(コロナ特集)新型コロナウイルス危機と英国


駐英国大使 長嶺安政

(はじめに)
 新型コロナウイルス感染を感染者数や死亡者数で見ると、英国は欧州でも最悪の水準にある国の一つとなっている。8月中旬現在で、感染者数は32万人台、死者数は4万人を超えている。10万人当たりの感染者数は600人台で、この数字も最も高いグループに入る。最近の感染者数は一日当たり1000人程度であり、死亡者数は一桁まで下がってきているので、一頃に比べれば落ち着きをとりもどしているとは言えよう。ロンドンの日本大使館も交代制を維持しつつも、活動の範囲を戻しつつあるところである。
 このような数字を前にして、皆さんも英国の新型コロナウイルス感染がどうしてこれほどの状況に立ち至ったのだろうかと疑問に思われるであろう。この点を中心にこれまで気が付いたことをまとめてみたい。断っておきたいのは、新型コロナウイルス感染は今でも続いている現象であり、今後の推移を予測することは難しいことに加え、これまでの状況の分析もなお暫定的なことしか言えないということである。更に以下の分析は私自身の限られた理解によるものであることもお断りしておかなくてはならない。

(英国の被害の状況)
 振り返って見れば、英国での新型コロナウイルス感染者の発生は欧州大陸諸国より遅く始まった。2月に入っても報道機関は、中国武漢でのロックダウンを伝える一方、横浜に停泊中のダイアモンドプリンセス号の乗客の感染状況を伝えることに忙しかった。英国内で最初に感染者が報告されたのは、1月29日で中国からの旅行者だった。他方で、武漢からチャーター機で英国に戻った英国人は空軍基地内に隔離する厳重な措置が取られた。イタリアでロンバルディア州のロックダウンが始まったのが2月23日である。英国居住者の感染者が確認されたのは、2月28日だったが、ボリス・ジョンソン首相が毎日のコロナ感染に関する記者会見を始めた3月16日までに英国での死者数は65名、感染者数は1500人を超え始めていた。この時期に感染の度合いは極めてペースを上げていたとみられる。英国が強制措置を含むロックダウンに踏み切ったのは3月23日に至ってからだった。この2週間程度の間に感染者数は数日毎に倍々で増えていったとみられる。更に、ボリス・ジョンソン首相自身が3月27日にコロナに感染したことが分かり、首相官邸での隔離期間に入ったが、4月5日には病院に移り、一時は集中治療室で治療を受けることになった。英国での医療崩壊もあり得るとの懸念が増大した。3月当初イタリアやスペインの病院の様子をしきりに報道していた英国の報道機関も自国の状況の報道にかかりきりになった。

(原因)
 では、何故英国でこれほどまでに感染者数、特に死亡者が多くなったのか。感染者の増加を抑えるためには、実行再生産数を1未満に抑えなくてはならない。そのための最も効果的な方法は、人と人の接触を断つことである。国全体のロックダウンは究極の選択肢ではあるが、欧州のほとんどの国で強制的なロックダウンを導入することによって何とか感染の蔓延を抑えてきた。英国で指摘されるのは、3月23日になされた英国の全国的なロックダウンの導入は遅すぎたのではないかとの点である。3月16日にジョンソン首相が記者会見で国民に呼びかけたのは、自発的な自己隔離である。それでは十分ではないので、23日になって強制力のあるロックダウンの導入になったのである。
 なぜロックダウンの導入が遅れたのか。色々な説が言われている。当初医学関係者の中にも、ある程度の感染の蔓延は集団免疫による防止効果を期待して許容できるとの考えがあったと伝えられている。これに対し、ロンドンのインペリアルカレッジの教授等により、放置すれば50万人が死亡するとの研究発表がなされ、政府として看過できなくなったとの見方もあった。ロックダウンの導入は、当然経済活動の休止を伴うので、経済への影響も大きい。人間行動学の見地から、自宅隔離を求めるのは真に必要な短期間に限らないと、人はルールであっても守らなくなるとの説も唱えられた。英国における新規感染者数のピークは4月初めから5月初めの1か月間であった。この間、毎日5000人から6000人の新規患者が発生した。仮にロックダウンの導入が2週間早ければ、感染者数を相当程度減らすことができ、死亡者数も半分程度まで下げることができたはずだとも言われている。
 英国での新型コロナによる死亡者の統計を見ると、高齢者のケアホームで亡くなった人が多いことが判る。英国では病院のベッド数が不足することを予測して、病院からケアホームに退避、退院させられた高齢者が多かったと言われている。25,00人程度という数字もある。これらの高齢者がPCR検査を受け始めたのは4月中旬以降である。このような高齢者が原因でケアホームでの感染が発生した件数が大きいとも言われており、老人や基礎疾患を持つ人達は、新型コロナで重症化する傾向が大きいことから、死亡者数を増加させる要因になったと見られている。
 もう一つ指摘するとすれば、英国の医療機関(国民保健サービス:NHS)の方針は、新型コロナに特徴的な兆候のある人は、医療機関を受診せず、自宅で1週間隔離することとされていた。症状の初期の段階では、医師の診療は受けられなかった。英国では、初期の段階ではPCR検査の体制が整っておらず、軽い症状があるだけでは、検査対象とされなかった。PCR検査が早い段階で広く行われていれば、早い段階での治療にも、感染の広がり程度の把握にも、クラスターの早期発見にも役に立ったであろう。この初期段階で検査体制が十分でなかった点は、後に英国政府の首席医務官も要因の一つとして述べているところである。

(学んだこと)
 次に英国での対応を見ていて、感心した点を挙げてみよう。
 まず、第一に英国民の自国の医療機関、医療制度に対する姿勢である。NHSは政府が税金で全ての医療を賄う制度である。この制度を英国人は誇りにもし、尊重している。今回の新型コロナへの対応において、国民の間で起こったことは毎週木曜日の夜8時から人々が家の前に出て、拍手をし、ラッパを吹き、太鼓を叩いて、NHSの医療関係者に感謝を捧げる姿であった。100歳の誕生日を控えた元兵士(ベテラン)のキャプテン・トム老人は、車いすを押しながら自宅の庭を毎日100回往復することを通じてNHSへの寄付を呼びかけ、その結果、32.8百万ポンド(45億円余り)の浄財を集め、NHSへ寄付したのであった。
 他国の様子を観察すると、新型コロナの感染の急激な拡大を経験した国では、医療機関が患者で飽和して、医療崩壊が起きたところもあった。英国の場合も医療機関の崩壊を防ぐことに相当な神経が向けられた。結果として、英国では医療崩壊は起きなかった。4月初めに4000床のベッドと人工呼吸器を備えた臨時病院(ナイチンゲール病院)をロンドンに開設したが、殆ど利用されることもなくて済んだ。また、一時病院用の医療防護服等(PPE)が不足したときには、国民的関心事項となった。英国ではマスクの着用の義務化が遅れたが、当初政府や報道機関が強調していたのは、医療用のマスクの不足を招かないためにも普通の人はマスクを着用しなくてよいとのメッセージだったほどである。
 第二に、国民への説明の仕方である。3月からジョンソン首相やハンコック保健介護大臣等の閣僚が首席医務官、首席科学顧問と一緒に毎日記者会見を行った。私たちもこの様子を毎日見て、報告の材料としたが、何が今課題となっているかを集中的に把握することができた。英国は医療に関しては、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドで各地域による政策対応が取られることになっており、スコットランドのスタージョン首席大臣は毎日の記者会見をなお継続しており、評価を高めている。閣僚が医師、科学者を帯同して記者会見に臨み、医師、科学者の見地からのコメントがなされる様子を見て安心した人も多かったのではないかと思う。
 また、国民に呼びかけるスローガンが3月から採用された。曰く「自宅に留まろう。国民医療制度を守ろう。命を救おう。」である。このスローガンは、その分かりやすさ、訴える力から、近年の政府広報スローガンの中でも出色であると評価された。その後、ロックダウンが緩和される中で、スローガンは「注意しよう。ウイルスをコントロールしよう。命を救おう。」に代わったが、「自宅に留まろう」の直截さに比べてメッセージがあいまいだとのコメントも聞かれた。

(経済)
 最後に経済への影響に一言触れておこう。英国ではロックダウンの期間が3月23日から6月中旬乃至7月初旬まで続いた。映画館などは8月中旬まで開業できなかった。このため経済への影響もそれだけ深くダメージを与えたと言わざるを得ない。2020年の暦年のGDP成長率は、イングランド銀行の最近の予測では、9.5%のマイナスとされている。また回復の期間も当初考えられたV字回復は望めず、明年末にやっとコロナ禍前のレベルを回復すると見ている。英国経済は、それでなくとも欧州離脱の影響で当初の経済へのマイナスの影響を織り込んでいたが、コロナの影響は更にダウンサイドのリスクを増大させていると言えよう。このような経済危機を前に、政府の対応は果断に行われてきている。給与支払支援、自営業者への補助金等の財政支出、企業向け融資への政府保証、減免税や支払猶予、イングランド銀行による政策金利の引き下げ等が含まれており、この効果が期待されると同時に、出口をどうするかという難しい問題にも直面することになる。英国でも間もなく学校が再開され、新学年が始まるが、新型コロナの教育への影響という問題も英国が直面している大きな課題である。

(おわりに)
 新型コロナへの対応は、欧州ではいずれの国でもおおよそ同じような選択肢の中での対応になっているように見受けられる。他方で、具体的な対応の程度や時期は国によって差が出てきていることも確かである。ロンドンにいると日本の感染者数や死亡者数の少なさに賞賛の声が聞こえると同時に、何が効果的だったのかを聞かれることが多い。このような質問に答えながら、つくづく思うのは、こういう時の国際協力の重要性である。新型ウイルスへの対応は、まさに未知との戦いであり、ウイルスにとって国境という概念はない。英国はワクチン開発で先を行っているが、ワクチンの開発と利用という問題を含め、新型コロナ禍は人類共通の挑戦との見地に立って、危機対応で先導的な役割を果たせる国同士は特に協力を密にしながら、未知の海に向けて櫂を漕いでいくことが求められていると心底感じている。