安倍晋三元総理の逝去を悼む


元駐英大使 鶴岡公二

1.大臣秘書官から衆議院議員へ
 安倍晋三総理は御父君の安倍晋太郎外務大臣の政務秘書官として外務省に来られた。当時私は大臣の海外出張や東京での会談の通訳を数多く務めた。大臣は清和会の領袖として総理を目指しておられ公務に加えて派閥を統率して休む間がないほど多忙であった。海外出張の時だけは閥務から解放された。当時は携帯電話やメイルでの連絡がなく、さすがに海外出張中の大臣に派閥関係の連絡はほとんど来なかったのだ。大臣は公務をまっとうしながら海外では楽しく過ごすことを心掛けられその一つが大臣宿舎での麻雀だった。私は麻雀とゴムマットを機内に持ち込み宿舎にはブリッジテーブルを用意して到着後ただちに麻雀をセットする担当だった。卓を囲むのは大臣、事務秘書官、政務秘書官と私だ。大臣はとても嬉しそうに麻雀を楽しみ、公務に出る時間ギリギリまで遊んだ。大臣は強運で強かったが晋三さん(当時はこのようにお呼びした。)はあまり麻雀は得意でなかった。もっとも長期出張で何回も麻雀をする機会があり帰国するまでに事務の秘書官が大敗していたことを思い出す。
 インド出張の際にボンベイに立ち寄り晋三さんは支持者と留守番の事務所員へのお土産を購入することになり私がホテル地下の店に同行した。カシミールの絹製の小さな絨毯を10枚ほど購入することになり私が価格を交渉した。店主は当然吹っ掛けてきたが結局言い値の十分の一程度で合意した。途中で先方に話にならないと態度で示すために晋三さんと店を出て廊下をしばし歩いたら店主が必死に追いかけて来た。最後におまけに玄関先に敷く小ぶりの絨毯を数枚つけさせたことを覚えている。予定の枚数より絨毯が多くなったので私は一枚頂いた。晋三さんは私の交渉振りにあきれて店主に同情していた。優しい人なのだ。
 御父君は残念ながら病に倒れ総理にはならなかった。跡目を継いだ晋三さんは衆議院議員に当選され、私がお祝いの夕食会にお招きしたら同期当選の岸田文雄現総理を同伴してきた。麻布で精進料理を三人で食べながら当選を祝った。

2.第一次安倍内閣
 第一次安倍内閣の看板政策は「美しい国」だった。気候変動が重要課題で政策目標を立てる必要があった。初代の地球規模審議官として私は経産省、環境省と調整し、「クールアース50」と銘打って2050年までに温暖化ガスの排出を半減する政策を取りまとめた。安倍総理にカタカナの名前になってしまうがとお伺いすると「それでいいじゃないか」と即断され名前が決定した。その後政府目標を公表した。電力の3割は原子力によることが前提であり当時は野心的な目標だった。今は半減でなく完全なカーボンニュートラルを目標としているが果たして実現できるのだろうか。
 ドイツがG8議長としてハイリゲンダムでサミットを開催しその主要課題に気候変動を据えた。総理は積極的に発言し会議の成果に貢献した。初日の夕刻の晩餐会前にメルケル首相が他の首脳と共に気候変動部分を記者発表する段取りとなりその準備を進めた。ところが午後3時ごろの会議の合間にメルケル首相が単独で合意内容を発表することが分かった。安倍総理にも日本の貢献を記者に語ってもらわなければならない。急遽総理にぶら下がり方式で会見をお願いした。規制が厳しく記者を直ちに呼び込むことは出来ない中でプーチンとの会談の冒頭取材に来ていた記者を集めた。私は発言振りを用意して総理に直接説明しすぐ会見に移った。総理は紙を見ずにほぼ完全に用意した通り発言された。
 シドニーで開催されたAPEC首脳会議でも気候変動が課題だった。総理は内容を承知され議論に積極的に参加された。恒例の訪問終了前の内外記者会見の打ち合わせの際に私は総理の様子がおかしいと感じた。直接話をする間もなく会見に臨まれて総理は健康上の理由で総理を退任すると表明された。衝撃的な場面だった。

3.第二次安倍内閣
 総選挙で民主党を破り安倍総理が再登場した。私はG8、G20の総理個人代表(シェルパ)を務める外務審議官になっていた。キャメロン英国首相が主催する北アイルランドのロックアーンで総理に同行した。会議前の首脳の懇談の機会などで安倍総理が存在感を示していることを目の当たりにし心強く思った。首相は会議場に先に入り元首である大統領がそのあとに入ってくる。議長のキャメロン首相が迎えるがそのあとすぐにオバマ大統領やプーチン大統領は安倍総理のところに来て歓談した。
 サミットではあるが日本のメデイアの関心は日米首脳会談だ。事務的に米側に要請したがオバマ大統領の時間が取れないので今回は見送るとの回答だ。総理はこだわらないとのお考えだったがそれではメデイアが納得しない。総理の許可を得て私は直接オバマ大統領に短時間で良いので総理と会うように要請したらもちろんとの回答だ。短時間だが日米首脳会談が実現した。総理秘書官が写真を撮り記者団と共有した。
 サミットから私は豪州から提訴された南氷洋における捕鯨事件の日本政府代理人としてハーグの国際司法裁判所に直行した。結果は敗訴。帰国して総理に報告した。与党を始め国内では敗訴に対する不満が渦巻いていた。総理からはねぎらいを頂いたが、責任者に対する総理の叱責なしにはおさまらない。私は官邸玄関前で総理からは厳しく叱責されたと記者団に述べた。鋭い記者がいて総理はどのような言葉をもって叱責されたのかと聞かれたので答えずに官邸を出た。報道され国内の怒りが少し和らいだ。総理はあくまでも優しい人だった。
 間髪を入れずその後私はTPP首席交渉官として交渉に出張した。民主党と争った総選挙で安倍総裁は大勝利を収めて政権に復帰したのだが選挙用のポスターにはTPP反対と書かれていた。農産品の関税撤廃が条件であれば反対との趣旨であると後に総理は苦笑いしながら話して国家百年の計と言ってTPP交渉参加を決断した。オバマ大統領との会談ですべての関税撤廃は交渉結果によるものであり参加の条件ではないと総理は確認した。いわゆる農産品5品目の関税撤廃は行わないことを衆参両院の農水委員会は議決した。これを踏まえ交渉に参加し厳しい追及を受けたが総理は与党農水族と一体となって関税撤廃には反対しつつ最大限の自由化を実現し交渉のとりまとめに成功した。その過程では総理は訪日したオバマ大統領とも交渉した。総理は直接交渉することは想定していなかったが夕食会の場で大統領から具体的な要求を提起されたので総理が対案を出して困難な案件が合意されたのだ。総理には適宜交渉内容を報告していたが良く内容を把握されていたのはさすがであった。
 TPPで合意した日本の農産品の自由化の約束はそれ以降、日欧経済連携協定や日米物品協定などの協定実現の基礎となった。まさに安倍総理が国家百年の計と言われた役割をTPPは果たし、米国、欧州、中国(RCEPを通じて)すべてと自由貿易協定締結に成功しているのは日本だけだ。特に米国が離脱した後のTPPを11か国で実現したのは安倍総理でなければなしえなかった成果だ。
 自由と民主主義を推進するためにも開かれたインド太平洋構想を提案したのは安倍総理だ。経済はもちろん政治安全保障でも安倍総理が残された足跡は大きい。
 私はその後駐英大使に任命され総理を英国にお迎えし、テレサ・メイ首相の訪日に同行して首脳会談に同席した。EUを離脱した英国のTPP参加を歓迎すると総理は述べたがメイ首相には強い印象を与えたと思う。また日英関係を事実上の同盟関係に格上げすることにも成功した。安倍総理の指導もあり現在の日英関係は極めて良好だ。

4.終わりに
 私は長年にわたり安倍総理とご一緒させていただいた。不遜にも私は安倍総理にとにかく長く総理を務めてほしいと繰り返し申し上げた。総理はいつもうなずいていた。総理御退任後に仲間と一緒に集まる機会があった。私は総理に大宰相であられたとお世辞なしに申し上げた。まだ日本と世界のために働いてもらうことを期待していた。凶弾に倒れたことは痛恨事で残念至極だ。ただ私は外務大臣秘書官から始まった公務一筋の人生を最後の瞬間まで政治に捧げて終えられたことは安倍晋三総理にとって本望だったと確信している。病を抱えながら本当に良く努力をされた。今はご冥福を祈るだけである。
 合掌。