余談雑談(第115回)明治と戦後の昭和

元駐タイ大使 恩田 宗

 テレビで若い女性アナウンサーが倉敷にある「マビ昭和館」を「レトロな雰囲気に溢れています」と紹介していた。若かった自分が生きた時代をレトロと形容されそれ程昔のことになったのだとは納得したが、敗戦後の昭和の後半はレトロという言葉が想起させる様なおっとりした時代ではなかった。

 あの高度成長期の雰囲気は司馬遼太郎の「坂の上の雲」(1968~72年新聞に連載、西南戦争収束後から日露戦争迄の明治を描いた歴史小説)の雰囲気と似ている。E・H・カーは「歴史とは何か」の中で、歴史家は歴史的過去を書く時も彼の属する時代の色メガネをかけて書くと言っている。司馬は明治を「明るい楽天主義」が横溢した時代として暖かく描いているがそれは彼の属した昭和後半の時代精神でもあった。池田首相は「貧乏人は麦を食えばいい」と言って物議をかもしたが彼自身が麦を食べていたのだという。今世紀になって振り返れば貧しい生活で無闇に働くだけの日々だったが誰もが明日は今日より確実に良くなると信じて疑わなかった。

 明治の日本は清国とロシアと戦争をした。司馬はそれを帝国主義時代の世界史的現象だったと肯定しつつも大国ロシアとの戦争は冒険的要素が強すぎやるべきではではなかった戦争だったとも書いている。日露戦争の「戦争責任者を四捨五入して決めるとすればロシアが八分日本が二分でロシアの分のうちのほとんどはニコライ二世」だと書いている。

 日露戦争時の陸軍総司令官大山巌は自分の出番は敗戦になった時だと覚悟していたという。作戦の指導は全て参謀達にまかせ現地総司令部の自室で一人で過すことが多かった。奉天の会戦はロシア軍が32万砲1200門で日本軍は25万砲990門で参謀総長の児玉源太郎も勝ち目は四分六分、よくやって五分五分と見ていた。奉天直前の会戦であわや敗戦かという際も自室で日本の新聞を読んでいた。投稿欄に出征した将校の新妻の針仕事の歌「許しませ襟にかかれるしみのあとおもい焦がれて泣く涙なり」 を見つけその哀れな心根に体を震わせ涙したという。明治の庶民は銃後でも前線でも国民戦争という日本史初めての過酷な試練によく耐えた。明治になり初めて知った国民国家という組織の利益は自分の利益と合致すると皆素直に信じていた。高度成長時代のサラリーマンも会社の利益と自分の利益は合致すると確信し懸命に働いた。苦しくても坂を登れば視界が開けると信じていた。新婚夫婦が夕食を共にする日がほとんどなくても不思議としなかった。

 日露戦争後について司馬は「敵の失敗もありからくも勝った(とは)国民に知らせず国民も知ろうと(せず)民族(が)痴呆化(し)」「(勝利の)収穫を食い散らし」「狂躁の昭和に入った」とし、どの時代の精神も30年以上は続き難いと嘆じている。昭和後半の坂の上を目指した上向き精神も30年しかもたなかった。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(1979年)などと言われておかしくなり「ノーと言える日本」(1989年)などと言い出した頃はバブル崩壊の瀬戸際だった。歴史は繰り返すということか。

 中国の改革解放の謙虚な学習精神も30年でお仕舞いになった。対外的に強硬強引になり米国との戦争も辞さない構えであるが危ないことである。

(注)このホームページに掲載された「余談雑談」の最初の100回分は、『大使館の庭』と題する一冊の書籍(2022年4月発行、ロギカ書房)にまとめてあります。