自由で開かれた地中海の民は、「アラブの春」を経て、どこに向かうのか?

駐ベルギー大使(前駐チュニジア大使) 大菅 岳史
地中海に面したチュニジアの北岸、そのほぼ中央にアンジェラ岬はある。ここがアフリカ大陸の最北端である。北緯37.2度。そこから南南東に約70km下った首都チュニスは、シチリアの南端やスペインの南海岸、日光や長野より北にある。日本では、チュニジア=アフリカ=南と誤解する人が多く、また、最近「グローバルサウス」という語が多用され、あたかも開発途上国がすべて南側にあるかのような印象を与えているが、決してそうではない。
チュニスから更に南南西に約200km下った地方都市シディ・ブジッドで、「アラブの春」は始まった。2010年12月、路上の野菜売りの青年が、官憲の横暴に抗議して焼身自殺を図ったのが発端である。失業や国内の格差にあえぐ市民の不満が大規模な反政府デモとなり、2011年1月、ベン・アリ大統領が国外に脱出し、23年間の独裁が終焉した。この市民革命は、同じく権威主義体制が続いていたエジプト、イエメン、リビア、シリア等へと瞬く間に伝播し、2010年代の中東諸国の政治を揺さぶり、未だ混乱が続く国もある。
チュニジアが日本のマスメディアに登場することは稀である。「アラブの春」以外では、2015年、日本人観光客3名が犠牲になったバルドー博物館でのテロ事件、2022年の第8回アフリカ開発会議(TICAD8)、近年、欧州への密航のためサブサハラ・アフリカの不法移民がチュニジアに押し寄せたこと等。3年間のチュニジア勤務を終えるにあたり、この国の成り立ちとその国民性を紹介の上、近年の地政学的な地殻変動とコロナ禍後の経済不振に揺れ動く多くの中小国の一つとして、チュニジアの今の姿を示したい。

1.国の由来と国民性
チュニジアのルーツは、フェニキア人の植民都市カルタゴである。フェニキア語で「新しい町」を意味するこの町は、紀元前5世紀頃から西地中海の制海権を押さえて繁栄した。ギリシャ・ローマ神話に記された伝説によれば、紀元前9世紀にフェニキアの王女がこの地に辿り着いて建国したとされる。
現在の国名は、紀元前4世紀に遡る都市「トゥネス」に由来する。アラビア語では、国名、首都名Tunisとも今も「トゥーネス」である。首都の空港名は「チュニス・カルタゴ国際空港」。今日のカルタゴは、首都に隣接する人口1万6千人の町に過ぎないが、それを国の玄関口の名に冠するのは、チュニジア人が、ギリシャやローマと競いつつ何百年も栄えたカルタゴの歴史を誇りとする証である。
ローマ・カルタゴ間のポエニ戦争の「ポエニ(ラテン語:Poeni)」とは「フェニキア(英語:Phoenicia)」のことである。紀元前146年、敗れたカルタゴは、ローマの「アフリカ属州(Africa Province)」となった。これが今日の大陸名の由来。その後、この地はゲルマン人のヴァンダル王国、東ローマ帝国、アラブ・イスラム諸王朝、オスマン帝国の一部となり、75年間のフランス保護領を経て1956年に独立した。
古代カルタゴに発し、地中海文明、アラブ・イスラム・トルコ文明、西洋文明が融合する中で、チュニジア人のアイデンティティは形成された。最も特徴的だと感じるのは、彼らの自由で開放的な気質である。支配層が入れ替わる中でも常に海洋交易で栄えてきた歴史ゆえと思われる。国の標語「自由、公正、秩序」を図案化した国章で、「自由」を表すのはフェニキア人のガレー船である。
チュニジア憲法は、国をアラブ・イスラム国家と規定する。しかし、首都の道路や広場には、アラブ・イスラム王朝期の著名人や対仏独立闘争の英雄だけでなく、フェニキアの女神やハンニバル等のカルタゴの英雄の名が冠されている。日本大使公邸が面する通りの名は、7世紀に侵攻してきたウマイヤ朝アラブ・イスラム軍を一時撃退したベルベルの女王La Kahenaである。外国の地名も多い。チュニス市内には、Avenue du Japon、Jardin japonais(日本公園)、チュニス湖岸のビジネス地区には、Rue du Lac Biwa(琵琶湖通り)、Avenue du Yenまである。

2.ブルギバ初代大統領の開明路線
もう一つ、チュニジア人の国民性に大きな影響を与えたのは、ハビブ・ブルギバ初代大統領の開明的施策である。面積(日本の約5分の2)、人口(約1200万人)が小さく、地下資源にもさほど恵まれないチュニジアが、独立後、国際的な存在感を示してきたのは、30年に及ぶ同大統領の指導力による。チュニジアの有識者が男女とも口を揃えて自慢するのは、ブルギバ大統領が、一夫多妻の禁止を含め男女同権を法制化し、女性の地位向上に努めたことである。現在、2人目の女性首相で、司法相、財務相、産業相、家族・女性相、文化相も女性である。また、同大統領は教育と保健医療を重視し、独立後まもなく高等教育を含む全ての教育を無償化した他、主要大学に医学部を整備し、アフリカ諸国から多くの医学生を受け入れてきた。
外交では、ブルギバ大統領は、パレスチナ問題の「二国家解決」を最初に提唱したアラブの指導者として知られる。1960年代半ばからパレスチナ人にイスラエルとの交渉を促し、1973年に国連総会決議に基づく「二国家解決」を提唱した。アラブ諸国の強い反発にも立場は揺るがず、1985年、チュニス近郊のパレスチナ解放戦線(PLO)本部がイスラエル軍機の爆撃を受け、チュニジア人を含む68名が犠牲となった後も変わらなかった。因みにチュニジアは、レバノン内戦を逃れたPLO本部(1982-91年)の他、アラブ連盟本部(1979-89年)やアフリカ開発銀行本部(2003-14年)も一時的に迎えている。
こうした開放性ゆえに、伝統的にチュニジアはアフリカで最も西洋的な国と見られてきた。欧州は常に最大の貿易・投資相手国であり、1995年にEUが地中海諸国と最初に結んだ連合協定の相手もチュニジアであった。安全保障面では、米政府が指定する20の「主要非NATO同盟国(Major non-NATO ally)」の一つである。
3.革命後の展開とサイード大統領の「政治改革」プロセス
2011年1月の革命以降、チュニジアの内政は目まぐるしく変転した。同年10月の制憲議会選挙では、70%に迫る投票率の下、穏健イスラム系政党エンナハダ(目覚め)が4割超の票を得て第一党となった。議会の内外で世俗勢力との対立が深刻化する中、4つの市民団体(労働総同盟、経営者連合、人権連盟及び法律家協会)の仲介により、新憲法採択に向けた国民対話が行われ、2014年1月、三権分立を保証する憲法が制定された。
欧米はチュニジアの民主化プロセスを積極的に支援し、日本も2012年から2015年にかけて円借款、無償資金協力、サムライ債へのJBIC保証等を通じて経済を支えた。上記4団体への2015年のノーベル平和賞授与は、欧米のチュニジアへの親近感を良く表している。こうした国際的な期待の中、日本政府もチュニジアがアフリカで2つ目のTICAD開催国となることを後押しした。
しかし、欧米の期待に反し、新憲法は内政の安定に繋がらなかった。大統領と首相の役割分担が曖昧で、かつ内閣に対する議会の権限が大幅に強化されたことが背景にある。独立後二代続いた長期政権の下で、議会制民主主義の経験が不足していた結果でもある。多党分立の議会は機能せず、政府への監視が緩む中で汚職が深刻化していった。2015年の相次ぐ大規模テロ事件の影響もあり経済は低迷し、再び市民の不満が高まっていった。
2019年9月、新憲法下での2回目の大統領選挙では、汚職撲滅を訴える無所属のカイス・サイード候補が若者を中心とする無党派層の熱烈な支持を受け、決選投票で72.7%の票を得て当選した。他方、翌月の議会選挙では、第一党エンナハダの獲得議席が1/4以下にとどまり、群小政党が乱立する不安定な構成となったため、引き続き議会は政争の場と化した。新型コロナ感染症による混乱の中、2021年7月、サイード大統領は憲法の非常事態条項を援用して議会を「凍結」、首相を解任し、自身に権力を集中させた。2022年7月、大統領の「政治改革」ロードマップに従って国民投票が行われ、既成政党の多くがボイコットする中、内閣と議会に対する大統領の権限を大幅に強化する新憲法が採択された。
こうした展開に欧米で懸念と失望が広がったのは言うまでも無い。国内でも、2011年の革命や2019年の大統領選挙で見られた政治への期待は徐々に失われ、2023年1月の議会選挙の投票率は11%台前半に留まった。2024年10月、「政治改革」プロセスの最後を飾る大統領選挙では、有力視された候補者の参加が次々と排除される中、投票率28.8%、得票率90.7%で現職候補が再選された。2023年春以降、ベン・アリ時代の政治家、革命後に力を得たエンナハダ等の政党指導者、ジャーナリスト、人権活動家等が、テロ関与、国家安全に対する陰謀、虚偽情報の伝播等の容疑で相次いで拘束され、又は国外に逃れている。革命の申し子と言える市民団体の多くは、不正経理等を理由に活動停止となっている。2022年6月、サイード大統領が汚職等を理由に57名の裁判官を解任して以降、裁判所は形骸化し、現憲法が定める憲法裁判所は未だ設置されていない。

4.経済情勢と対外関係の変化
世界経済の後退、ドル箱たる観光業への打撃といったコロナ禍の影響に、2020年からの干ばつ、ウクライナ情勢による石油価格の高騰等が重なり、チュニジア経済は回復が遅れている。2023年のマクロ経済指標は軒並み悪化し、GDP成長率0.04%、インフレ率9.4%、失業率15%、外貨準備は一時輸入91日分まで下落した。この頃、砂糖、米、小麦粉、牛乳等が何週間も店舗から消える等、庶民の日常生活にも大きな影響が出た。
チュニジアとIMFの経済改革プログラム交渉の難航を前に、G7は2023年5月の広島サミットの首脳宣言で、チュニジア政府にIMFとの合意達成を促した。しかし、「IMFの指図は受け入れない」と公言するサイード大統領の下で交渉は頓挫し、IMF4条協議すら4年半以上実施されていない。幸い2023年以降の油価の下落、2024年以降の観光の復活と降雨による農業生産の回復により、チュニジア経済は危機的状況を脱した。サイード大統領は、自助努力により独自の経済改革に取り組む姿勢を鮮明にしているが、構造的な財政赤字と貿易赤字に加え、国内投資の低迷により、世銀等の見通しでは低成長が今後も続くとされている。
対外関係では、2023年以降、国家主権の堅持、内政干渉の拒絶、相互尊重といった非同盟路線が強調されている。特に2023年10月のガザ情勢の悪化以来、欧米から距離を置き、パレスチナ問題についても、長年の「二国家解決」支持を変更し、パレスチナ全土での主権国家建設を主張している。更に2025年に入ってからは、「戦略的パートナーの多様化」の方針の下、サイード大統領の最後の域外訪問先(2024年6月)である中国との関係強化が顕著であり、貿易、投資関係の大型商談、アフリカ開発銀行などのインフラ案件の受注が続いている。一方、EU・チュニジア間の閣僚級年次協議である連合評議会は、本年10月28日、6年振りの開催予定が発表されていたが、直前にチュニジア側要請で延期された。
5.チュニジアは、どこに向かっていくのか
アラブの春以降、チュニジアの人々が経験してきた激動は、限られた字数ではとても書ききれない。コロナ禍後の経済再建に喘ぎ、自由と生活の安定を求める国民の不満と期待に圧倒され、大国間の分断の狭間で揺れ動くのは、チュニジアだけではなかろう。しかし、世界の圧倒的多数を占める開発途上国のどの一つにも、グローバルサウスといった言葉で一括りに出来ない独自の地政学的な状況、歴史に培われた国民性や諸外国に対する国民感情があり、そして眼前の困難がある。その一つ一つを理解し、寄り添おうとする姿勢こそが、分断の深まる今日、最も求められていると思う。
本稿を書き終えるにあたり、ある知日派のチュニジア人に「自由で開かれた地中海の民であるチュニジア人は、アラブの春を経て、どこに向かうのか?」と問うてみた。答えは「今、厳しい状況にあるのはそのとおり。でも、長い歴史の中で、それは小さな揺れに過ぎない。チュニジア人の開かれた国民性と潜在力は、必ずや国を更に発展させていく。」であった。
こうした前向きなメンタリティ、長い歴史に裏打ちされた開放的で温和で寛容な国民性こそが、チュニジア人の最大の魅力である。何千年もの歴史が示すとおり、チュニジアが中東、アフリカ及び欧州の結節点として、地域の安定と発展に重要な役割を果たしていくことに変わりはない。友人の回答を信じ、「小さな揺れ」ができる限り早く収まり、安定へとスムーズに移行するよう、寄り添っていけることを切に願う。

