<帰国大使は語る>太平洋に浮かぶ美しい親日的な島国・パラオ


前駐パラオ日本国大使 柄澤 彰

 2019年8月から2022年11月まで駐パラオ大使を務めて最近帰国した柄澤彰大使は、インタビューに応え、パラオの特徴と魅力、在任中に経験したことや力を入れて取り組んだこと、日本との関係とその展望等について以下の通り語りました。

―パラオはどんな国ですか。その歴史や特色はなんですか。

 パラオは、日本の真南、フィリピンの東に位置し、赤道よりわずかに北に位置する太平洋に浮かぶ小さな島国です。第一次世界大戦後約30年間にわたり日本の委託統治下にあり、日本の南洋庁本庁が置かれ、当時はパラオ人の倍以上の日本人が居住して繁栄しました。歴史的にも文化的にも、現在に至るまで日本の影響を色濃く残している大変な親日国です。また、世界遺産にもなっている世界でもトップクラスの美しい海に恵まれ、日本人を含め多くの観光客が訪れるリゾート地でもあります。
 第2次世界大戦以降は米国の信託統治下にありましたが、1994年に、米国に対して安全保障を委ねる一方で財政支援を受けることを内容とする「コンパクト協定」を締結し、独立しました。
 パラオは、太平洋島嶼国の中で北西端に位置し、日本との間は、「九州パラオ海嶺」で地形的にも繋がっている日本の隣国であり、現下の国際情勢の中で地政学的に非常に重要な位置にあります。加えて、独立以降一貫して台湾を承認している世界でも数少ない国の一つです。
 人口は約1万8千人と、世界でも類を見ない小さな国ですが、その人口の少なさもあって、一人当たりGNIは1万5千米ドル前後と、既に高所得国の範疇に入っています。
 コロナ禍に対しては、世界でも最速に近いスピードでワクチン接種を行うことなどにより、ロックダウンやフライト長期運休などは行わず、検疫措置と経済とを両立する政策を進め、極めてうまくコロナ禍に対応してきました。しかし、観光客の本格的な回復までには、まだ時間がかかると見込まれます。

(写真)世界遺産のロックアイランド群島南ラグーン(Palau Visitors Authority提供)
(写真)日本統治時代の南洋庁庁舎(現在最高裁判所として使われている)

―パラオと日本の関係は、過去から現在に至るまでどのようなものですか。

 日本の委託統治時代には、日本の南洋庁によりいわゆる公学校が設けられ、パラオ人への教育に力が注がれました。また、農業や水産業といった産業振興が行われ、多くの日本人が居住していたコロールの市街地は、当時の写真を見ると、現在のコロール市街よりも立派な商店街と並木道が整備されているように見えます。

(写真)日本統治時代のコロールの街並み

 第2次世界大戦の最終局面では、パラオの離島であるペリリュー島が日米間の最大の激戦地の一つとなりましたが、ペリリュー島のパラオ住民の多くはパラオ本島(バベルダオブ島)に疎開し、日米の多くの軍人の犠牲者に比べれば、パラオ人の犠牲者は極めて少なかったと言われています。
 このような中で、日本統治時代から75年以上経過している現在でも、パラオには日本文化が色濃く残っていると同時に、日本に対する強い親近感が感じられます。最もそれを感じるのは、パラオ語の中に残っている日本語由来の単語の数です。例えば、ダイジョーブ、メンドクサイ、トクベツ、オキャクサン、ダイトウリョウ、センキョなどの言葉を日常的に耳にすることは、日本人にとって大きな驚きです。現在でも、このような日本語由来の単語が1000語以上パラオ語に残っていると言われており、その辞書もできています。私の在任中、在パラオ大使館として、このような単語を紹介する動画を作成し、ユーチューブにアップ(https://www.youtube.com/watch?v=E−EakUrYNDw)し、現在までに閲覧回数は32万回を超しているので、是非ご覧いただければと思います。また、パラオ人の名前にも、日本人由来の名前が相当の割合で残っています。例えば、パラオの国会議員の中には、スギノさん、カナイさん、ウメタローさんが、大臣の中にはアイタローさんがおられます。ちなみに、いずれもファーストネームではなくファミリーネームです。
 日本とパラオとの関係を象徴する出来事は、2015年の上皇、上皇后両陛下のパラオ御訪問です。両陛下は、日米の激戦地であったペリリュー島も含めて御訪問されましたが、パラオの国を挙げた大歓迎を受けられ、御訪問された4月9日は、以来、ペリリュー州の公式の祝日となって毎年記念式典が開催されているほどです。本当にあり難い限りです。

(写真)ペリリュー島に未だに残る第二次大戦中の戦車

―大使在任中の特に大きな出来事や特筆すべき事柄はありますか。

 着任した2019年は、パラオ独立25周年、日・パラオ外交関係樹立25周年という記念すべき年だったということもあり、我が国外務大臣初パラオ訪問となった河野大臣をお迎えしたほか、当時の安倍総理、レメンゲサウ大統領をはじめ、1000名を超える両国関係者が一堂に会する記念レセプションが東京で開催された光景は壮観でした。
 また、前回の河野大臣訪問から3年が経過していない2022年5月に、大使在任中2回目の外務大臣訪問として林大臣をお迎えすることができました。さらに、2022年9月には、ウイップス大統領が公式訪日し、岸田総理との対面での首脳会談、日・パラオ共同声明の発出、宮中での両陛下との会見などが実現できたことは、両国間の友好関係が緊密である証であり、大使として名誉に感ずる出来事でした。
 この他にも、統合幕僚長やJICA理事長など多くの要人に訪問いただいたほか、広大なEEZを有するパラオにとって極めて重要な海洋安全保障分野における両国間協力の一環として、海上自衛隊や海上保安庁の艦船に、在任中5回パラオに寄港していただき、パラオ側との共同訓練などを実施することができました。
 さらには、日・パラオ間の経済分野を中心とする協力関係の強化のため、農業、交通・観光、三重県、沖縄県の関係で、在任中4本のMOU(覚書)をパラオ側との間で新たに締結することもできました。

―大使として、在任中、特に力を入れて取り組まれたことはありますか。

 まず、任国の現場に足を運び、各種インフラ、防災、環境、海洋安全保障、医療、教育、農業、水産業などあらゆる分野のニーズに真摯に耳を傾け、できることを一つ一つ支援プロジェクトとして丁寧に実施していくとの姿勢を貫きました。その結果、片道24時間の船旅を要するハトホベイ州を含め、パラオの16州すべてを訪問した初めての日本大使となり、その事実を、ウイップス大統領がことある毎に言及してくださるようになりました。正確にはわかりませんが、各種支援プロジェクトに関連する署名式や引渡式に、在任中少なくとも100回以上は出席したと思います。
 また、大使館による広報活動、特に、日本国内の日本人に対するパラオ関連の情報発信に意を用いました。もとより、パラオ人に対する日本関連の情報発信を行うことは当然ですが、コロナ禍によりパラオの主力産業である観光客数が低迷している中で、少しでも日本人のパラオに対する関心、興味を維持、向上させて、今後の日本人観光客のパラオ来訪へと繋げていく努力の一環です。具体的には、SNSを通じた情報発信に力を入れ、とりわけツイッターを日本国内の日本人向けツールと位置づけ、ほぼ毎日、パラオの美しい自然、食習慣、伝統文化など日本人が興味を持ちそうな話題を中心に、ほぼ毎日情報発信しました。その結果、フォロワー数が5万人を超え、世界中の我が国在外公館のツイッターアカウント中フォロワー数世界一となることができました。

(写真)日本の支援により改装されたパラオ・ニッポン球場でウイップス大統領と握手(Alpert Pictures提供)

―パラオにおける在外勤務を通じて感じられたことはありますか。

 パラオは、人口約1万8千人、面積は屋久島とほぼ同じという、世界でも最小の国家の一つです。自国の産業振興や海外からの投資誘致を考える際には、人口が少なく国内市場が極小であることが致命的な問題となり、国内産業は、優良な輸出向け商品が開発されるようなブレークスルーを起こさない限り、海外からの観光客をターゲットとした観光関連産業に依存せざるを得ない宿命にあります。
 一方で、大使在任中、逆説的ではありますが、人口が少ないことによるメリットがあることを見出しました。例えば、コロナ禍に関して、パラオは世界でも最速に近いスピードで人口の大半のワクチン接種を終え、早いタイミングで実質的な集団免疫を獲得することができました。また、小国の割にメディアが多数存在することにより、各種広報を非常に早く効果的に行うことができます。さらに、犯罪を侵しても容易に発覚することから、治安状況が良好であることなど、国家運営に当たっての様々なメリットがあることを痛感しました。
 なお、パラオに駐在する各国大使は極めて少ないことから、パラオ国民から見た駐在大使のプレゼンスは非常に大きいことを感じました。例えば、大使の言動はほぼ毎週現地紙で報道され、スーパーマーケットに買い物に行けば、毎回必ず何人かの見知らぬパラオ人から「大使こんにちは」と声をかけられました。そのようなことは、通常の国ではあり得ないのではないかと思います。
 今後パラオが、このような小さな国であることを逆に強みとして活かしながら発展していくことを祈っています。