権威主義国家とオリンピック―北京大会の教訓と今後の課題―


日本オリンピックアカデミー会長  望月敏夫
(日本障がい者スポーツ協会評議員、早稲田大学招聘研究員、元駐ギリシャ大使)

(はじめに)
 2月21日、北京冬五輪の終幕を見計らったかのようにプーチン大統領はウクライナ東部に派兵命令を出した。続くパラリンピック大会も24日から始まった侵攻がエスカレートする中で行われた。2008年グルジアや2014年クリミア半島のように、近年のロシアは五輪を号砲にして他国に兵を進める。2024年パリ五輪の組織委員会にいる友人とオンラインで話したら、地続きの欧州人が感じる脅威感とともに、パリ大会が選手の締め出しや安全問題などで正常に運営できるかどうか心配していた。昔も今も権威主義国の行動が五輪の世界に波乱を起こす。
 この小論は、筆者が従来から論じて来た「スポーツと政治・外交の相互関与」という大きなテーマの中で、今回の北京大会の特徴を分析する。その上で、権威主義国の数と力が民主主義国を凌駕しかねない予測が多い中で、高邁な理想を掲げる故に自己矛盾もある五輪・スポーツ界はどう対処したらよいかを検討したい。
 ここで用いる「政治」は「公権力を背景に人間社会の営みに影響を与える作用」と便宜的に広く定義したい。「外交」はその国際的処理行為である。「五輪」にはパラリンピック大会や国際スポーツ全体を含ませる。「五輪理念」を一口で言うと、五輪憲章が明示しているように、スポーツを通じて人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会を築くことや人がいかなる種類の差別も受けないよう確保することである。「権威主義」、「専制主義」等の定義については後述する。
 なお、筆者が足を運ぶ予定だった北京大会は先方のコロナ対策のために果たせなかったため、この小論は直接見聞きした情報ではなく、IOC情報、内外メディア、海外五輪情報誌等に負っている。ただ、在北京日本国大使館の勤務や2008年北京夏大会の際の東京招致活動等で中国式権威主義には日常的に接した経験があるので、小論の下地になっているかもしれない。

1.権威主義国中国での五輪大会の特徴   
 もともと五輪は古代ギリシャの五輪時代から政治との向き合い方に苦心してきた。現在も五輪は一大社会現象として”非スポーツ的要因”である政治、外交、ナショナリズム、経済、文化、メディア等の影響下にあり、その中でも政治、外交、ナショナリズムを合わせた広義の政治の影響が大きいことは誰しも感じている。(注1)
 今回の北京大会もその例外ではない。米国の評論家が言う1936年ナチス政権下のベルリン大会の再来だというのは極論だが、大会を巡る内と外の状況に起因する権威主義国ならではの政治性の強い大会であり、かつ五輪理念の観点からは負の影響が目立った大会であった。 

(1)国際的環境―「天下一家」ではなく「天下大乱」
 自由や法の支配といった人類の普遍的価値に立脚する民主主義国と、程度の差はあれこれらの価値を認めず自己流の民主主義を主張する権威主義国の間の対立は今に始まったわけではないが、北京大会と五輪の価値はその狭間で揺すぶられた。先ず冒頭の開会式の民主主義陣営による外交的ボイコットがこの対立を象徴的に表した。2008年夏の五輪ではブッシュ大統領ほか80ヶ国もの首脳が開会式に参加し五輪らしい祝祭感を感じたものだが、今回は違った。その中でプーチン大統領が来訪し権威主義二大国の親密さを演出し、五輪精神違反が混じる共同声明を発出した。
 メディアが新冷戦と呼ぶこの対立構造の中で、権威主義国は五輪大会に過度の国威発揚とナショナリズムを持ち込む。本来、これらの発揚は国家として自然で当然の行為だが、開催国中国は近年急速に高められているナショナリズムを更に煽り、米国との競争が突出したシーンが目についた。五輪の成功が至上命令とされた強権体制の下で生じる統制的運営手法も五輪精神に適うものでなかった。ロシア(ドーピング制裁下でROC)のワリエワ選手のドーピング疑惑も元をただせば、自国と政権の誇示するメダル至上主義症候群が国ぐるみドーピングとして重症化し、その余波で起きたと言ってよい。またIOCとIPCは国際政治の現実に直面して関係国選手の国際大会締め出しに追い込まれた。
 「天下一家(One World, One Family)」は北京大会の開・閉会式に花火で描かれた呼びかけスローガンだが、それが意味する協調・協力の世界は夢物語で現実は真逆の「天下大乱」の世界である。「天下大乱」とは群雄割拠、覇権争い、多極化の世界を現す用語で一時期中国でよく使われていた。今は一帯一路政策の下で「大乱」の仕掛人が中国ご本人なので、まさかその覇権の下の「一家」を意味するではないかと疑うのは考え過ぎだろうが、「天下一家」の呼びかけは洗練度に欠けている。この辺が権威主義の文化的レベルを現しているのだろうか。

(2)中国の内外政策
 開催国中国がその政権強化に五輪を利用するとの疑いとともに、その内外政策(ウイグル、香港等の人権抑圧や国際法違反の海洋進出を含むいわゆる“戦狼外交”等)も大会前から国際社会の批判を浴びていた。これらに加え、ウクライナ侵攻も正面から非難しない中国は五輪の開催国として適格なのかとの疑問が高まり、人権抑圧反対デモ(オリンピアでの聖火採火式前後でも起きた)や大会開催への反対活動が世界各地で起きた。2008年夏の北京五輪の際、チベット弾圧等への抗議活動が世界中に広まり、それまでの世界一周聖火リレーがギリシャと開催国内のみに限定されたことが思い出された。今回はコロナの影響もあり聖火リレーのルートはさらに限定されたが、TVで見ると東京大会の走者たちのはじけるような笑顔と異なりピリピリした物々しい雰囲気が伝わって来た。14年前の夏大会のトラウマだろう。また女子テニスの彭師選手へのセクハラ問題で大会は冒頭から荒れ模様だった。中国側は逆にこれらを問題の政治化だとして反駁に忙しかったが、告発メールの扱いやウイグル族選手の聖火最終走者選定など稚拙な対抗措置が返って批判を高めた。また東京大会で見られた選手による政治的発信(いわゆる“表彰台パフォーマンス”)を脅しともとれるかたちで抑え込んだ。外国記者の取材制限も目に余るものがあるとして、記者団が共同で抗議した。更に大会運営の現場では、開催国には不運だったがコロナ流行下の徹底したコロナ対策が統制色を強める結果となった。国内向けの情報統制も相変わらずで、国営TVはバッハ会長やパーソンズ会長の開・閉会式演説中の「平和希求」の部分を翻訳しなかったり全く別に翻訳した。最高傑作は、パーソンズ会長が述べた「平和への希望が重要である」がなんと「天下一家(上述)への希望が重要である」に置き換えられた。
 これらの事件や出来事に対する批判が高まる中、大会終盤に組織委員会の報道官が定例の記者会見で聞かれもしないのに中国政府の内政外交を擁護する極めて異例の発言を行った。歪曲翻訳をはじめ権威主義体制ここにあり、との感がする。

(3)IOC批判
 五輪理念の番人IOCは開催国中国の理念違反に異を唱え不快感を示すことはあったが、他方で大会の実現と円滑な運営を優先させるあまり中国側に対し迎合的とも言える態度が見え、一貫性を欠いていた。東京大会では“強権的IOC”が批判されたが、北京では“弱腰IOC”と揶揄され、バッハIOC会長の言動が内外のマスコミからボコボコ叩かれた。 
 ただ、後述のとおり、政治外交問題に対するIOCの影響力は本来限定的である。リベラリズムの立場から過剰な期待をして結果が出ないと批判するメディアや専門家が多いが、これはIOCにとり酷な面もある。

(4)政治外交面での辛口評価とスポーツ競技面での積極的評価
 こうして政治的色彩が濃い北京大会であったが、政治的だから悪いのではない。政治的考慮が先立つ権威主義は民主主義に立脚する五輪運動と抵触し親和性が薄い面が目立ったので、日本を含め世界中から批判された。日本の場合は、昨年10月の日中共同世論調査のように9割の日本人が中国にネガティブな見方をしていることも背景にあるだろう。一方、権威主義に起因する政治外交面での事例は世間の注目を浴びやすいが、それだけをもって日本の一部マスコミのように北京大会の「全面否定」に走るのは公平性を欠く。東京大会の時も全体的意義と理念の説明が不十分だったため、開催懐疑論が炎上してしまった。
 言うまでもなく、五輪大会の中核はアスリートを中心としてスポーツ競技の円滑な運用とそのための環境の提供である。この小論では立ち入らないが、北京大会の名誉のために言うと、冬競技特有の困難な環境対策等を一応乗り切り、コロナ流行対策、安全対策、規律ある大会進行、持続可能性に配慮した大会運営、女子選手の数と存在感、選手間の友好促進、ボランティアの活躍、共生社会の促進など、スポーツ競技の運営面では、それぞれ問題含みであったがおしなべて、五輪精神が活かされたと言える。
 そして重要なことは、中国側は黙っているが、北京での成果が東京大会のレガシィの正確な引継ぎであったことである。大会運用面に関する限り、夏冬を問わず今後の五輪のモデルとなろう。

2.民主主義国vs 権威主義国 
 今後の世界は権威主義国と民主主義国の数と力が拮抗、又は前者が後者を凌駕するとの予測が多い。勝者無き闘いの時代が来たと表現するメディアもある。

(1)定義と呼称
 この2種類の国家の分類は国際政治学の厳密な概念規定に基づくものではないが、一般的に広く使われている。双方を区分する指標は複数あるが、基本的には議会民主主義が機能し国民に基本的人権、自由、法の支配が保証されている国が民主主義国、これらのルールを逸脱する国を権威主義国とする。呼び名も様々であり、Authoritarian regime、専制主義国、強権国、全体主義国、覇権主義国、独裁国家など、民主主義の基本ルールを逸脱する度合いで批判の意味が加算され表現が強くなる。因みに日本外務省は外交青書等の公的文書では特定の国や政権を指してこれらの用語の使用は避けている。また、国家自体の属性ではないので、最近は民主主義国内で容易に権威主義的政権に移行する例が増えている。

(2)増大する権威主義国の数と力
 中国等の権威主義勢力との競争を今世紀最大のチャレンジとしているバイデン大統領は、昨年12月に「民主主義サミット」を開催した。193の国連加盟国中、109の国と地域が招かれた。民間の研究所等の大方の結論は、今世紀中に権威主義国の数が民主主義国の数を上回ると予測している。(注2)
 なぜ権威主義への誘惑が増すのかここでは立ち入らないが、その増大が国際社会の「与件」となり、政治、安全保障、経済、先端技術等の領域に加えて、好むと好まざるとにかかわらず五輪を含む国際スポーツ界にも影響を強める時代が来る。
 当面の10年間、夏大会はパリ、ロスアンゼルス、ブリスベン、冬大会はミラノ・コルテイナ、札幌(候補都市)までは民主主義国が続くが、その後が問題である。国名は避けるが、権威主義とされる新興国が国力を付け五輪招致に関心を示している例がアジア、中近東、東欧、南米に少なからずある。因みにモスクワは2012年夏季大会に立候補しロンドンに敗れた。昨年8月ラブロフ外相はサンクトペテルブルク等のロシアの都市への招致を検討中と述べたが、今や悪いジョークになった。
 なお、五輪のユニバーサリズム、五輪運動の普及の観点からは、欧米中心から権威主義が多い新興国等へ比重が移る可能性もある。救いは権威主義国の国民が五輪理念を身近で知り自由な世界に触れる機会を持てば、中長期的には民主的改革につながる効果も期待できる。

(3)民主主義国の五輪離れ
 逆に民主主義陣営では、ポピュリズムや自国中心主義を背景に五輪離れ、反五輪の動きが加速している。特に環境保護や納税者の立場から住民が異を唱え、大会の招致活動を断念する欧米の都市はここ数年で10都市を超える。北京大会もオスロ、クラコフ、リビウ、ストックホルムのライバル立候補都市が次々に撤退し、最後に残ったのは北京とカザフスタンのアルマトイだけであった。この流れに対抗するには、IOCが推進している五輪改革を推し進め各国国民が納得出来る五輪の意義と魅力を高めるしかないだろう。これは2030年札幌招致が地元を含む国民の多くから歓迎されるための課題でもある。

3.権威主義が台頭する時代に五輪はどう対応するか。  
 困難な時代に五輪運動を進めるためには、推進者である五輪・IOCの力および不可避的に絡んでくる政治・外交の力をどのように機能させるかがカギとなる。

(1)五輪運動に内在する矛盾   
 改めて言うまでもないが、五輪運動は伝統的に「非政治主義」ないし「政治的中立」を基本原則としてきた。バッハ会長も近年の国際政治の混乱を念頭に今年の新年の辞でも「五輪は“above the political disputes”」を強調している。この原則については文字どおりの意味で済まされない不明確さがあるので、バッハ会長が北京大会直前のIOC総会で分かり易く説明した部分を引用すると、
 「(北京大会を機に国連総会で五輪休戦決議が全会一致で採択されたことを指摘した後)五輪は平和と連帯のシンボルとして奉仕できるが、スポーツの力のみで平和を構築できないことを我々は知っている。五輪は戦争と平和の問題で決定権を持っていない。平和構築は政治の排他的権限(exclusive remit)である。一方、平和に関しては言葉とシンボル(words and symbols)もまた重要である。五輪はより良き将来への道しるべであり平和と連帯のシンボルである」
 要するに、五輪は理念をアピールするオピニオンリーダーの役を果たし、その実行は政治・外交(国家等の公権力)の責任である。バッハ会長の母国ドイツ流に言えば、「カイザーのものはカイザーに」という役割分担の思想である。バッハ会長もパーソンズIPC会長も北京大会の開、閉会式演説で世界の政治指導者Political leadersに宛てて平和を呼びかけている。
 一方、五輪運動は人権の尊重や平和な世界の実現などを目指す。それは人類や世界のあり方に係る問題であり、その実現を図ったり逆に踏みにじるのは執行力を持つ公権力である。その意味で五輪運動は政治的意味を色濃く有する。平和運動が政治活動とされているのもこのためである。
 ここで、五輪運動は一種の矛盾に直面する。一方で非政治主義に基づき政治問題には関与しないとしながら、他方で政治的意味を有する目標を掲げその達成に努力するとしている。高邁な理想を「言葉とシンボル」だけで一般論的に唱えていれば良いのか、どこまで具体的案件に踏み込んだら良いのか、理論的な線引きは困難であり、その結果IOCの実践行動に迷いと不透明さが生じ混乱さえ見られる。

(2)一貫性を欠くIOCの実践行動 
 非政治主義を貫いてきたIOCもバッハ会長時代になるとより積極的に政治の世界に近づいて来た。より良い世界に向けた「社会貢献」プロジェクトとして、国連主導の地球的規模課題の解決やSDGsへの協力、難民選手団の創設等を提案し、国連総会や2019年大阪G20サミットにまで出かけてアピールしている。また、バッハ会長は2018年平昌大会では朝鮮半島の緊張緩和を後押ししようと五輪憲章を逸脱してまで南北融和を図り、大会後には北朝鮮を訪問して金正恩総書記と抱き合って仲介者の姿勢を見せたりした。ドイツや朝鮮の分裂国家の雪解けムード醸成に五輪が果たした過去の事例が念頭にあったのだろうが、これはさすがに非政治主義からの“勇み足”との印象を残した。
 一方、伝統的な非政治主義を隠れ蓑にして五輪理念が危うい時にも曖昧な態度が続いている。北京大会の開会式に出席したグテーレス国連事務総長は習近平主席にはっきりとモノを言ったが、バッハ会長は互いに称え合うだけに終わった旨報じられている。彭師選手のセクハラ問題で国際女子テニス協会(WTA)のように人権擁護の確固たる姿勢を見せるのではなく、中国政府におもねるような行動を見せ、それを批判されると「静かな外交」(quiet diplomacy)だと繰り返し自己弁護した。ロシア選手等の大会締め出し勧告も、平素よりは踏み込んだ措置に見えるがIOCの権限内であり何ら悪びれるところはないはずだが、ロシア選手等の安全を図る「防御的措置」だと言い訳めいた説明をした。バッハ会長はこれをジレンマに陥った結果だと“白状”しているが、国家ドーピング問題での中途半端なロシアの扱いと同様、迷いが見られる。こんなにロシアに遠慮するのは中国と同類だと言われても仕方ない。
 IOCの揺れる行動の背景にあるもう一つの要因が、五輪の基本理念のひとつの「アスリートファースト」原則である。スポーツの世界でアスリートの利益確保は絶対的とも言えるが、金科玉条の如く守り他の利益の追及にしり込みすると、五輪運動全体の一体性(バッハ会長が好む言葉で言うとintegrity)が損なわれる恐れがある。

(3)“戦略的あいまいさ”から関与政策(engagement policy)への転換
 政治に向き合うIOCの行動を国際政治のゲームの概念に当てはめると、“戦略的あいまいさ”(strategic ambiguity)あるいは多少違う概念だが“戦略的忍耐”(strategic patience)を用いているように見える。自分の動きを悟らせないためか、相手の気勢に押されてか、ジッと動かずにチャンスを待つというこの戦略は、各国の外交がよく用いて効果的な場合もあるが、ジリ貧に陥る危険も大きい。かつてオバマ大統領が北朝鮮やシリアに対し用いた結果、核・ミサイルのビルドアップと600万人余のシリア難民を出した。文在寅大統領が対米、中、ロシア外交で曖昧戦略を取り成果を出せず先日の大統領選挙で革新系が敗れた一因とされている。米国の台湾防衛も基本的に曖昧戦略で中国を抑止してきたが、ウクライナ危機でその実効性が問われており、バイデン政権はその“見える化”を迫られている。
 こうして世界は曖昧戦略から状況に機敏に対応する「関与政策(engagement policy)」に移りつつある。ウクライナ危機がこの流れを加速しており、ドイツの安全保障政策の大転換もその典型である。五輪運動が取るべき道も関与政策である。五輪理念を守るためには消極的な意味の非政治主義から脱皮して攻勢に転じなければならない。オバマ大統領は世界平和の唱道者として世界中から期待されながら現実には「決められない」(wimpy)指導者のそしりをうけた。IOC会長にはそうなってもらいたくない。
 このための「てこ」がIOCにある。IOC側は五輪を何とか開催したいので権威主義の開催国に対しお願いする立場(“ドマンドゥール”demandeur)にあり相対的弱みがある。一方、当の権威主義国側も五輪を利用するために自国で開催してもらいたい立場でやはりドマンドゥールである。IOCはこの立場を利用し主張を強めることが可能である。相手が権威主義者でもひるんではならない。更に最近導入された五輪開催国を選定するも新方式ではIOCと関心国との間で開催条件等を協議しその結果開催の適否を判断するが、これは国際社会の懸念事項を相手に伝え五輪理念の遵守につき注文を付けるチャンスである。
 このためには理事等の資質向上を含む内部改革と我々各国による支援増大により、IOC自体を強化する必要がある。また、五輪運動の担い手のアスリート自身が合理的な範囲内でスポーツ大会での政治的メッセージを発信し易くなることが望ましい。五輪憲章第50条の硬い立場は徐々に緩められているが、米国の先例を参考に現状よりも緩和されれば、権威主義による五輪理念違反に対する強力な対抗力となろう。

4.五輪と政治・外交のコラボレーション    
(1)理念の共有
 民主主義国の主要な外交目標の一つは国連等と協力しながら人類の普遍的価値を護ることである。もちろん権力闘争的側面はあるが、理想を追う外交も重視されており、かつては「人道的介入」も唱えられたことがある。最近のアフガニスタン、ミャンマー、ウイグル問題のように二国間や多国間で外交交渉により圧力をかけ国際世論の名で変革を促している。場合により制裁、不買運動も行う。但し、権威主義国の政策が問題であり、政権の打倒を目指すものでないことはバイデン大統領も明言している。
 ここに、理念を共有する五輪側と執行力を持つ政治外交側とのコラボレーションのチャンスが生じる。従来もこのチャンスが活かされたことがあったが、結果としてのコラボレーションであった。政治・外交は独自の論理で動き五輪と同調するシステムがある訳ではないからである。それどころか、政治・外交が常に五輪に有利に働くとも限らず、例えばいわゆる外交的ボイコットなら影響は限定的だが、1980年モスクワ大会のように全面的ボイコットになると五輪側の被害が大きくなる。
  
(2)コラボレーションの具体的実施
 両者の動きが上手くかみ合う接点として、緊密な意思疎通の体制を築き的確な情勢判断と政策策定を図ることが望ましい。バッハ会長は両者の間を上手く泳ぎ回っているように見えるが、十分な成果は出ていない。五輪ファミリーとG7等の首脳や実務者レベルで協議の機会を増やし、必要に応じて権威主義国も加えることでその認識を高めることができよう。
 成立したコラボレーションを具体的に進める際には、即効性を期待するのではなく、権威主義勢力の強さや出方に応じて漸進的に五輪理念を実現する戦略を取ることが現実的である。政府間の外交交渉でも60パーセント取れば勝ちとされる。当面は“灰色のソリューション”とでも呼べる凡庸な戦略であるが、これを重ねることにより五輪及びパラリンピックのサバイバルにつながると思う。

(おわりに)
 パーソンズIPC会長は、北京パラリンピックの開会式挨拶で、「この開会式は、我々が政治について語るのを止めてアスリートについて語り始める契機になるだろう」と述べた。ウクライナ危機の下、同会長の気持ちはよくわかるが、それはこの小論の結論とは違う。我々は希望的観測を捨て、政治と積極的に付き合う道を進む必要がある。
 なお、北京大会は日中二国間関係に種々の影響を与え、また2030年札幌招致の実現に向けて示唆する点が多々あったが、その部分は紙数の関係上削除し別途論じることとしたい。

                            
(注1)日本オリンピックアカデミー編著 「2021+1 東京大会を考える」 2022年2月 メディアパル社 
(注2) アン・アプルボーム著 「権威主義の誘惑―民主政治の黄昏」 三浦元博訳  2021年4月 白水社

(2022年3月19日 記)