最近のフィジー事情と外交関係樹立50周年


駐フィジー大使 大村昌弘

1. 国際社会における位置づけ-国際場裡における協力

 フィジーと言われて、何を思い浮かべるであろうか。ラグビーのお好きな方であれば、リオ・オリンピック7人制ラグビーにおける金メダルや、日本の様々なラグビーチームで、フィジー出身の選手が活躍していることを思い浮かべるかもしれない。ラグビー日本代表のキャプテン、リーチ・マイケル選手は、母親がフィジー人で、フィジーと日本の懸け橋となっている。

 フィジーは、太平洋島嶼国の中では、PNGを除き経済規模や人口で群を抜いている。PNGとともに太平洋島嶼国のリーダー格である。近年、気候変動や海洋等に関する国際会議の議長を務めるなど、国際的地位の向上が目覚ましい。フィジーの人口は89万人、GDPは、54.8億米ドル(2018年)。地域の交通のハブとなっており、成田との間に直行便(2020年11月現在コロナ情勢により運休中)がある。
 太平洋島嶼国の国際社会における位置づけはどうであろうか。外務省では、太平洋島嶼国の重要性について、太平洋を共有、広大な排他的経済水域、天然資源の供給地、海上輸送路、国際場裡における安定した支持基盤、歴史的関係を挙げている。大使館における業務の一つの中心は、国際場裡における支持獲得である。
 国際場裡における支持獲得は、大使として最も神経を使うことの一つである。一つ一つの選挙が皆思い出深いが、在勤中の記憶に強く残っているものの一つとして、WHO西太平洋地域事務局長選挙(2018年)が挙げられる。この選挙は、日本の候補(葛西健氏)が立候補した選挙である。太平洋島嶼国の票が決め手となるため、我が国も、厚生労働省・本省・在外一体となり、全力を尽くした。
 この選挙戦では、葛西氏とともにフィジーを始め、キリバス、ナウル、ツバルの所轄国を1つ1つ訪問し、各国の票を1票1票固めるため、懸命の働きかけを行った。詳細については触れることはできないが、神経をすり減らす戦いで、様々なドラマがあった。支持要請に行って、先方が選挙と関係のない自分の関心事について語るのを2時間程度じっと相槌を打ちながら傾聴し、最後に先方の方から選挙では応援すると言ってくれたこともあった。結果としては、葛西氏の勝利に終わった。
 葛西氏の精神力と体力、識見には大いに感銘を受けた。体力を消耗する長期の出張を続けながら、毎日ジョギングを欠かさなかった。勝利の大きな要因は、葛西氏自身の資質や努力にあったことは間違いない。選挙が終わった後も、葛西氏は、太平洋島嶼国との絆を大切にしている。今回のコロナ・ウィルスとの戦いにおいて、葛西氏は、早い段階から太平洋島嶼国の保健当局と対話を行い、親身のアドバイスを提供している。その成果もあって、これまでのところ、フィジーを含め太平洋島嶼国は、ほとんどの国においてコロナ・ウィルスを封じ込めることに成功している。

2. 民族構成-インド系の存在

 フィジーに来て、すぐに気が付くことはインド系フィジー人が人口のかなりの部分を占めており、社会のあちこちで目に付くということである。大使館の現地職員の中にも大使秘書を含めインド系がいる。大使、次席の部屋の前に座っている総政務・経済・広報班兼任の3人の現地職員は、3人ともインド系である。
 フィジーは、多民族、多宗教国家である。先住民系のフィジー人は57%、インド系が38%、その他(ロトゥマン、ヨーロピアン、中国系)が5%を構成している。これは2007年の政府人口調査の結果であり、最新の数字は公表されていない。宗教も、キリスト教(先住民系等)、ヒンドゥー教(インド系)、イスラム教(インド系等)に分かれている。推測では、その後先住民系の比率はさらに上昇しているとのことである。これは、先住民系の出生率が高いこととインド系による豪州・ニュージーランドへの移住が進んでいることによる。
 フィジーにインド系が多いことの背景としては、かつての英国による年季契約移民制度(Girmit)の存在があげられる。年季契約移民制度は、英国植民地への渡航と引き換えに一定期間労働に服する制度である。フィジーにおける同制度の適用は、1879年に初代総督であるアーサー・ゴードン卿によって始められた。これは、当時フィジー人を営利目的で雇用することが禁止されていたこと及び南太平洋における労働貿易が不確実だったこと等のため、砂糖産業等で労働力が不足していたからである。
 1879年から、年季契約移民制度の下におけるインド人労働者の輸送が停止された1916年までの間に、60,500人のインド人がフィジーに輸送された。年季契約移民制度は、1921年に廃止された。
 Girmit移民の労働・生活条件は厳しかった。監視員は鞭を使った。ビティ・レブ西部及びバヌア・レブにおける広大な鉄道網は、移民が粗末な道具を使って建設したもので、今でもフィジー砂糖会社が使用している。
 5年間労働した後、Girmit移民は、自弁で自由にインドへ戻ることができた。10年間労働した後は、家族と共に無料で戻ることができた。植民地政府は、フィジーに留まることを奨励したが、約40%はインドへ帰国した。フィジーに留まることにした理由としては、結婚、親類関係や経済的・社会的に活躍する機会があったことが挙げられる。
 フィジーの今後の発展のカギは、インド系住民の能力の活用如何にかかっている。民族間の対立を抑え、インド系住民が安心して社会に貢献できるようにすることが必要である。

3.スバ6大使会合

 2019年12月に、2年程度空席だった米国大使が着任した。ジョセフ・セラ大使である。同大使は、民間人出身で政治任用、米国大統領選の際にトランプ陣営とカトリック教会関係者との橋渡しをした人物である。セラ大使は、在スバ西側先進国大使の間の連携の音頭を取り、これに日本、豪州、NZ、英国、仏が呼応した。6大使会合は、米国大使主催夕食会の形式で始まり、有意義な意見・情報交換の場となった。情報交換は、SNSのチャットでも行われた。セラ大使は、電話やメッセージでの連絡にも熱心で、早朝、夜間、週末も含め、同大使からの連絡が頻繁に入るようになった。従来より、米国大使館とのコンタクトは大切にしてきたが、同大使になってから米国大使館との距離がグッと近くなった。この結果、米国のみならず、豪州、NZの高等弁務官等との距離も近くなり、また、広報文化活動も一層活発になり、喜んでいる。
 2020年6月、6大使の枠組みで、フィジーの西部州主要都市、州都ラウトカと観光都市ナンディを訪問することとなった。事情により、ほとんどの行事は、日米豪NZの4大使で行った。他国、とりわけ主要国の大使と同席すると、フィジー、とりわけ西部州における日本の立ち位置ともいうべきものが見えてくる。
 フィジーにおいて、豪州とNZは、歴史的なつながりもあり、自国とつながりのあるフィジー在住者も多いので、広く深い関係を築いている。日本としては、投資や観光などの経済関係はそこまで深くなく、強みは草の根無償を含め無償資金協力や超低利の円借款、技術協力やボランティアなど経済協力であるように思われる。フィジーでは、円借款は長年行われていなかったが、2019年、災害復旧スタンドバイ借款の交換公文が締結され、2020年にサイクロン・ハロルドによる被害を被ったことを受けて、約22億円のローンが支出された。金利は0.01%、返済期間は40年、うち10年間は返済が猶予される。西部出張の際にも、プレスに対してこのスタンドバイ借款を強調していたら、地元メディアに大きく取り上げられた。
 この6大使会合の枠組みは、大使の交代があっても継続することが想定されている。今後も有意義な活動を続けていけたら良いと思われる。

災害復旧スタンドバイ借款署名式     

4.日・フィジー外交関係樹立50周年を迎えて

 今年は、フィジー独立50周年であるとともに、独立後直ちに外交関係を樹立した我が国との外交関係樹立50周年でもある。大臣のご来訪や日フィジー友好議員連盟のご訪問など各種要人の訪問が想定されていた。コロナ禍の中で、こうしたご訪問は残念ながら実現していない。太平洋島嶼国では初の開催となるはずであったフィジーでの太平洋・島サミット(PALM)中間閣僚会合は、バーチャルな開催となった。
 50周年を記念した大型文化行事は、日本から著名な和太鼓演奏グループ、ドラム・タオをフィジーに迎えて行う予定だったが、バーチャルな形式で行うことに転換した。行事の会場は当初の想定よりやや小さく、しかし音響設備が整っており、日本の無償資金協力で建てられた南太平洋大学ジャパン・パシフィックICTセンターを活用することとした。ドラム・タオの演奏は、事前に収録してもらい、当日は録画を放映することとした。行事全体を地元TV局、フィジーTVが生中継し、ライブストリームでも流してくれることとなった。この関連で、私は、フィジーTVのモーニング・ショーに出演し、外交関係50周年の意義について述べるとともに行事の宣伝を行った。
 ICTセンターには、政府の規制に従って、収容人数300人の50%にあたる150人を目標に招待した。10月22日の当日は、ナイラティカウ議会議長、政府要人、国会議員、外交団、日本留学経験者、日本との青年交流参加者など136人が参加してくれた。行事の前半に行われた記念式典では、私の挨拶に引き続き、フィジー政府代表のコロイラベサウ漁業大臣のスピーチ、続いて中西外務政務官及び額賀日フィジー友好議員連盟会長のビデオメッセージが行われた。50年間の友好協力を祝い、今後50年の関係発展を見通す内容となった。

 式典に引き続き、ドラム・タオの演奏が上映された。会場では、演奏の節目節目で拍手が起こり、観客が感動しているのが伝わってきた。また、会場外でもフィジーTVが生中継し、終了後も再放送をしてくれたので、多くのフィジー国民が視聴してくれたものと思われる。ドラム・タオの演奏については、驚きと感動の感想が寄せられた。ドラム・タオの後にフィジー国軍軍楽隊の生演奏もあり、両国演奏の競演となった。
 外交関係樹立50周年の年に、これまでの日本の協力と日本の文化に焦点を当て、親日・知日層を元気づけることができたと思う。バーチャルな形ではあるが、大型文化行事を開催した意義は十分にあったと感じている。太平洋・島サミット(PALM)を含む要人の往来や経済協力など過去50年の間の日・フィジー間の交流協力の実績は、フィジー側にも高く評価されている。今後の更なる発展を目指してフィジー側と協力して取り組みたい。