職業としての外交官と趣味の音楽:その一例

元駐ハンガリー大使 稲川照芳
はじめに
思い出してみると筆者の半生は外交官としての職業についていたが、生活の中では趣味として音楽があり、いつの間にか外交活動に役に立ったように思う。
筆者は特定の楽器が弾けたわけでもない。ただ唄ったり聴くのが好きで、若干の音楽家や音楽と関係の深い企業家と知り合いになっただけであり、ベルリン、ボン、デュッセルドルフ、プラハ、ウィーン、ブダペスト、モンテビデオという音楽と縁の深い町に赴任した幸運に恵まれた。音楽を通してその国の歴史に思いをはせることもしばしばだった。たとえば、モーツァルトやベートーヴェンの音楽を聴いたり本を読んだりしたりして、フランス革命のことや当時のオーストリア女帝やプロイセンのフリードリッヒ大王のこと、ポーランドの分割、この頃未だプロイセンの一部であり、一つの文化の中心であったケーニヒスベルク(現在はロシア領カリーニングラード)で、イマヌエル・カントが「永久平和論」を著していた。なお、モーツァルトの生まれる20年ほど前、バッハがポツダムにあるサン・スーシー宮殿で文化生活(音楽や哲学など)に励むフリードリッヒ大王に「音楽のささげもの」という名曲を贈っている。
因みに、カントが世相を反映して「永久平和論」を著して以来200余年が経っても、ロシアのウクライナ侵略に見られるように世界平和は実現していない。
1.音楽との出会いは幼少の頃、母親のSPレコード(シューベルトの「未完成交響曲」など)を家にあった蓄音機で遊んでいたり、小学校の高学年の時に地区の学校対抗の合唱コンクールで「雨だれ前奏曲」や「冬景色」を唄い、更に高校二年生の時、クラス会で「次回の学内合唱コンクールではドボルザークの『家路』」を唄いたい」と提案し受け入れられた。それには、筆者が越境入学し故に家を離れていたことと、下宿の子供で一年上の人が音楽好きで、前年のコンクールでスメタナの「モルダウ」を唄っており、その美しい旋律が忘れられないこともあった。その後大学に進んで合唱部に入ったが、最初の大学祭でハンガリーの作曲家コダーイの曲を唄ったが、まさか将来大使としてハンガリーに赴任するとは思わなかった。
大学在学中に奨学金をもらってドイツのフライブルク大学に留学した。この1年間、フランス語、ロシア語をかじり、シャンソンやロシア民謡を唄えるようになり、また、「インターナショナルソング・クラブ」にも入り、米国、北欧、東南アジア、それにトルコ、イランの人達と各国の歌を唄い懇談した。
音楽の話に戻るが、フライブルクに行く前にドイツ語を磨くためにミュンヘン郊外にあるゲーテ・インスティトゥートに二か月間行った。その間にミュンヘンへ行ってはじめてオペラを観た。モーツァルトの「魔笛」であった。帰ってきて同室のケンブリッジ大学出のイギリス人に云ったら、「そのオペラなら知っている。自分でも歌えるよ」と云った。欧州のインテリはそうなんだ、と思った。今から思えば、あのフライブルクでの一年間は筆者の人生にとって転機となった。もちろん教科として国際法や外交史などの授業も受けていた。その間、日本に帰国するある教授の紹介で、ハイエク教授の夫人とドイツ語・日本語の交換教授を毎週1回ハイエク教授の自宅で行うことになった。正直云うと、夫人のドイツ語にはウィーンなまりがあり、とまどうこともあった。勉強の終わる頃には、ハイエク教授が大学から帰宅され、三人で談笑したり議論したり、一緒に食事に行ったりした。残念なことに、その当時筆者は不明ながら教授が数年後ノーベル経済学賞を受賞される偉大な学者であるとは知らなかった。もっとしっかりと認識すべきであった。
更に、この間にフライブルク大学で学んでいた(研修していた)日本の外交官補と親しくなり、初めて外交官という職業に関心を持った。
フライブルクから帰国し、元の大学の合唱団に戻り、そこではモーツァルトの「レクイエム」を唄ったが、その後大学を卒業し、外務省に入って在外研修でテュービンゲン大学に行ったが、そこの合唱団で同じものを唄うことになるとは! もっとも、日本ではバスのパートを、ドイツでは指揮者の指示でテナーのパートを唄ったが。
2.個人的なことになるが、これは筆者にとっては音楽にも関係しているので記しておく。高校二年生の秋のことである。突然右耳に耳鳴りがしだし聴こえが悪くなった。急遽治療を開始した。実は筆者が三才の時に左耳の中耳炎を患い左耳の鼓膜がなく聴力は半分だった。それだけに右耳の聴力を失うかもしれないという恐怖は強かった。幸い治療の甲斐もあり、右耳の聴力は回復したものの、耳鳴りはその後も今も続いている。その後も恐怖感もあって高校三年生になる前と、フライブルクに行く前に左耳の鼓膜形成手術を二回受けたが、いずれの手術も失敗した。その後もそれまで通り今日も左耳の聴力は半分以下で、左右の耳の耳鳴りは続いている。それ故、右耳の聴力が失われるかもしれないという心配がつきまとった。そういうと恐れ多いが、ベートーヴェンが二十代後半に両耳の聴力を失いはじめ、三十代の初め、絶望のあまりウィーン郊外のハイリゲンシュタットで遺書を書いたが、耳は遠くなるままにその後立ち直り、沢山の名曲を産み出したことを思い、筆者自らに云い聞かせた。その後のフライブルクでの一年と、後のテュービンゲンでの二年間の在外研修生活を経て、在外、特にヨーロッパでの生活は何とかなりそうだと思った。
3.(1)テュービンゲン大学での在外研修(主として欧州統合についてのゼミ)の二年間を終えて初の在外勤務は在ベルリン総領事館であり、担当は東ドイツであった。当時(1971年)ドイツは東西に分かれており、ベルリンも壁によって東西に分断され、この状態は1990年10月2日まで続いた。筆者は1972年3月に初めて、我が国と未だ外交関係のなかった東ドイツに入った。ライプツィヒ見本市視察を機会として東ドイツに入ったものであるが、当時東ドイツは実質的にソ連の支配下にあって、入ってみるとまるで真空地帯に入ったようであった。そうした中で東ドイツ国家は西側との交流を望んでおり、ライプツィヒ見本市は東ドイツにとって絶好の機会であった。
東ドイツへの入国ビザは当時中立国であった第三国の旅行社を通して手に入れた。筆者はライプツィヒ近郊の民宿に宿をとり、早速翌日、真っ先にアイゼナハにあるバッハの生家を訪れた。バッハは小生にとってはドイツ音楽の祖であった。後年彼はライプツィヒの教会で活躍した。1989年11月の壁の解放につながる大衆のデモは、その教会に集まった人々から始まった。
筆者はアイゼナハからの帰りにワイマールに行った。目的は言わずと知れた「ゲーテ・ハウス」とリストの家を見ることであった。ゲーテ・ハウスは二つあって、メインの町中にあるものと、公園の脇にあるプライベートな別荘風のものがあった。ゲーテは若い頃「野バラ」という詩を書き、それがヴェルナー、シューベルトの歌曲で日本でも知られている。リストはハンガリー生まれであるが、ワイマールでも活躍した。後述するドレスデンでも活躍していた。筆者はライプツィヒ見本市を一通り見た後、オペラ・ハウスでガーシュインのオペラ「ポギーとベス」を観た。興味深かったのは客が熱狂的であったことで、筆者はそこに民衆が民主主義、自由への熱望を有していることの現れを見た。また、そこには東ドイツ当局の西側世論へのポーズのような姿勢が表れているように見えた。
また、別の日には東ドイツの文化都市ドレスデンを訪れた。至る所に第二次世界大戦の傷跡が残っていた。
(2)本省勤務の後、西ドイツの臨時首都(1991年6月にベルリンが正式の首都となった)ボンに赴任したが、その間に国会議員の案内でよくベートーヴェンの生家を訪れた。
その後の勤務地チェッコスロヴァキアの首都プラハはチェッコ事件(1968年8月)もあって、ソ連共産党の締め付けが厳しく、また重苦しい雰囲気であった。救われたのは美しいプラハの町並みであった。例えば、大使館から歩いて二~三分でモルダウ(ヴルタヴァ)川とチャールズ(カレル)橋に行けたし、朝夕はワレンシュタイン宮殿の横の通りやニコラス教会前広場を通って大使館に通う。それに市内にはティル劇場(現在はエステート劇場)があった。そこでは、その朝完成したばかりのモーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」が初演され、今でもその舞台が残っている。モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」が1785年にウィーンで初演された時には、ウィーンではあまり評判が良くなかった。内容が一部貴族に批判的だったからだといわれる。事実その当時のウィーンは貴族社会であったが、プラハは市民中心の社会であり、「フィガロ」も評判で、プラハは「モーツァルトの町」と呼ばれ、町には「フィガロ、フィガロ」という声が響いたという。「ドン・ジョヴァンニ」も評判が良かった。ティル劇場で「ドン・ジョヴァンニ」を観るのは筆者にとっては大きな慰めであった。
プラハでの困難はチェッコ人と親しくなることが難しかったことだ。こうした中での幸運は、スイス人を夫人に持ったチェッコ人音楽家一家Mと知り合ったことだ。彼は他の二人のチェッコ人とトリオを組んでおり、世界の各地で演奏していた。家が近かったので家族ぐるみで行き来した。このトリオにはその後デュッセルドルフやブダペストに来てもらい演奏してもらったり、筆者の退官後東京や横浜で演奏した時に、演奏会の後で彼らの好きな寿司を食べながら歓談した。筆者夫妻はスイス・バーゼルにあるMの家を訪れたこともあった。また、春に開かれる「プラハの春音楽祭」に招かれた日本人ピアニストを演奏会の後、家に来てもらってお話を聞いたり、プラハで音楽を学んでいた日本人の若いカップルに家に来てもらって演奏してもらったが、彼らには後にデュッセルドルフに来てもらった。
(3)音楽を趣味とした生活のハイライトはウィーンだった。ウィーンでは冬の11月から2月までの四か月間、謝肉祭が続き、街のあちこちで舞踏会が開かれる。中でもオペラ座での舞踏会はテレビでも中継されて有名である。そこでは日本国大使は二階の一室を借り切り、日本・オーストリア関係にとって大事な人物夫妻を招いて接待する。次席である筆者は妻と共に大使夫妻を補佐する。ウィーン商工会議所主催のパーティーで、筆者は国会議長夫妻の間に座らされた。夫人は第二次世界大戦の直前にヒットラーにドイツ側にあるヒットラーの山荘に呼びつけられてオーストリアのドイツへの併合を要求され、数日後に自決したオーストリア首相シュシュニクの娘であった。歴史を感じさせられた。ウィーン・フィルのパーティーではフィルハーモニーの団員の中で日本人を妻に持つ人々を中心に談笑した。また、大晦日の夜と元日は個人的に大変忙しいし、胸がワクワクする時間であった。まず31日の夜になるとオペラ座で「こうもり」を観て、その後で元ウィーン・フィルハーモニーのコンサート・マスターのH氏の自宅に友人たちと集まり、シャンペンを飲み、彼らの音楽を聴きながら新年を迎えるのである。元日の朝2時頃一旦帰宅し、仮眠をとり、朝遅くウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートのために楽友協会へ行くのである。筆者達はコンサートの後隣のインペリアル・ホテルのレストランで昼食をとってのんびりと正月を楽しめば良いが、楽団員の多くは大変であった。彼らはコンサート終了後空港に行き、日本での新年コンサート出演のため直行便で東京に飛ぶ。
ウィーン及び世界で有名なピアノ・メーカーの社長と知り合いになり、丁度筆者が一時帰国の機会に、その社長から同社が日本のS社(世界的な電器・音楽ソフト・メーカー)の傘下に入りたいので、O社長に話してほしいと云ってきた。どうして大事な話を筆者が如き素人にという疑問を持ちつつも、とにかく重要な話だからとS社の本社社長室でO社長にオーストリア社の意向を伝えた。O社長は丁重に断られた。筆者のウィーン勤務の最後の時期であった。
(4)ボンでの二度目の勤務の後にデュッセルドルフに赴任したが、そこでは当時の天皇皇后両陛下の公式訪問の栄に浴した。デュッセルドルフ市はボン市を含むノルトライン・ヴェストファーレン州の州都である。州は両陛下を暖かく歓迎し、在留邦人の多数を招待して音楽会を催してくれた。曲はベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲で、弾き手は同州出身のツィンマーマンであった。その時(1993年)は州・市・在留邦人は共に「日本年」を祝い、特にデュッセルドルフ市では花火大会や沢山の文化行事が行われた。その一つがシューマン・コンクールであった。これは作曲家シューマンが妻でピアニストのクララと共にデュッセルドルフへ「音楽監督」として招かれて、そこに住んでいたことに由来している。彼はそこで「ライン・シンフォニー」を作曲したり、クララと共に当時若かった音楽家ブラームスと親交を結んだ。しかし、彼はライン河で自殺をはかり、その後ボン郊外の精神病院で亡くなった。筆者はシューマン・コンクールに立ち合ったが、審査が長引き終わったのが午前2時頃になってしまった。同席していた市議は「どうしよう。家に帰って『音楽会に行っていた』と家人に云っても誰も信じてくれない」と嘆いていた。
(5)二度目のベルリンでの在勤は1990年代の後半で、既にドイツは統一され、ベルリンの壁はなくなっていた。1999年は「ドイツにおける日本年」とされ、「日本年」の始まる前にある日本人の音楽家から、「日本年」のオープニング・セレモニーの始めに数名の日独の音楽家がアンサンブルを組んでバッハのSuites(組曲)を演奏したいので、事務局に取り次いでほしいと云われた。筆者もその実現に努めたが、「日本年」のオープニングの前に次の任地(ウルグアイ)に移ったので、次の大使の下で成功裡に終わった由。
この二度目のベルリン在勤の思い出の一つは、ウィーン在勤時代の最後の時期に出会ったS社のO氏にお会いしたことである。O氏は若い頃芸大で学び、そのうちにS社の創立者達と知り合い、ベルリンで音楽を更に学び、そのうちに乞われてS社に入り、ついには世界のS社の社長・会長になられた人である。(因みに夫人はピアニスト。)指揮者のカラヤンとも知り合いであった。そんな偉い人なのにどういうわけか筆者が如き者とも付き合ってくれて、ベルリンではよくドイツ・ベルリン問題についていろいろな角度から論じ合った。同会長はドイツ統一後のベルリンの中心地ポツダム広場にS社が建設中のSセンターを自ら案内され、自分の構想を話してくれた。その後、筆者がウルグアイに赴任した後もO会長はわざわざ自らジェット機を操縦して夫人と共に筆者夫妻を訪れてくれた。
(6)ウルグアイへの赴任に先だって、2年半後の2001年には日本とウルグアイとの間に外交関係ができてから80年になるので、これを中心にして両国の友好関係の増進に努めようと思った。ウルグアイに着任して同国人の希望を聞いたら、日本庭園を造ってほしいと云う。ウルグアイの文化はスペインとイタリアの影響が強い。従って、日本庭園を造るのは簡単ではなかった。まずは土地の手当てだった。幸いモンテビデオの市長とはドイツ・クラシック建築のことで意気投合し、市から適当な土地が提供された。次は造園士の手当てだが、これは隣の国ブラジルのリオ・デ・ジャネイロに行き、日系人の庭師を選んだ。問題は資金手当てであった。これについては、まず大学での合唱団の仲間であった友人が口をきいてくれて万博基金から資金の半分を出して頂き、残りは日本商工会議所を通じて日本の企業から出して頂き、ウルグアイの日系人社会の人々からの現物供与(石、ツツジなど)と筆者からの若干の寄付金で賄った。石灯籠が筆者の故郷岐阜県中津川での筆者の報告会に対する有志の返礼として贈られた。中でも前述のO会長がウルグアイに来てくれたお礼に、同会長を囲んで公邸でウルグアイの民族音楽と踊りの会を催した。後にS社から日本庭園建設用として寄附を頂いた。
筆者は音楽が好きだったので、ウルグアイの音楽団体が主催する音楽会によく行った。そのうちに「日本大使公邸の新しいピアノの音が良い」と評判になり、団体の主催者から、一度使わせてほしいと要請され、承諾した。その演奏会には大統領夫人が常時来ておられ、ある日演奏会が終わった後で、大統領夫人が筆者に対して、「日本のピアノは素晴らしい」と褒めてくれた。筆者はかねてから、庭園委員会をつくり、その長に大統領夫人になってもらいたいと思っていたので、夫人にその旨を説明したところ、夫人から直ちにOKを頂くことができた。日本庭園は予定通り2001年9月に完成した。80周年プロジェクトは本省にもご協力頂き、大統領夫妻を賓客として日本に招くことができた。そのプロジェクトの中で嬉しかったのは、O会長がS社を代表して大統領一行をS社の迎賓室での昼食に招いてくれたことだった。その他の80周年プロジェクトとして成功したのはガットのウルグアイ・ラウンドで新しく導入されたミニマム・アクセスを利用してウルグアイ産米1万トンを日本に輸入したことである。それを積んだ船がモンテビデオ港を出港するのを筆者は大統領と共に見送った。実はもう一つのプロジェクトがあった。それはウルグアイから牛肉を輸入しようとしたことであった。これは直前に口蹄疫がウルグアイにも伝染し、日本への輸入はダメになってしまった。その他、音楽交流の一環として国際交流基金の協力を得てウィーン在住の二名の日本人音楽家(一人はヴァイオリニスト、一人は盲目のピアニスト)をウルグアイに招き、ウルグアイのオーケストラと協演してもらった。なお、80周年のハイライトたるべき清子内親王殿下(上皇陛下の御長女)のウルグアイ公式訪問は直前の米国同時多発テロ9.11のためキャンセルとなってしまった。日本庭園-平成苑-の開園式はまさしく80周年記念日に行われた。それは大統領夫人の出席の下で行われたものの、もう御一人の賓客の欠けたものとなり、いささか寂しいものとなった。
なお余談であるが、大統領は少年時代にドイツ学校に行っていたせいか、あるいは筆者に対する配慮からか、筆者にはよくドイツ語で話かけてこられた。それが或るとき大統領府での正式の会談の際に、大統領から筆者にドイツ語で話し始められたのでとまどった筆者は陪席していたウルグアイ外務次官に、ドイツ語で続けてもいいのかと念を押したら、いいというので、当方もドイツ語で応じた。こうして会談は半時間ずっとドイツ語で行われた。ウルグアイ大統領と日本大使との正式な会談がドイツ語で行われるという前代未聞の会談になってしまった。それにしても筆者が云うのもおかしいが、大統領のドイツ語もなかなかのものだった。
(7)筆者の最終赴任国はハンガリーであった。同国は先ず20世紀末にNATOに入り、2004年にEUのメンバーになった。我が国はそれを祝って日・EU年を祝った。その一環としてブダペストで音楽会を主催することとし、ウィーンの知人で或る楽団のパトロンに相談したら、即座に、資金を何とかしてくれれば楽団や指揮者は何とかすると云ってくれた。そこで筆者はハンガリーで日本の自動車会社Tの支社長を訪ね、その社員の一部を招待することを条件に費用の捻出を承知してもらった。演奏会での指揮者はハンガリー生まれでウィーンで活躍中の人、ソリストはウィーン在住の日本人ヴァイオリニストであった。日・EU年関連では例のチェッコ人トリオによるコンサートも行われた。その他、筆者がエンジョイしたのはかつて第1回のハンガリー国際指揮者コンクールで優勝した日本人指揮者で世界的に有名なマエストロK氏がブダペスト来訪時に日・ハンガリー議員連盟会長(夫人は日本人)宅で、マエストロK氏を囲んで日本人音楽家達と音楽セミナーに参加することであった。なお、マエストロKがブダペストで指揮する演奏会には必ず出席した。その前後には夫人と共に公邸にお迎えしたのは言うまでもない。
その他、世界的な日本人ヴァイオリニストや最近亡くなった日本人ピアニスト(母は日本人、父はスウェーデン人、ベルリン生れ)などと懇談した。また、時々ジプシー音楽を聴くためにレストランやオペラ・ハウスを訪れたりした。
おわりに
筆者は元々自分の趣味を外交に生かそうと意図したわけではなかった。音楽は好きだったこともあったが、ある面では生き抜くために勇気づけてくれた。考えてみれば、外交は実に裾野の広い、底の深いものというのが実感である。そういう思いであえてこれからの外交官に向けて筆者のつたない経験を申し上げた。どうかそれぞれの体験を生かして広い視野から自らの趣味や関心を大事に育てていってほしい。筆者の趣味から出た発想も館員達の支援があったればこそであった。筆者の趣味が外交でも生かされたのである。それにどんな場面でも妻の陰になり日向になりのサポートがあったればこそである。感謝したい。
(2025年夏記)
