余談雑談(第78回)日本男子

元駐タイ大使  恩田 宗

 野球の男子日本代表チームの名称はサムライ・ジャパンである。侍は数の上では少数派だった。明治3年の士族の数は189万人(41万戸)で総人口を3千万とすると6.3%にすぎない。然し侍の倫理観や行動様式は模範として程度の違いはあっても広く他の階級の人々と共有されていた。サムライを日本男子の代名詞として使って誤りではない。

 江戸時代の侍の思想の基本は儒教(朱子学)であって幼い時から漢籍でそれを学びそれに親しんだ。幕末の志士の「尊皇攘夷」も西郷隆盛の敬天愛人の「天」も源は大陸である。新井白石の漢詩は清や朝鮮でも評価が高かったらしいが彼と朝鮮通信使との交歓は知的土壌を同じくする者同士として和気藹々たるものだったという。司馬遼太郎によれば「日本の読書人(の)・・会話や文章で引用される故事も人物誌も逸話もすべて典拠が中国史にあり・・日本人はいわば中国人だった」(「この国のかたち」)。

 日本は戦争に敗れた後はそうした伝統を疎遠にし米国文化の吸収に励んだ。東洋史学者の貝塚茂樹は1965年に「日本と日本人」の中で「日本の第2の鹿鳴館時代が今や終わろうとしていると予感している」と言っていたがその予感は当らなかった。日本は今もって米国発のグローバリゼーションに適応すべくもがいていて社用言語を英語にした企業もある。問題は中国の古典を読まなくなった代わりにホメロスとかツキジデスとかプルタルコスとか聖書とかを読むようになった訳ではないことである。戦後日本の知識教養の骨組みは東洋西洋何れの古典にも足を置いておらず土台のない家のようでその中に居て心もとなさを感じることがある。

 日経新聞の「私の履歴書」では結婚の詳しい経緯や夫人の内助の功を述べる人が多い。白石は文庫本で2百数十頁にもなる自伝「折りたく柴の記」を書き残したがその中で夫人については何も語っていない。「妻子の餓をまぬがるゝのみにて」などという言葉から妻帯したと分るだけである。彼女の名前や人柄などは今もって不明である。侍は配偶者についてあまり書いたり話したりしなかったらしい。又彼等は孫を抱いても子は抱かなかったという。貝塚茂樹は主君に仕える公人として私情を犠牲にせざるをえない場合を考えての自制心からではなかったかという。

 今は男も育児休暇を取る。前回の東京オリンピックの際谷口千吉監督は昼時になってもカメラを離さず持参の弁当を人に渡し何が美味かったか後で教えてくれと頼んだという。八千草薫夫人に報告するためである。仕事を全てに優先させた高度成長期のサムライも伴侶に対してはそのくらいの心遣いをしていた。

(注)このホームページに掲載された「余談雑談」の最初の100回分は、『大使館の庭』と題する一冊の書籍(2022年4月発行、ロギカ書房)にまとめてあります。