各国駐イラン大使列伝:歴史に埋もれた外交官を発掘する


駐イラン大使 塚田玉樹

 仕事で各国大使をオフィスコールするときは、待ち時間や退出時に廊下などに飾ってあることの多い歴代大使の肖像を鑑賞するのが、ちょっとした楽しみだ。歴代大使のポートレートには二国間関係の歴史が詰まっており、任国の対外関係を知る上で、参考になる意外な情報が転がっていたりする。実際、名前と年代を確認しながら一つ一つ辿っていくと、毎回小さな発見がある。その多くは何の価値もない歴史トリビアだが、たまに知る人ぞ知る人物、悪名高き人物がひょっこり顔を出したりするのは愉快である。本稿では、そうしたトリビア的な駐イラン大使を何人か紹介したい。

 最初に歴史に埋もれた大使を掘り出してみる。まずはイランとの因縁浅からぬ大英帝国の大使達である。テヘラン市民の落書きだらけの外壁をくぐるとイギリス大使館内はまるで別世界で、テヘラン会談が行われた1943年にタイムスリップする。まずチャーチル首相の69歳の誕生日を祝う晩餐会が行われた大広間に通される。ゲストブックにサインをすると、その脇に何代か前のとおぼしきゲストブックが無造作に置いてあるので、何の気なしに覗いてみると、何とチャーチル、ルーズベルト、スターリンの本物の署名がされている。

 大広間から大使室までの長い廊下に、歴代大使ポートレートが、220年分、100人以上並ぶが、筆者は1929年前後に注目した。なぜなら、この年は初代駐ペルシャ公使の笠間杲雄(かさま・あきお)が着任した年だからである。この当時の駐ペルシャ英公使はサー・ロバート・クライブである。笠間の著作「沙漠の国」にも、ペルシャ勤務時代の思い出として、クライブの名前は何度か出てくる。初代公使としては、先輩格のイギリス公使からは、学ぶことや助けてもらったことも多かったのだろう。瘴癘の地における相互扶助の例として、外務省3代目ペルシャ語専門官の井上英二氏の自伝「わが回想のイラン」に、次のような一節がある:

 『日本公使の夏の公邸は、英国公使館所有の別館であった。付近にはソ連、トルコ、イタリア、ドイツなどの夏の公邸があり、テヘラン郊外の避暑地として最適の一等地である。岡本公使(笠間公使の後任)が英国公使と話し合って夏の公邸として借り上げた別館は、純英国風の建物で、庭には樹木も鬱蒼と茂り、テニスコートとスイミングプールもあった』

 なお、横道にそれるが、笠間は文筆家としてもすぐれ、任国に関する著作を数多く残している(中東に関するものが多い)。クライブに関連する記述を一つ紹介する:

 『私は四回ほど宮中賜餐にあずかったが、ある年、私は皇帝に向かってやや斜め、皇帝の左隣に坐したのが英国公使夫人であった。最後の水菓子のとき陛下は皿を眺めて一寸選択に迷って居られた様子を見て、レイディ・クライブが「これがよろしうございましょう」と指さした梨を皇帝は笑いながら取り上げられた。これは今でも私の脳裏に強い印象を焼き付けている。』

(注:蛇足ながら補足すると、これは鉄血皇帝と称され隙を見せることのなかったレザ・パーレビのいかつい顔の一瞬のほころびをとらえたスナップショットであり、笠間としてはそこに価値を見出しのだろう。なお、サー・ロバートはペルシャの後は1934-37年、駐日大使を務めた。なお東京での後任は、あの有名なクレイギー大使である)。

 次に目にとまったのは、サー・セシル・スプリングライス公使である。筆者はここで彼の写真を見るまで、この外交官のことを知らなかった。目にとまった理由は、まず名前が俳句的雅趣を有していたこと、そして古い写真ながら007のようなカッコ良さを漂わせていたことである。頭のてっぺんは少々薄めだが。

 いろいろ調べてみると、彼は興味深い経歴と業績を残している。書記官(1899‐1901)、公使(1906-08)として2回ペルシャ勤務、特に二度目のペルシャ勤務では立憲革命の動乱の渦中、当時の駐ペルシャ・ロシア公使と角逐・闘争を繰り広げた(後述)。笠間公使同様、詞藻豊かな人で、多くの詩を残している。また語学の達人でもあり、ペルシャ語の古典詩を多く英訳した。日清戦争直前(1892-93)に日本勤務もしている。日本在勤中は訪日したカーゾン卿(のちの外相、インド総督)に同行して朝鮮視察を行い、将来の日英同盟の基礎となる重要な意見具申を行っている。

 さらに興味深いのは、日露戦争前後(1903-05)にモスクワ勤務をしており、日露開戦を正確に予測し、戦争終結に向けて刎頸の友であったセオドア・ルーズベルト大統領に働きかけて、停戦とポーツマス講和会議の実現のため裏で奔走したことである。最後は駐米大使として(1912-18)、今度は第一次大戦に米国を参戦させるため奔走しカナダで客死した。

 次は、いよいよ悪名高き大使たちの登場である。

 悪名番付の東の横綱は、先述のサー・セシル・スプリングライス公使と同時期、駐ペルシャ公使を張っていたロシアのニコライ・ガルトヴィク男爵である。ガルトヴィクは帝国主義を絵に描いたような人物で、赴任する先々の国で大暴れし、内乱や戦争を引き起こした。ラムズドルフ外相時代にアジア局長としての功績を認められ、外相ポストを狙ったが、ライバルのイズヴォルスキーとの競争に敗れ、イズヴォルスキー外相にイラン公使を命ぜられた(1906-08)。飛ばされたガルトヴィクは、怒りと不満をぶちまけるかの如く、訓令を無視し、当時進行中であったペルシャにおける勢力圏をめぐるイギリスとの交渉を一方的に決裂させる一方、ロシア人将校麾下のコサック旅団を動かしシャーとかたらって立憲革命運動を弾圧、とどめにマジュレス(国会)爆破事件まで引き起こすという常軌を逸した行動をとった。現代であれば即刻ペルソナノングラータで国外追放だろうが、当時のペルシャの弱体や混乱もあり、爆破事件をもってやっと本国召還となった。モスクワに戻った後も、引き続き外相ポストを目指し猟官運動を行ったが、今度はサザノフに敗れ、傷心、逆切れの心境でセルビア大使に転出、セルビアでもペルシャと同様の手法で内政を大混乱に陥れた。

 西の横綱には、1953年のイランにおけるクーデターを舞台裏で支えたロイ・ヘンダーソン米大使をあげる(1951-54)。もちろん、このクーデターはCIAが計画、遂行したものであり、ヘンダーソンはその駒の一つだったかもしれない。しかし、このときのヘンダーソンは完全中立であったわけではなく、モサデグ首相の強行するアングロイラニアン石油会社の国有化はアメリカの国益に反するとしてヘンダーソンはその旨意見具申もしており、根本的には反モサデグであったことは間違いない。いずれにせよ、このときのヘンダーソン大使の「働きぶり」は、イラン人歴史家の間では「悪」と認定され、その評価は定着しているようだ。

 なお、ヘンダーソンは元々ロシアサービスの外交官であり、ジョージ・ケナンのいわば先輩格として国務省の対ソ強硬派のボス的存在であった。このため親ソのルーズベルト大統領/ホワイトハウスからは目の敵にされ、ヘンダーソンは1943年イラク大使に更迭された。彼は以後近東サービスに「転向」を余儀なくされが、仮に戦後もロシアサービスに残っていれば、違う形で外交史に名を残すことになったかもしれない。この時期、すなわち国有化に端を発するナショナリズム覚醒の時期に、たまたまイランにいたことで、悪大使として歴史に名を留めることになってしまったのは、ヘンダーソンにとって悲運と言わざるを得ない。

 最後に、善悪を超越する番付外としてフランスのアルトゥール・ド・ゴビノー伯をあげておく。彼は思想家、作家として後世に名を残しているが、本業は外交官である(フランスはシャトーブリアン、スタンダール、駐日大使を務めたポール・クローデルなど、文人外交官の伝統がある)。

 ゴビノーは、青年期にブルボン復古王政に反対する自由主義的なサロンに出入りする中でアレクシス・ド・トックヴィルの知遇を得、お互いの趣味でもあったオリエンタリズムを通じ親交を深めた。その後、第二共和政において外相となったトックヴィルの庇護と抜擢により外交官に転じた。外交官として駆け出しの頃、ゴビノーは後の白人優越主義、有色人種排斥運動さらにはナチスの人種理論の濫觴ともなる「人種不平等論」(1855)を著している。森鴎外もゴビノーの著作に刺激を受け、日露戦争直前に「黄禍論梗概」を世に問うた。

 ゴビノーが若い頃に私淑したトックヴィルとの交際を通じゴビノーはペルシャに対する関心を深め、ペルシャ語もマスターした。そして念願が叶い1855-58に書記官として、また1861-64には公使として、2度にわたりペルシャ勤務をしている。なお、ペルシャ赴任に先立ちトックヴィルにイスラム社会の心得につき指南を乞うたりもした。トックヴィルは1840年代の数度にわたるアルジェリア視察旅行を通じ、当初の自由主義的立場から一転、帝国主義的支配の正当性を確信するに至ったとされ、ゴビノーにもそのような所見を伝えた可能性はある。

 その勤務はおそらく現代では考えられないほどのどかでゆったりとした時間が流れていたのであろう。ありあまる時間を活用し、彼はペルシャ各地やトルコなどを旅行し、思索や著作に没頭した。その結果、彼は現代ペルシャに幻滅した。アケメネス朝時代を頂点にペルシャは文明的に没落、人種的に劣化したと結論づけ、その主たる要因をイスラム教の受容に帰した。こうしたペルシャ研究を通じ、アーリア人種の優越性を確信するに至ったのは、誠に皮肉である。言語学、考古学、人類学などを織り交ぜた「似非科学」とその当時からすでに各方面の大きな非難を浴びたが、そうした攻撃にめげることなく、彼は独自の人種論を推し進め、その後の国際関係、世界史に与えた影響の甚大さは周知のとおりである。

 以上断片的とはいえ、何人かの駐ペルシャ、イラン大使、公使の足跡をたどった。ひるがえって、現在のイランを見てみると、彼らの生きた時代の、彼らがあるいは暴れ回り、あるいは苦悩したテーマ(たとえば、大国の横暴、人種問題、ナショナリズムなど)の多くが、そのまま、あるいは形を変え、あいかわらずイランにまとわりつき、国際関係の基底をなしていることに、驚きの念を禁じ得ない。

 筆者が過去勤務した日本大使館にはいずれも歴代大使の肖像が飾ってあった。ところが、歴史ある在イラン日本大使館にはそれが何故か存在しない。2029年の日イラン外交関係樹立100周年を念頭に、筆者の在任中に在イラン日本大使館にそれらを是非とも飾りたいと考えている。  〈了〉