強く表明され両国関係の新たな1ページが刻まれました。

(写真)茂木外務大臣(当時)当国訪問、大統領評議会メンバーとの会談

―ボスニア・ヘルツェゴビナと日本との関係はどのようなものですか。今後の展望はいかがですか。

 前述の通り、紛争後の国造り、国内民族和解を支援すべく、我が国は多くの協力プログラムを実施してきました。そうした支援は国内の多くの地域においても人々の記憶に鮮明に残っており、私の地方訪問に際して関係者の方々より教育施設の改修、病院への医療機材供与、救急車の供与、橋の建設等々に対し心からの感謝の表明がありました。
 支援を真に必要としている機関、団体へのこうした支援については、引き続き継続実施していくことが必要と考えます。
 また、日本が和平履行評議会(PIC)の運営委員会(SB)メンバー国であることは先ほど触れましたが、2週間に一度、運営委員会の大使級会合が開催されるため、私自身、G7他各国大使とともに当国の政治経済運営に積極的に関与して参りました。
 当国の最大の外交課題の一つであるEU加盟に向け、必要な国内改革に対し引き続き我が国からも支援・関与を継続していくことが重要と認識しています。

(写真)草の根・人間の安全保障無償資金協力:小学校改修プロジェクト

―大使として在任中、特に力を入れて取り組まれたことは何ですか。

 在任中は、前述の通り、当初新型コロナウィルス感染拡大防止に伴う行動制限があり、外交活動にも制約が生じていましたが、その後は精力的に多くの方々との面談を重ね、対外発信にも力を注ぎ、我が国のプレゼンスを拡大できたものと確信しています
 メディアからの数多くのインタビュー依頼はすべて断ることなくまめに対応し、我が国の政策、二国間関係、経済協力、文化事業等につき対外発信に努めました。

(写真)インタビュー記事

 また、大学、高校等においても講演を行い、日本の外交政策について説明し、質疑応答の形で活発な意見交換の場を設けました。
 将来の当国を牽引する若者とのこうした直接的な対話は私自身にとっても勉強になり、貴重な思い出となりました。
 更に、日本語教育、スポーツ交流にも最大限の力を注ぐようにし、多くの関係者の方々と幅広い人脈を構築し、両国間の交流を活発化させることが出来たものと確信しています。

(写真)高校での特別講義

―在外勤務を通じて強く感じられたことはありますか。

 今回の在外勤務は、私にとって10カ所目の勤務地でありましたが、最初の勤務地と最後の勤務地はある意味で最も印象に残るものであるとよく言われますが、その言葉通り、私にとって最初の在外勤務地で右も左もわからず苦労したポーランド勤務と今回のボスニア・ヘルツェゴビナ勤務は最も印象深いものとなりました。
 1990年代の民族紛争の後、国際社会を含む関係者が合意した「デイトン和平合意」の主旨である民族和解が未だ達成されておらず、今後とも当国が歩むのは茨の道ですが、我が国として当国の社会経済発展に対し、二国間並びに多国間の経済協力プロジェクトの実施に加え、和平履行評議会運営委員会における活動を通じ、政治と経済両面で大きく貢献していることに強い誇りを感じています。