(中国特集)フィリピンから見た中国


駐フィリピン大使 越川和彦

 「私は今、張り詰めたロープの上を歩いている。受け入れられない結果をもたらしかねない対立を避けなければならないので、中国に対し口先で勇猛なことは言えない。」

 2021年2月、米国から供与された武器を視察中、ドゥテルテ大統領が述べた言葉である。中国海警法が制定され、ロクシン外相が「言葉による戦争の脅しである」と強く非難し、大統領の反応が注目される中で出た発言であるが、これは比の現状を実によく表している。

 2016年、アキノ政権時代に出された南シナ海に関する比中仲裁判断やスカボロー礁における対立によって極度に悪化した比中関係を引き継いだドゥテルテ政権は、比憲法に記載のある「独立した外交政策」をスローガンとして、全方位の実利外交を展開してきた。「独立した外交政策」の中心的課題の一つは対中関係改善であるが、大統領としては、経済的繁栄と安全保障を確保するとのプラグマティストの立場から、当面仲裁判断を棚上げして比中関係改善を図り、米国一辺倒の外交から周辺国、特に中国との良好な関係を通じて比の国益増進を目指したといえる。比経済は、近年6%を越える高成長を続けてきたが、更なる成長を目指す上ではインフラに対する更なる投資を必要とし、主要な援助国である我が国に加え、中国を援助・投資パートナーとして期待してきた上に、2020年にはコロナ禍により経済成長率が-9.5%と東南アジア域内最悪の落ち込みを見せ、ワクチン供与を含め中国に対する経済的依存を強めていかざる得ない状況は一つの現実として存在する。一方、南シナ海をめぐって漁船の衝突事案等、一触即発の危険が常に存在し続けている中で、米中関係の悪化はフィリピンの置かれた安全保障環境を大きく変化させている。本稿では、こうした比中関係とともに、そのコインの裏表とも言うべき比米関係を概観した上で、日本の立ち位置と対比外交のあり方について述べることとしたい。

1.比中関係〜不信の中で求めたもの〜
 比には歴史的に大きな華人社会が形成され、フィリピン政治・経済・社会に大きな影響力を有してきている。比の長者番付10の実に7割が中国系移民及びその子孫の企業関係者で占められるが、華人社会は比社会の中に自然な形で融合されており、いわゆる「親中」的な集団を形成しておらず、時としてむしろ中国共産党に対する厳しい見方を有する者が多い。一方、こうした伝統的な華人とは別に、近年ビジネスや観光を目的とする「新しい中国人」が比に大量に流入するようになり、先ずは経済的、続いて社会的、更には安全保障上の問題や懸念を生じさせるに至っている。例えば、コロナ禍以前に急速に拡大していたオンラインカジノ業者(POGO)関連の中国人経営者及び労働者の問題は、当初は比人雇用機会の喪失・不動産価格への影響・脱税といった経済問題から、各種の犯罪・治安及び地域住民との軋轢といった社会問題、そしてそれが更には中国人が増えること自体に対する国民の漠然とした不安と有識者からの警鐘による安全保障上の懸念へと発展している。そこに、南シナ海をめぐる中国の動きが、その懸念を裏打ちする証左として強く認識され、今や比国民の対中信頼度は周辺諸国の中で際立って低いものとなっている(米国に対する信頼度は80%で「極めて良い」、日本に対する信頼度は56%で「良い」、中国に対する信頼度は21%で「悪い」(2019年当地民間調査)。)。

 このような国民レベルでの中国に対する懸念や反感のある中、ドゥテルテ政権が敢えて比中仲裁判断の「棚上げ」といったカードを切ってでも対中関係の改善を進める目的は何か。先ず、一般的に指摘される目的として経済的利益が上げられる。ドゥテルテ大統領の就任早々、中国からはバナナ他フィリピン産果物に対する市場開放、続いてインフラに関する借款案件10件、計7,700億円の支援が表明された。しかしながら、これらの約束ベースでの支援が十分に実施されておらず、コロナ禍において更なる遅延が懸念されている。そこでワクチンを中心とするコロナ関連支援を通じた比中友好が両国政府から強調されているが、中国製ワクチンに対するフィリピン人の信頼度は極めて低く、これらの利益が「主権的な譲歩との引き替え」に得た利益か、との厳しい批判が常に存在している。

 他方で、ここ1、2年における米中関係の急速な悪化を背景として、ドゥテルテ政権による対中配慮は、経済的利益から安全保障へとその重心を移しつつあるようにもみられる。即ち、中国に極めて近接し、南シナ海の最前線に位置する米国の同盟国フィリピンにとって(地政学的条件)、また本年マゼラン来航500周年を迎え、大国の思惑に翻弄されてきた歴史を持つフィリピンにとって(歴史的経験)、米中衝突への危機感は想像以上に切実である。ドゥテルテ大統領自身、これまでも度々「中国との戦争」や「米国基地の危険性」について様々な場面で言及しているが、冒頭に挙げた言葉がまさに現在の大統領の心境を如実に表している。端的に言えば、フィリピンは引き続き米国の盾を必要としているが、同時にそれが中国から矛として見られることを警戒し、米中の狭間で微妙なバランシングに努めているように見える。

 厳しいコロナ禍にあっても引き続き高い支持率を維持するドゥテルテ政権ではあるが、その対中姿勢は数少ない国民的に不人気な政策であり、アキレス腱となりかねない。来年の大統領選に向けて反ドゥテルテ勢力は、その主要な批判対象として、人権やコロナへの対応と共に、対中姿勢を挙げている。これに対し、大統領は就任以来封印してきた比中仲裁判断について昨年の国連総会演説で強く言及するなど、主権上の譲歩はあり得ないことを強調しているが、そのための「行動」を求める声は強い。プラグマティックな大統領が目に見える成果として進めてきたインフラ支援事業、比EEZにおける石油ガスの比中共同開発、南シナ海行動規範(COC)交渉等は、なかなかその成果を出しにくい中、残り1年となった任期において、国民の反中感情の動向を見据えつつ、米中の狭間で大統領に任された舵取りは益々容易なものではなくなっている。

2.比米関係〜フィリピンのプライドと現実〜
 フィリピンは米国のアジアにおける最古の同盟国であり、自らの防衛に米国を欠くべからざることも自明である。一方で、コロナ禍前には中進国入りが目前に見えてきていたフィリピンにとって、米国の「宗主国的振る舞い」は、フィリピンに旧植民地という負の歴史を想起させ、これまでの歴代政権でも時として比米関係を困難なものとしてきた。特に、ドゥテルテ大統領は、こうした感情に敏感であり、就任直後には人権問題を巡ってオバマ政権との間で極めて険悪な関係に陥った。一方、トランプ政権は、薬物対策に係る人権問題を前面に出さず、マラウィ占拠事案解決において米軍による積極的な援助を実施した他、比米戦争の戦利品として米軍が持ち帰ったバランギガの鐘を返還するなど、比側としてその姿勢に一定の評価を与えていた。また、トップダウンのディールを好むトランプ的な手法は、ドゥテルテ大統領にも共通するもので、両者はその政治的波長が合うと言われてきた。

 そうした中で浮上したのが、訪問米軍をめぐる地位協定(VFA)の破棄問題である。本件の直接のきっかけとなったのは、「麻薬戦争」の指揮をとってきたデラ・ロサ上院議員に対する米国査証の取消や、米国議会によるデ・リマ上院議員の釈放要求という、比側から言えば「宗主国的な」米国の対応であり、その背景には米軍に対する長年の裁判管轄権への国民的な不満(不平等感)があるとみられる。本件は、現在、破棄通告が一時停止され、米比間でレビューが行われているが、この間におけるドゥテルテ大統領の発言は示唆的である。VFAを継続したいのなら、ミサイル他の高度な武器や十分なコロナ・ワクチンを供与せよ、と述べている。こうした大統領の物言いには、比防衛に対する米国の本気度を測るという意味合いと共に、比防衛が単なる米国からの恩恵ではなく、むしろフィリピンも米国の世界戦略のために貢献している(あるいは犠牲を払っている)との認識が色濃く表れている。この点は、米中関係が先鋭化すれば尚更である。2012年、スカボロー礁を巡る中比対立に際し、米国が明確なコミットメントを示さなかった上、米国の仲介が結果としてスカボロー礁の喪失に繋がった経験はいまだに比の対米認識に大きな傷を残している。大国のエゴの間で貧乏くじを引かされる、更には貧乏くじどころか戦場にすらなりかねない、そんな危機感が大統領にあると考えられる。

 トランプ政権終盤、ポンペオ国務長官が比中仲裁判断に関する米国の立場を明らかにし、南シナ海問題への明確なコミットメントを表明した。バイデン政権は、基本的にこの立場を継続し、同盟諸国との関係再構築を進めている。ドゥテルテ政権は、本来歓迎すべきこうした動きに対し、米国の本気度、そしてその「本気度」が現実の問題として米中関係に如何なる結果をもたらすかについて、静かにかつ慎重に観察している趣であり、無条件の歓迎ムードとは言えない。今後、ドゥテルテ政権は、VFA問題を軟着陸させ、比米防衛協力が強化される方向に進むのか。それは、ドゥテルテ大統領が、人権問題等でのバイデン政権の出方と米中関係の行方を、それぞれナショナリストとプラグマティストの立場で判断していくことになるのであろう。

3.比中米関係と日本の対比外交
 今日の米中対立をどのような軸で捉えるかは様々な考え方があり得よう。民主主義vs権威主義(独裁)、自由・人権の尊重vs秩序(管理)・社会の調和、法による既存秩序の維持vs実力による現状変更、西洋vs東洋、キリスト教的価値vs儒教的価値等々。これらのいずれの観点からも、今日のフィリピン人の価値観やアイデンティティーは前者に近く、中国が一帯一路やコロナ禍でのワクチン外交で新たに訴えるナラティブも、大多数のフィリピン人の心に響いているとは言い難い。一方で、ドゥテルテ政権の一つの特徴として注目してよいのは、マニラを中心とする欧米的エスタブリッシュメント(財閥やインテリ層を含む)に対抗する地方(ミンダナオ)の土着的ナショナリズムであり、これが弱者・貧者の味方としてドゥテルテ人気を支えている点である。これまでの麻薬関連の他、最近ではミャンマーでの政変に際しても、欧米諸国が「人権」を語る時、ドゥテルテ政権はそれを「上から目線の偽善」あるいは「宗主国的な態度」として厳しく反発してきている。

 そうした中での我が国の立ち位置はどうであろうか。日本は、欧米同様の負の歴史的遺産を持ちつつも、戦後の両国先人による努力により、今日、ドゥテルテ大統領が日比関係を「黄金時代」と称し、日本を「兄弟よりも近い友人」と述べるまでになった。そこには勿論、比にとって日本が唯一の二国間経済連携協定締結国であり、最大の援助国、主要な直接投資国かつ主要な貿易相手国であるという経済的要素は極めて大きい。また、近年は人的交流も広がり国民レベルでの日本への関心や憧れもあろう。そして、その根底においては、先に挙げた民主主義をはじめとする様々な価値観を共有し、同じく米国の同盟国であり、更には中国に隣接し領土主権に関わる問題を抱えながら対中関係をマネージしている国という、戦略的共感があるといえよう。他方で同時に、欧米の「上から目線」や、中国及び米国の双方に比が感じている「大国的振る舞い」と我が国の外交姿勢が一線を画してきたことは、日本の立ち位置を確立する上で重要な意味があったと考える。日比関係を「戦略的パートナーシップ」と定義づけて以来、本年は10周年を迎える。我が国は、先人の努力によって築かれたこうした極めて独特な立ち位置を奇貨として「戦略的パートナーシップ」の更なる質的深化をはかっていく必要があろう。

※4月現在、比EEZ内の南沙諸島に停泊する多数の中国漁船(海上民兵とされる)を巡る問題が浮上しており、ドゥテルテ政権は対応に苦慮している。

(以上は筆者個人の見解であり、筆者が属する組織の見解を示したものではない。)