余談雑談(第93回)曖昧さと日本人

元駐タイ大使 恩田 宗

 企業の中間管理職の集まりで参集者に「貴方の宗教は?」と聞くと確定的に答えてくれた人は僅かで曖昧な返事が多く「仏教かも」が最多だった。子供の頃墓参りや葬儀の際などに霊魂や先祖のことを教えられ長じては読んだり学んだりで諸行無常とか色即是空など仏教的世界観に馴染んでいるからではないだろうか。基督教やイスラム教と違い仏教には教義を説いた統一聖典がなく多くの日本人の仏教知識は断片的で体系化されておらず信仰の度合いも曖昧な「かも」に留まっている。宗教は多くの国では人としてのアイデンティティーの源であり迫害や戦争の原因にもなっている。死を免れ得ない人間にとり神仏や来世が在るか無いかは重大関心事の筈であるがそうした問題に中途半端でいられる日本人は精神的に怠惰なのか強靭なのか、世俗化が時代の趨勢とはいえ世界に例がそう多くない。

 「喧嘩両成敗の誕生」(清水克行)によると、紛争がある場合は原因如何を問わず当事者双方を罰したのは日本だけで暴力沙汰が頻発した室町時代から戦国時代に行われていたという。乱暴な法律だが争う両者の顔が立ち損害が均衡するよう配慮もしたので広く受け入れられたという。徳川幕府は流石に全国統一政権として両成敗の原則は制定法に入れなかった。松の廊下の事件でも浅野内匠頭は切腹・絶家で吉良上野介はお咎めなしだった。然し「片落ちのお仕置き」だとの世論に押され幕府は討ち入りの翌年吉良家を改易し当主の病没で同家も断絶した。喧嘩両成敗や足して二で割る裁定は事の真相や正邪を曖昧にして秩序の回復を優先する。何事にも衡平を強く求める風土に根付いたやり方で今でも子供や夫婦の喧嘩や政治世界のもめ事を納めるために使われている。

 「あいまいさを科学する」の著者米沢富美子は日本人は曖昧であり曖昧が好であると断言し、最近は真か偽か善か悪かの二元論でなく「どちらともつかない答えを再評価しようとする動き」も見られると書いている。
 
 「なあなあ」は歌舞伎からきた言葉らしい。事を企む時などに全てを話さず、例えば「帰り道で」とだけ言って、「なあ」と思い入れたっぷりに語りかけると、相手は心得て「なあ」と応じて実行する。「阿吽の呼吸」や「以心伝心」と同じで察しの早い日本人の特技である。「忖度」は更に先回りをして気を利かす。透明性と確実性に欠けるが互いに気心の知れた同質社会では手数をかけず事が円滑に進む。

 然しその同質社会の維持は次第に難しくなっている。大勢の外国育ちの人達が日本に住み働くようになってきたからである。グローバリゼーションはこれからも進む。大江健三郎がノーベル文学賞受賞記念講演「あいまいな日本の私」で論じたように外国人の日本理解の可能性を閉ざす曖昧さにそのまま安住し続けることは正当化できない。

(注)このホームページに掲載された「余談雑談」の最初の100回分は、『大使館の庭』と題する一冊の書籍(2022年4月発行、ロギカ書房)にまとめてあります。