黒人俳優シドニー・ポワチエ大使の思い出


元駐ブラジル大使 島内 憲

 2022年1月6日、俳優のシドニー・ポワチエ氏が亡くなった(享年94歳)。同氏は1963年、映画「野のゆり」で黒人俳優として初のアカデミー主演賞を受賞し、ハリウッドで黒人の主演俳優への道を切り拓いたことは周知のとおりだ。また、1997年から2007年まで10年間にわたりバハマの駐日大使(米国在住)を勤め、我が国との関係も深い。なぜバハマなのか。ポワチエ氏は、米国で(わが国でも)米国人と思われているが、バハマの貧しいトマト農家で七人兄弟の末っ子として生まれた。両親がたまたまトマト売りでマイアミに滞在中、母親の早産で生まれたことにより米国籍を取得し、二重国籍となった。世界一知名度の高いバハマ人であることは間違いないであろう。

 訃報を伝える各国のニュースなどでは「黒人初のアカデミー賞俳優」、「公民権運動活動家」とともに「外交官・大使」として紹介されている。ポワチエ大使の逝去を最初に公にしたのはバハマのミッチェル外相だった。デイビス首相は特別記者会見を開くとともに、国内および在外公館における半旗掲揚を指示した。

 同氏は少年期をバハマで過ごし、15歳で米国に渡った。当初は、読み書きが満足にできず、英語の発音に濃厚なバハマ訛りがあった。皿洗いをしながら英語を勉強し、黒人の劇団に入り無給で清掃係をする代わりに演技を学ぶ機会を得た。当初は何とか舞台に立つことができても観客にバハマ訛りを笑われるなど苦労が多かったが、次第に舞台俳優として頭角を現し、映画にも出演するようになった。1950年に映画(リチャード・ウィッドマーク主演の「復讐鬼」)で準主役の医師役を演じ、黒人初の第一級のハリウッド俳優となった。

 黒人俳優は、それまで、掃除夫、家事手伝い、庭師、調理師などといった役しか与えられなかった。そのようなステレオタイプを初めて打ち破り、医師、教師、刑事、アフリカの独立運動の指導者等、幅広い役を演じたのがシドニー・ポワチエだった。公民権運動が本格化する前からハリウッドの黒人を代表して人種問題に積極的にとり組んだ。人種問題をテーマとし、時代を先取りする映画に出演して白人社会との橋渡しに努めたが、その穏健な姿勢が黒人社会の一部から裏切り者(Uncle Tom)として批判されることもあった。ポワチエ氏主演のヒット映画は、「招かれざる客」、「夜の大捜査線」(いずれも1967年)をはじめその時代の人種問題を鋭く描いた作品が多数に上る。

 ハリウッドの大スターであり公民権運動の活動家でもあったポワチエ氏は駐日大使の役職を大事にした。現役映画人として多忙を極めながらも、骨身を惜しまず大使の任務に熱心に取り組んだ。筆者がポワチエ大使に初めて会ったのは、1997年秋にバルバドスで開催された日本カリブ共同体事務レベル協議(カリブ共同体「Caricom」はカリブ海の旧英領を中心とする14か国の地域組織。我が国は1993年以来、共同体加盟国及び同事務局と年次協議を実施している)の日本側代表として参加した時だった。同大使は同年4月に信任状を捧呈したばかりで、同協議への参加は事実上駐日大使としてのデビューだった。ポワチエ大使がバルバドス入りした会議の前日、同国のメディアは関連報道で持ちきりだった。日本側代表としてポワチエに初めて挨拶したのは、会議当日の朝だった。ハリウッドのトップスターでありながら全く偉ぶらない謙虚で品位ある人柄、70歳とは思えないスリムな身体、189センチの長身、寸分の隙のない仕立てのダークスーツ、実にエレガントでカッコいいのが印象的だった。

 協議の共同議長はホスト国バルバドスのピーター・ローリー外務次官と筆者(当時外務省中南米局長代理)が勤めたが、主役はポワチエ大使だった。ローリー次官も筆者も冒頭あいさつでポワチエ大使の出席に対し深甚なる謝意を述べ、コーヒーブレークは、各国代表がポワチエ大使のサインをもらったりツーショットの写真を撮ったりする時間となった。3日目の協議終了後、共同議長の記者会見を行ったが、ポワチエ大使にも特別に参加してもらった。おかげで多数の報道関係者が詰めかけ会見室が満室になった。

 バハマ外務省も大変な気の使いようで会議ではバハマ外務省高官が補佐役として同席した。そのためか大使の発言は、バハマ政府の公式の立場に沿うものとなった。一方、喋り方は映画のシドニー・ポワチエのそれではなく、センテンスを短く区切ってゆっくりと言葉を発する話し方で、なんとなくぎこちなさを感じるものだった。本稿を執筆中、YouTube ビデオで同氏のスピーチやインタビューなどを見て、会議で発言中のシドニー・ポワチエを思い起こした。その独特の話し方は「ポワチエ節」そのものだったのだ。

 その後もポアチエ大使と顔を合わせる機会が数回あった。2002年~2004年の間の外務省中南米局長在職中2回行った日本カリコム年次協議でも大使の出席を得た。そのうち、2002年11月の二回目は日本側がホストとなって東京で開催した。筆者主催の各国代表歓迎夕食会では、ポワチエ大使に隣に座ってもらい、仕事以外にも趣味や家族のことなど様々な話をした。筆者より生まれたばかりの初孫の話をしたところ、大使はにこやかに「おじいちゃんの心得」を話してくれたのを今でも覚えている。そこにいたのは、ハリウッドの大俳優でも公民権運動の闘士でもなく、自身、かわいい孫(現在は8人)をもつやさしいおじいちゃんだった。食事が終わってレストランを出た時、出口で待ち構えていた年配のオウナーが興奮気味に挨拶をしていた。大ファンだったようだ。

 翌年、ポワチエ大使は天皇誕生日の諸行事に出席のために来日した。先方より外務大臣に表敬したいとの申し出があったところ、担当部署より大臣室に相談する前に、「ぜひお会いしたい」という大臣(川口順子大臣)の意向が伝わってきた。日本の外務大臣はいつも多忙を極めており、面会の設定は事務方として最も苦労の多い仕事の一つだが、この時ほど楽にアポ取りができたことはなかった。

 ポワチエ氏は、1964年のアカデミー男優賞以外に数多くの映画関係の賞を獲
得したほか、1974年に英国のエリザベス女王よりナイト爵位を授けられた(このため筆者を含め、カリコム協議参加者は皆、同氏を「サー・シドニー」と呼んだ)。また、2009年にはオバマ大統領より、米国ではシビリアンに対する最高位の勲章である「大統領自由勲章」を授与された。

 訃報を受けて、多くの映画ファンが同氏の死を悼み、各界から多数の弔辞が寄せられた。政界では、バイデン大統領、オバマ元大統領、クリントン元大統領などから、ハリウッドの黒人俳優では、親友のハリー・べラフォンテ、黒人として二人目のアカデミー主演男優受賞者デンゼル・ワシントン、黒人初のアカデミー主演女優賞受賞者ハル・ベリー、名優モーガン・フリーマンなどから弔意の表明があった。

 筆者にとって、サー・シドニーと一緒に仕事をし、直接その人柄に接することができたことは大変な幸運であり、40年の外交官人生のなかで最も思いで深い出来事の一つだった。ここに、日本との関係強化に尽力した故シドニー・ポワチエ大使に改めて心より感謝の意を述べるとともに、ご冥福を祈りたい。