余談雑談(第105回)聖武天皇とカリフ・ハールーン・アッラシード

元駐タイ大使 恩田 宗

 歴史年表を何気なく開くと「752年 聖武太上天皇、大仏開眼供養に東大寺へ行幸」とありその右下に「786年 ハールーン・アッラシード、カリフに即位」とあった。日本とアラブ世界ではそれぞれよく名の知られているこの二人の帝王を同じ頃の人として並べて考えたことがなかったので新鮮な驚きだった。

 8世紀、日本は豪族連合国家から中央集権の律令制国家に脱皮した。都の構えから法律や統治機構や服装まで唐を見倣い銭貨を鋳造し国史や詩集・歌集を編纂した。高級官僚は当時の東アジアの共通語である漢文で読み書きをした。聖武天皇はその奈良時代75年の約半分の32年間権力の座にあった。仏法に帰依すること篤く国分寺や大仏を建立し仏教を日本に根付かせた。日本が国際化の花を咲かせた時代を代表する天皇である。繊細で心優しく優柔不断だと評されてきたが森本公誠東大寺長老は責務遂行に真面目で意志も固い人だったと書いている。 

 同じ頃、アラブ世界ではモハメッドと縁続きのアッバース家が成立間もないイスラム大帝国を掌握した。首都を置いた寒村バグダッドは人口百数十万の交易都市に変貌し殷賑を極めた。ハールーンはアッバース朝黄金期のカリフで学者や文人を優遇しアラブ・ペルシャ・ビザンチンの融合した輝く文化を開花させた。千夜一夜物語では歓楽街に夜遊びに出る好色気ままな専制君主として描かれているが同物語を英訳したR・バートンによれば色白の好男子で王者しての高貴な風格があり物惜しみせず学芸にもスポーツにも秀でていて、宰相一家を残虐に誅殺した事を除けば、名君だったと言えるという。 

 島国と大帝国では国力が違う。ハールーンの宮殿は緑のドームと金色の門で飾られその中は天国だと噂された。彼の母后は没した時錦繍の衣装だけで1万8千着を遺したといわれ彼も即興で命じた詩作や歌唱が気に入ると盆に山盛りの金貨を与えていたという。平城京の内裏は瓦葺きでなくまだ檜皮葺きだった。聖武天皇が待ちかねた皇子の生れた日に生まれた全国の子供に賜与したのは布一端・綿二屯・稲二十束である。当時日本は田租を一段当たり二束五把のモミで徴収していた農業国で奈良は人口推定20万で都の中にも田畑があり日没後は東西の市場は閉鎖され街路は通行禁止だった。 

 天皇家は今も国家の首座を占めるがバグダッドのアラブ王朝はフラグの率いる蒙古軍の侵攻で滅亡した。この違いはメソポタミアがユーラシア大陸中央の大平坦地でシュメールの昔から多くの帝国や英雄の興亡絶え間ない所だからである。そこにフラグが建てたイル汗国はチムールに、チムールの帝国はオスマン・トルコに滅ぼされた。然しアラビア半島に生まれたイスラム教は世界に広がり18億もの人々がアラビア語のコーランの教えに従っている。日本は長い間海に護られ孤立して生きてきた。アラブ世界は西欧帝国主義国による植民地化を経験したが日本は危うく免れた。日本とアラブ世界は長い間互いに関係を持たず全く別の道を歩んできた。これからは金融危機にしろパンデミックにしろグローバル化の荒波に一緒にもまれてゆくことになる。

(注)このホームページに掲載された「余談雑談」の最初の100回分は、『大使館の庭』と題する一冊の書籍(2022年4月発行、ロギカ書房)にまとめてあります。