野口武著『デンマーク「希望の絆」』
(マイティーブック出版 2021年)

佐野利男(元駐デンマーク大使)

 2011年3月11日、世界に衝撃が走りました。次々に家屋や構造物をなぎ倒してゆく津波の破壊力が映し出され、メディアの発達により、世界中の人々が震災を「疑似体験」したのです。更に、福島原発の水素爆発、陸自ヘリコプターによる放水の映像を多くの人々が固唾をのんで見守りました。成田空港に殺到する外国人、大使館の関西方面への移動など在留外国人の反応が危機感をあおります。

 そのような中、デンマーク王室がアッと驚く行動に出ます。皇位第一継承者であるフレデリック皇太子を被災地に派遣すると言うのです。目的は被災者とりわけ子供たちを激励すること。そして、これまで兵役で鍛えられ、極寒のグリーンランドを犬ぞりで縦断した経験を持つ皇太子は、福島事故がまだどうなるかわからない中、激しく被災した宮城県東松島市に入ります。仙台市から車で40分。高速道路の海側に延々と続く瓦礫の山。同じ方向に倒れた樹々。ご遺体の発見に立ち止まる車列。そういう中に皇太子は足を踏み入れ、仮設住宅の前に立ち尽くす被災者に声をかけられます。園児たちにレゴをプレゼントし、一緒に昼食を取り、中学生とフットサルの試合に参加します。自ら制作したシャツの胸には「希望」という文字が見えます。また日本三景の松島では遊覧船に乗られ、鴎がたくさん飛び交う中「自分は日本が安全であることを世界に示したかった」とのメッセージを発します。当時の日本が最も欲しかった言葉だったことでしょう。

 本書は、東日本大震災から10年を迎えた本年3月、このデンマークのフレデリック皇太子の勇気ある行動を一つの起点として始まった復興の歩みと連帯の広がりを「10年の記憶と記録」としてまとめ、出版されました。以下、本書に記されたいくつかのエピソードを紹介します。

 フレデリック皇太子の訪問について、当時皇太子を現地で受け入れた高橋宗也さんは「10年後の今、皇太子の東松島市訪問を思い出しますと、皇太子が何度も「こどもたちに希望を」と強調していたことが記憶に残っています。その熱意に、おとなたちは「そうだ、こどもたちが笑顔になれる復興を目指し、大きくなってどこへ行っても東松島で育ったことを誇れるようにしたい」として、今日まで復興に頑張って来れたのだ」と目を潤ませます。また、これに先立ち単独で同市に入ったメルビン駐日大使は「小さな光でもデンマークが東松島の人々に希望を届けることができたのは奇跡だった思えてなりません」と回想します。その後東松島市はデンマークから手を差し伸べられたことを契機に、デンマークをモデルにした持続可能な街づくりや行政の仕組みを学び、地域の再生に挑戦してきました。そしてこの構想が評価され、「環境未来都市」に選定されます。「東松島の人々が、今でもフレデリック皇太子の訪問を語るのに、自分は驚き、また感謝している」とタクソ・イェンセン現駐日大使は口にします。

 テレビで被災地に積もる瓦礫を見ていたバイオリニスト中澤きみ子さんは「あれは瓦礫なんかじゃないわ、人が生きてきた思い出よ」と呟きます。これを傍で聞いていた夫でバイオリン製作者の中澤宗幸さんは、この瓦礫に再度あらたな命を吹き込む決意をします。バイオリンの音をつくり出すとても大切な部品である「魂柱」に「奇跡の一本松」の幹を使い、流材で作った「震災バイオリン」が誕生します。そして人々の絆を繋いで行こうと千人の演奏を目指し、チャリティーコンサートの旅路を歩み始めます。翌年の慰霊祭でこのバイオリンの音色を聴いた聴衆から何度もすすり泣きが聞こえたと言います。子供たちや親類の手前、弱さを見せられずに気丈に振る舞っていた人々。その人たちが「人の声に最も近い」とされるバイオリンの音色に癒され、あふれ出てくる感情を抑えることができなかったのです。そのように中澤さんが、多くのコンサートをアレンジする中、ご来場された美智子皇后(現上皇后)さまから「ゆっくりひとりでも多くの方に聴かせてあげてくださいね」とのお言葉をいただきます。中澤さんはそのお言葉にハッとし、人の絆を繋いでいくことも大切だが、根気よく震災を語り継ぐことも大切だと気づき、皇后さまから、今後とも息長くひとりでも多くの人に震災を伝えることの意義を教えていただいたと述べています。

 史上初めて原爆が投下された翌年、高木俊介は戦地勤務を終えて日本に帰還します。広島に戻った高木はその惨状にただ立ち尽すしかありませんでした。茫然自失する高木の心に一つのフレーズが浮かんだと言います。「国破れても滅ばず、外にて失いしものを内にて取り返さん」。1954年プロイセン・オーストリアとの戦争に敗北し、肥沃な二州を割譲したデンマークは文字通り国難に遭遇します。しかし、この危機時に国民を鼓舞し、国家の再建を主導する英雄が現れます。フランス・ユグノー党の系譜を継ぐダルガス親子。彼らは半世紀にわたり、砂地のユトランド半島に植林・開拓運動を展開し、荒れ地を豊かな農地と酪農の地に変えます。苦難に立ち向かったデンマーク人の魂の強さを、内村鑑三が「デンマルク国の話」という講話に残しています。前述の高木俊介の心に、くしくも浮かんだのがこのフレーズであり、以降高木はデイニッシュペイストリーを日本に紹介し、アンデルセングループを創設します。

 「広島が戦後の瓦礫から立ち上がるとき、創業者はおいしいパンは人々を幸せにすると考えた。今、災害に見舞われ、大変な思いをされている東北の被災者に焼き立てのパンを召し上がっていただきたい」。東日本の被害を知った高木誠一社主は部下の西本隆幸にこう言い、西本さんは、以降キャラバン隊を組み、被災地を回り、暖かいパンを被災者に提供し続けます。暖かいパンが身体だけでなく心も温めた、と言います。幼稚園で焼き立てパンをもらった幼い子がずっと食べずに手に持ったままにしています。「なぜ食べないの」と聞くと「おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に食べたいから」と言うではありませんか。西本さんはあれほど苦しい時にもこのような優しい気持ちを抱いていた幼児から、逆に勇気を与えられたと言います。「アンデルセングループを立ち上げた創業者は、戦後の広島の地で人々の絶望を希望に変えるべく、パン屋を起こすことを決意したのだろうか・・・」西本さんは支援中にそんなことを思ったそうです。

 紙面の関係上すべてを紹介することはできませんが、この他、本書は東海大学や自由学園の学生たちの支援活動、井上バレー団によるチャリティー・バレー、岡田美里さんのステッチ作成活動、KDDIの「スマート漁業」、大日本印刷やサントリーの支援活動、船橋市・安城市などの創造的な支援活動を野口武氏の軽快な文章で表現しています。

 東日本大震災から10年が経ちましたが、まだ帰還困難地区が存在し、4万人を超える人々が帰郷できず、風評被害が続き、地震に怯える生活が続いています。そのような中で、人々はこの大震災の記憶の風化を必死で防ぐべく、各地に「伝承館」を創り、次世代に過酷な体験を語り継ごうとしています。本書はデンマークと言う切り口ではありますが、当時関係者がどの様に被災者に寄り添ったかを記録に残すために編集されました。これからも根気よく震災を次世代に語り継ぐ一助になる良書であり、ぜひ一度手に取っていただきたいと思います。