末廣重二先生(元外務省参与)の思い出


元広島市立大学広島平和研究所准教授 福井康人

1.はじめに

 末廣重二先生(元外務省参与)が2003年12月に逝去されてから20年が経過した。気象庁では最後に気象庁長官を努められ、退職後もその人脈と地震学者としての高い専門性を評価されて、外務省参与に発令され、核実験探知の仕事をしておられた。筆者が一回目の軍備管理軍縮課に勤務した20年前の頃に、ウィーン国際センター(VIC)で開催されていた包括的核実験禁止条約(CTBT)機関準備委員会の下部機関で検証問題担当の作業部会Bの会議にご出席頂いて、極めて専門的な議論になった時や過去の経緯がわからない時に、現地で色々ご教示を頂いた。

 今、自分の研究で過去の経緯等を調べていると末廣元参与のお姿が思い出される一方で、外務省の仕事の中でも専門的すぎるのか、既に歴史上の人となられているのか、特に若い人の間では知られていない。元参与が執筆された極めて専門的な論文がネット上で検索できるものの、その功績を記録に残しておきたいと思い、霞関会ホームページに寄稿させて頂くことにした。日本は長きにわたり核実験禁止の実現には多大な貢献を行っているが、今年5月にはG7広島サミットが開催されることもあり、今後の核軍縮・不拡散体制の強化に向けて新たな条約交渉等の貢献方法を考える上でも参考になればと思う。

2.科学者専門家会合時代

 末廣元参与は3代に亘って地震学者等をされた家系に属しその筋では有名な方であったが、国際の平和の安全に不可欠な核実験の禁止を目指す極めて特殊な分野に関心を持たれた。外務省の現役職員でもCTBTの条約名は知っていても、具体的に何をするかよくわからない方が少なくなく、現に説明がわかりにくいというご指導を周りの方から何度も受けた。その一例を示すと、核実験が起きると地震波(注1)、微気圧振動、水中音波(T相)、放射性核種(注2)が生じるので 、特に核実験固有の事象が検知できれば核実験が行われたと推定される。簡潔に言えばそうなるが、実際の現象の説明は極めて技術的であり、難解である。

 ではこの交渉はどのように行われたかであるが、具体的には正式な交渉が始まる前から、当時最も進んでいた地震学的観測の専門家を中心に、1976年から科学者専門家会合(the Group of Scientific Experts (GSE))がジュネーブで開催されて、地震データの交換の手法についても検討されていた(注3)。末廣元参与は、その主な会合にも出席され、日本を代表する専門家として貢献をされた。末廣元参与からよく話で聞いたことがあるのは松代にある精密地震観測室のことである。戦争末期に本土決戦に備えて、大本営等用に近辺に山深くに防空壕が掘られ、その跡地を利用して地震計が地中深くに設置されている。

 更に、松代群発地震が起きるようになってからは、周りにも地震計が追加的に設置され、これらの地震計全体が群列地震観測網となり、地球の裏側で実施される核実験の微小な波形も正確に捕捉できるようになった(注4)。このようにCTBT交渉以前の段階から、CTBT交渉の行われた3年間だけではなく、GSET−1、GSET−2、GSET−3(注5)といった3段階による国際地震データ交換実験が行われた。

3.CTBT交渉

 CTBT交渉と日本の関係については、故田中義友大使が核実験禁止委員会(NTB)議長を務めていた時に、条約交渉マンデートが纏まったことも有り、同大使の名前と交渉マンデートがよく引用される(注6)。実際の交渉は1994年から1996年に行われたが、それは科学者専門家会合が20年近く開催されたのを基礎にして、軍縮会議の下部機関としてNTBが設立され、更に法律作業部会と検証作業部会の2つの分科会に分かれて交渉が行われた。前者は本国又はジュネーブから参加する外交官が、後者は本国からの検証専門家が多く、末廣元参与も検証作業部会によく参加されていた。

 交渉最終段階では、当時のラマカーNTB議長の作戦で、ナイト・セッションを次から次へと入れて、各国代表団が疲れ果ててやむなく合意する方法が意図的に取られた由である。もっとも当初は気楽に午前中だけのセッションの時もあり、そんな時は近くのゴルフ場で議論をしながら、どの国がどの観測所を受入れるかとか、専門家ばかりなので、事実上の非公式協議をゴルフ場で行っていたようなものだと話しておられた。勿論、公式な記録には残っておらず、半分冗談かもしれないが、要するに議場外の議論も大事という趣旨と理解したが、いずれにしても長い準備期間を経て本交渉が行われている。

 そうしているうちに、当時はみんな交渉が決裂するとすれば、現地査察かCTBT第14条の発効要件かのいずれかが原因になるだろうと噂していたようである。図らずも、インドが自国が発効要件国に組み込まれることに反対した。軍縮会議での決定はコンセンサス合意が原則なので、CTBT交渉は失敗に終わり、多くの人の努力が水泡に帰するかと思われた。

4.国連総会でのCTBT採択

 しかし、インドがホストする予定であった国際監視制度(IMS)監視観測所をブランク(TBD)にして技術的な修正を施した上で、日本はオーストラリア等と共に共同提案国としてCTBT採択のための決議案を国連総会本会議に提出し、実質事項であるので3分の2の加重多数決による表決により採択された。その後、署名開放に付され、日本からは当時の橋本龍太郎総理大臣が署名式に出席し、核兵器国に続き署名した。かかるハイレベルの対応は、日本が核実験の禁止のために長年尽力してきたことを体現するものであり、末廣元参与の夢も部分的なりとも実現したことになる。

 その後、CTBT署名国会合での決議の附属として採択された包括的核実験禁止条約機構(CTBTO)準備委員会の設立文書をベースに、舞台はジュネーブからウィーンに移った。筆者がウィーンでの会議出席のために出張した際には、末廣元参与には過去の経緯などを教えて頂き、有難かった。御高齢により勇退される際は長年の貢献に対して外務大臣表彰が行われた。

5.結びにかえて

 実はその後もご本人に再会したかと思われた場面があった。CTBTの検証技術には水中音波もあるので、海洋研究開発機構(JAMSTEC)本部を訪問して、協力依頼に行ったことがある。広い会議室に通されて薄暗い向こうから出てこられた方が、末廣元参与に見えたので心臓が止まるほど驚いた。平静を装って、名刺を交換して判明したが、その方は末廣参与の御子息で海洋学者であった。御子息も当時同じような地球物理学系の分野で活躍しておられた。世間は狭いものであると感じるとともに、改めて末廣元参与とのご縁に感謝した次第である。

(注1)末廣重二、「解説:地震観測ネットワーク」『計測と制御』1977年9月、第16巻、9号、50頁−54頁。同論文では世界的な地震観測ネットワークの必要性について書かれてあるが、その背景には津波到達予測等の防災のみならず、核実験探知のためのセットワークについて裏に念頭にある。

(注2)CTBT第4条には検証制度について概要が規定されているが、具体的な事象選別基準についてはCTBT議定書附属書2に詳細に列挙されている。

(注3)Ola Dahlman, Frode Ringdal, Jenifer Mackby and Svein Mykkeltveita, “The inside story of the Group of Scientific Experts and its key role in developing the CTBT verification regime,” Nonproliferation Review, Vol.27,2020, pp.181-200. 

(注4)石川有三・柿下毅・涌井仙一郎・北村良江・村越真理子*「松代地震観測所での地下核実験の観測能力について(1)短周期世界標準地震計の場合」気象庁地震観測所技術報、第9号、昭和63年3月、37−45頁。

末廣元参与の跡を継いで気象庁、気象研究所等にも核実験監視と地震の関係を研究する人たちが育っており、いきなり実施された第1回北朝鮮核実験の際のみならず、その後の核実験の際も、第一報をいち早く発表したのは、気象庁地震火山部現業室等が防災目的から輪番の24時間体制で地震監視を行っているからであり、松代精密地震観測室にも輪番の24時間体制で津波監視の地震観測をしており、核実験の地震波も見落とすことなく初動を捉えているものと思われる。

(注5)Ralph Alewine, Overview of the Group of Scientific Experts (GSE) for the CTBT.

URL:http://carnegieendowment.org>files>20090409-alewine

(注6)CD Doc. CD/1238, 25 January 1994, p.1.