名誉博士号と日本マレーシア国際工科院(MJIIT)の設立


元駐マレーシア大使 堀江正彦

 喜ばしいことであるが、この度、マレーシア工科大学(UTM)より、名誉博士号を授与されることになり、2025年11月15日にマレーシア・ジョホール州にあるUTM本校での卒業式典において、UTM総長であるザリット・ソフィア・マレーシア国王妃より学位記を授与されるという光栄に浴することとなった。

 自慢話になって恐縮であるが、名誉博士号というのは外国からの首相・大臣や大学の総長・学長などに授けられるのが通常であり、筆者の様な者に授けることは極めて珍しいことのようで、しかも2025年の名誉博士号は筆者一人だけ、それも高等教育大臣の承認とUTM総長の了承を取り付けてのことだそうなので、重みが感じられた。

 同時に「名誉教授」の称号を授けられた4名の高名なマレーシア人教授とともに、総勢5名が壇上に座って順番にスクリーンで功績を紹介された上で、王妃から学位記と記念品を頂いたが、王妃と壇上の関係者そして会場の皆さんに対して感謝のスピーチしたのは筆者だけという栄誉には驚かされた。

筆者のスピーチの一部を引用したポスター

 さて、マレーシア工科大学においては、駐マレーシア大使の任を4年間勤める間も何度か特別講演をし、その後も、コロナ禍の数年を除いて今日まで「UTM大使」や「特命教授」として特別講義や助言をしてきたが、今回の名誉博士号授与の一番の決め手になったのは、マレーシア工科大学の傘下に学部と大学院を兼ね備えた「日本マレーシア国際工科院」MJIITの設立に尽力したことによるものである。

 マレーシアのマハティール首相は1982年の就任早々に「東方政策」を重要な政策として打ち上げ、マレーシアの若者に日本の勤労倫理や技術・経営を学ばせ、マレーシアの産業発展に役立てることを目的として、工学を志向する学生を中心に毎年数百名を国家予算で日本の大学に留学させた。

 2001年、そのマハティール首相は小泉総理大臣に対して、「マレーシアは東方政策の下に人材育成のため日本へ留学生を派遣してきたが、日本の生活費が高いことが予算的足枷となっている。人材育成のコスト削減のため日本の大学がマレーシアに分校を設置することを提案したい。」と話したことが端緒となり、その後に日馬双方の政府間協議が何度も行われたものの合意に至らず、暗礁に乗り上げ、局面打開もままならないままになっていた。2007年に筆者が着任し4年間努力したことが功を奏し、正に2011年4月に離任の2日前、MJIIT設立事業費(約201億円)の内、実験機材を中心とした円借款(約67億円)協力を行うことをプレッジすることが出来た次第であるが、忘れられない思い出となっている。

 2007年筆者のマレーシア赴任時に、佐々江次官から「マレーシアとの関係は極めて友好なものであるが、懸案の工科大学構想が日の目を見ないままになっている。貴使の在任中に是非とも実現してもらいたい」と言われたこともあり、着任早々に担当のムスタパ高等教育大臣の自宅まで乗り込んで、工科大学構想を実現するためにスクラムを組むことに合意した。
その後、ムスタパ大臣は筆者とも相談した上で、閣議の了承を取り付けようと2度も説得を試みたが、日本側の負担する割合が少なすぎる、円借款は高くつき過ぎる、など強硬な反対にあって上手くいかなかった。

 そして、突如、大きな問題が浮上してきたのである。マレーシア政府との交渉に時間を費やしている間に、皮肉にもマレーシアの国民一人当たりの所得が上昇し、円借款の対象国から卒業してしまうことになったのである。これは困ったと思い、急遽外務本省と財務当局に対し円借款対象国として維持してもらうための陳情をし、特別に認めてもらえることになった。

 並行してマレーシア側の了解を得るために、筆者がナジブ首相を説得すべく首相官邸を往訪したり、ナジブ首相がクアラルンプールの国際会議に挨拶に来る(注、行政府はプトラジャヤに移転)際や、ニューヨークの国連総会へ出席する機会などを捕まえては、控え室や総会議場で、何度か説得を試み、悪くない感触を得た。そこで2010年ナジブ首相に公式訪日してもらったところ、鳩山総理大臣との首脳会談でMJIITの設立に意気投合されたのが青天の霹靂、成功の決め手になった。

 MJIIT誕生は、都合10年間の難産の末のことであったが、その記録はこれまで整理されていないので、今回以下の通り、誕生までの紆余曲折とその後の発展に関して、簡単な記録を残すこととしたい。

王妃より学位記と記念品を授与される様子

1.はじめに
 マレーシア日本国際工科院(Malaysia-Japan International Institute of Technology、以下 MJIIT)は、日本の工学教育の理念と手法をマレーシアに導入し、東南アジア地域の持続的発展を支える人材を育成することを目的として設立された。
 MJIITは、1982年に始まったマハティール首相の「東方政策(Look East Policy)」の集大成であり、日馬協力の象徴ともいえるものである。
 マハティール首相は、日本的価値観(勤勉・協調・品質志向・現場重視)を高く評価し、それをマレーシア社会に根づかせることによる国造りを重要政策の一つとした。
 その延長線上に、単なる留学生派遣ではなく、日本式教育をマレーシア国内で展開する高等教育機関の設立が構想された。
 MJIITの実現には10年以上に及ぶ両国政府間の交渉、法制度・資金・文化面の調整が必要であり、その過程自体が日馬協力史の重要な一章をなしている。

2.構想の発端(2001~2002年)
 2001年12月、ブルネイでのASEAN首脳会議において、マハティール首相は小泉純一郎総理大臣に対し、日本の大学の分校をマレーシアに設立する構想を正式に提案した。マレーシア政府は、1997年のアジア通貨危機以降、若手技術者の日本留学を維持することが財政的に難しくなっており、マレーシア国内において日本式教育を根づかせる分校を設けることが解決策と考えられた。
 翌2002年1月の東京での首脳会談において、マハティール首相は改めて提案を提示し、「マレーシアが土地を提供し、日本が教育内容と教員を担う」という枠組みを提案。小泉総理大臣はこれを歓迎し、文部科学省とJICAを中心に検討を進めるよう指示した。これが、後のMJIIT構想の原点となった。
 しかしながら、その後、巨額な資金を必要とする建物の整備費用を日馬どちらが担うかについて、明確にできなかったため、その後10年の歳月を要することになった。

3.第1期:日本技術大学(JTU)構想(2002~2004年)
 2002年から2004年にかけて、マレーシア教育省は「Japan Technical University(JTU)」という独立型大学の設立案を策定した。日本の大学コンソーシアムが教授団を構成し、日本語教育・品質管理・生産技術などをカリキュラムの中心に据える計画であった。
 この時期、両国間でJTUの法的地位や資金分担をめぐる協議が重ねられたが、以下の課題に直面した。
• 日本のODA制度では恒常的な運営費支出が認められない
• マレーシア側は共同出資を求めたが、日本には法的枠組みがなかった
• 日本の大学法体系では「海外分校」の設立が想定されていなかった
 その結果、両国の制度的不一致により、JTU構想は進展しなかった。
 ただし、この時期にJICAが派遣した専門家による基礎調査が行われ、教育課程、組織設計、人材育成モデルの基礎資料が整備された。これらは後のMJIIT構想策定の貴重な参考となった。

4.第2期:マレーシア日本大学センター(MJUC)の設立(2005~2008年)
 構想を段階的に進めるため、2005年、両国は「マレーシア日本大学センター(Malaysia-Japan University Centre, MJUC)」を設立した。MJUCは、マルズキUTM教授を所長とし、将来の大学設立に向けた準備組織として、教育カリキュラム試行、研究テーマ設定、人材養成モデルの検証などを担った。
 日本からは文部科学省の支援のもと、3名の教授が派遣され、大学の基盤となるカリキュラムの作成、工学教育の質保証や日本式研究室制度(i-Kohza)の試行を開始。
 2007年には最終報告書が完成し、「10年計画で独立大学を設立する」構想がまとめられた。しかし、マレーシア政府内で「日本側の出資割合が明確でない」との懸念が再燃し、正式な承認には至らなかった。結果としてMJUCは大学設立の前段階で活動を終了した。

5.第3期:管轄変更とMAJU構想の混乱(2008~2009年)
 2008年、アブドゥラ首相による内閣改造により、大学設立計画は高等教育省(MOHE)から起業家・協同組合開発省(MECD)へ移管された。MECDは新たに「MAJU(Malaysian Japan University)」構想を打ち出し、既存の工業訓練校を改組し、そのキャンパスと建物を活用して日本式教育を導入する案を提示した。一時は閣議決定にまで至ったが、財務省が予算執行を拒否し、計画は実施段階に進まなかった。
 この混乱により、日馬双方の関係者は「構想そのものが失われるのではないか」と危惧した。実際、MJUCで育成された人材や試行された教育モデルは、一時的に活動の場を失った。

6.第4期:MJIIT構想と実現(2009~2011年)
 2009年、ナジブ・ラザク首相が就任すると、構想は再び高等教育省(MOHE)に戻されたが、しばらくは進展がなかった。
 その頃、UTMは大学の新戦略として、クアラ・ルンプール(KL)キャンパスを国際キャンパスとして高度化する方針を打ち出し、KLキャンパスの再開発を進行させていた。そしてUTMマルズキ副学長が、MOHEへの所管替えを踏まえ、ザイニ学長ほかを説得したうえで、「KL国際キャンパスのために建てた新築の校舎を活用して、独立した大学ではなく、UTM傘下となるが、MJIIT「日馬国際工科院」として実現してはどうかとMOHEや日本側に提案してきた。
 MOHEも、この構想を現実的かつ持続可能なものとして賛同した。そして、その構想では、
• 日本の大学コンソーシアムによる教育・研究支援、
• JICAの技術協力、
• 日本政府の円借款による実験機材整備、を組み合わせる方式が採用された。
 翌2010年5月、ナジブ首相が訪日し、鳩山由紀夫総理大臣との会談で正式に協力を要請。鳩山首相はこれを受け、支援を表明した。同年12月、マレーシア内閣がMJIIT設立を承認。2011年4月には日本政府が円借款供与の事前通報を承認し、筆者がナジブ首相に対する離任挨拶の際に意図表明して、同年9月、MJIITが正式に開校した。

2013年 MJIIT発足の2年後、校舎前で マハティール元首相を囲んで、ザイニUTM学長、メガットMJIIT院長、ハムダニKLキャンパス長と筆者

7.MJIIT開学後の展開と成果
 MJIITは日本の教育理念を柱としながら、マレーシア社会に適応した独自の発展を遂げている。またUTMにおいて数あるファカルティ(諸学部・スクール)の中でも、MJIITの学生の就職率が100%と高いだけでなく、競争的研究資金獲得実績、一流誌への論文採択などでも常にトップ3の成績を収めていて、全体として高い評価を得ている。

教育・研究体制
 日本の「研究室主導型教育(i-Kohza)」を採用し、学生が早期から研究活動に参加する仕組みを導入した。現在、20のi-Kohza、70の実験室、2つの研究センター(防災科学センター、先端研究センター)を設置し、国際共同研究が進展している。

日本文化・言語教育
 日本語・日本文化センターを設立し、語学のみならず「モノづくり精神」「現場主義」「協働チームワーク」など、日本の文化的価値観や仕事への使命感と責任感を学生に浸透させる教育を体系的に実施。

人材育成と実績
 2025年時点で学部生約750名、大学院生約400名が在籍。卒業生は3,000名を超え、マレーシア国内外の産業界・政府機関・研究機関で活躍している。
MJIITでの教育が日本企業でも通用するレベルであることの証明として、60名程度の卒業生が日本で採用され活躍していることがあげられる。これはMJIITの学部卒業生の約5%の割合である。
なお、日本人教員は、2017年のピーク時には20名であったが、現在は現地化が進み5名となっている。現在のMJIIT教員数は全員で105人であるので、日本人教員は約5%を占めている。MJIITでは日本の大学を卒業したマレーシア人が20名教鞭を取っていて「東方政策」の理念を受け継いでいる。

国際連携
 日本側コンソーシアム(29大学+2研究機関)が引き続き支援を継続。
 また、産業界・大学・研究機関をつなぐ「Malaysia Japan Linkage Office (MJL)」が設置され、学術・産業連携が深化している。また、高い評価を受けているMJIITとの連携を希望するASEANの大学も増えてきていて、これまでにラオス、カンボジア、東チモールの大学との連携が開始された。

8.総括と今後の展望
 MJIITの実現は、両国の粘り強い交渉と相互理解の成果であり、日本の高等教育がASEAN地域でどのように共有・展開できるかを示す成功例である。本プロジェクトの特徴は、単なる技術移転ではなく、マハティール首相が目論んだ通り、「教育文化そのものの共有」にある。
 今後の展望としては:
 ・日本・マレーシア両国の教員・学生交流の拡大
 ・AI・環境・防災など新興分野への研究協力の展開
 ・ASEAN諸国学生の積極的受け入れ
 ・自主的財政基盤の確立
 などが重点課題として挙げられている。
 更には、MJIIT2.0として、MJIITが育成した高度人材によるマレーシア産業の一層の高度化、MJIITの日本的教育がカバー出来る範囲の中等教育、また初等教育への拡大などを視野に入れた検討も進められている。
 MJIITは、東方政策の理念を体現する象徴的成果として、今後も日馬両国の協力関係を深化させる拠点となり、アジア全体の持続可能な発展に寄与することが期待されている。

9.さいごに
 MJIIT誕生までの紆余曲折とその後の発展、名誉博士号を筆者が受けることとなった経緯は以上の通りではあるが、MJIITの成功は、設立にご尽力下さった日馬両国政府の関係者の方々、MJUCにおいてMJIITの基盤となるカリキュラムなどを作成して下さった3名の教授とコンソーシアム大学の教授陣、また設立後にMJIITにおいて教鞭を取って下さった多くの日本人とマレーシア人教員、その全体をバランス良く取り進めたJICA職員の方々の努力があったからこそであり、それなくして今日までのMJIITの見事な成長はなかったことを確信する次第である。この機会に関係者の皆様方に心からお礼を申し上げたい。

MJIIT開校10周年記念出版物で「MJIITの父」と称されることになった。
(名前の下のキャプションにThe ‘Father’ of MJIITとある。)