余談雑談(第104回)英語と日本語

元駐タイ大使 恩田 宗

 谷崎潤一郎は戯曲「愛すればこそ」の題名につきロシア語訳者から誰が愛するのかと聞かれ、英訳ではBecause I Love You となっているがそう訳すと意味が狭まるので「曖昧(でも)・・広みと重みと深み(を保つため)・・主格を入れない方がいい」と答えたという。サイデンステッカーも、川端康成を英訳したときは曖昧で分りにくいところがあり難しかった、ここは曖昧だがと直接尋ねたら曖昧ですとの答でそれ以上聞けなかった、と回想している。彼の英訳は名訳だとされているが英語の発想法で貫かれ逐語的には原文とかなり違うところがあるらしい。英語と日本語の違いは大きく翻訳家のA・バーンバウムは日英両語は相性が悪くその溝は埋め難いと言う。

 英語は細部を明確にして分析的に叙述するが日本語は部分的正確さより全体の印象や意味合いを重視する。文法の違う言語を使っている人は違った目で世界を見ているとの説(言語世界観説)があるが日本語が英語と違い単数複数の区別がないのは日本人はものを数えられるか否かでは見ていないからである。又、英語は主語―動詞―Xの構造に厳格だが日本文は主語も動詞も必須ではなく時制の縛りも緩やかである。英語の文は主節と従属節で構造化されるが日本文は平面的に幾つでも節を繋げられ主題も自由に変えられる。こうした違いに良し悪しはないが谷崎潤一郎は日本語文は構造が不完全で長たらしく放漫に陥り易いのが欠点だと書いている。

 英語と日本語の一番大きな違いは「現代日本語」の歴史はまだ浅く更なる開発の必要があることにある。明治になった時日本語の書き言葉には和文調と漢文調の二つがあり字体も仮名遣いも語形も当て字・当て読みもばらばらだった(眞・真、さいはひ・さいわい、ゆ(い)さぶる・い(ゆ)すぶる、日頃・日来・日比、平生・平常(ふだんん))。話し言葉も全国共通のものがなく東京の教養人の言葉を標準としたのは大正二年である。

 辞書もなかった。明治八年になり文部省は文明国日本には近代的国語辞典が必要だとして入省三年目の大槻文彦に編纂を命じた。辞書編纂に不可欠な文法書もまだない時代で先ず英語文法を下敷きに後に日本文法学の源の一つとなる「日本文典」を書いた。それに時間の半分以上をとられたが十一年かけほぼ独力で辞典「言海」を完成させた。出版は政府の予算不足で棚上げされてしまい仕方なく五年後に大槻が自費出版した。言海は評判がよく版を重ね北原白秋は愛読し漱石も使用した筈という。

 村上春樹の文章は英語に馴染み易いらしい。翻訳の経験もあり書く時英語を意識することがあるという。日本語は長い間漢文の影響を受けてきたがこれからは英語に影響されていくのかもしれない。

(注)このホームページに掲載された「余談雑談」の最初の100回分は、『大使館の庭』と題する一冊の書籍(2022年4月発行、ロギカ書房)にまとめてあります。