北野 充著「アイルランド現代史―独立と紛争、そしてリベラルな富裕国へ」(中公新書、2022年) 

林 景一(元駐英大使、元駐アイルランド大使) 

1.まえがき

 アイルランドについての待望の本が出た。著者は前駐アイルランド大使であり、評者の四代後の同国駐在大使である。本書は、その秩序だった構成と筆力で、1922年の英国からの独立後百年という大きな節目である2022年までの現代史を、読みやすい新書版にまとめるという難事を成し遂げた。270頁の本文には豊富な引用があり、7頁に及ぶ参考文献リストもある。東京から大阪への新幹線の車中で読み切る程度という、通常の新書のレベルを超える情報量がある。しかも、直線的な叙述ではなく、政治、経済、社会の各分野において、アイルランドの変貌を総合的に解明する。アイルランドの歴史に関して書かれた書物はこれまでもあったと思う。ただ、本書のいうように、時期や分野に偏りがあり、総合的な通史として書かれたものはあまり見当たらない。その意味で、本書は、アイルランドの現代史を知るための出発点であり、今のところ到達点であるような書物といえる。おそらく、当分の間、アイルランドを知りたい人、研究したい人にとって、本書はハンディな座右の書となるであろう。硬派になりがちな歴史書ながら、本書は、閑話休題で7つのコラムを節目、節目に設けており、文学、音楽からビール・ウィスキーやラグビーまで、ディナーでの会話のタネになる話題も提供している。もっとも、そうした軽い話題も、アイルランドの歴史と結びついた部分があることにも触れられている。

2.本書の大筋をなるべくネタバレにならないように紹介したい。

(1) 保守的な西欧の最貧国が、いかにしてリベラルな富裕国となったのか。本書によれば、本書は、アイルランドの現代史をたどりつつ、その問いに答えようとするものである。そして、図式的に言えば、1922年に英国から独立して以来のこの100年は、本書で「デ=ヴァレラ・モデル」と呼ばれるものが出発点となっている。「デ=ヴァレラ・モデル」とは、エイモン・デ=ヴァレラという、建国の指導者で、1932年から20年にわたって首相を務め、その後14年間大統領のポストを占めた人物の指導力によって形成された体制を指すものである。デ=ヴァレラの指導の下、国内産業を保護する閉鎖的な経済と、圧倒的多数の国民が篤く信奉するカトリックの教義(つまりカトリック教会の発言力)の重視を旨とし、外交的には中立を堅持する「国のかたち」が形作られたとする。本書は、デ=ヴァレラの劇的な人生を活写した上で、確かに保護経済、カトリック信仰重視は経済社会の停滞を招いたが、その一方で、「共和国」を樹立して真の対英独立を果たし、現行憲法を制定し、また、現在も堅持されている中立政策を確立して、第二次大戦の戦禍を免れるなどの功績も大きいという公正な評価も与えている。

 そして、その建国モデルからの脱却が図られてきたのがアイルランドの現代史だというのが本書の説明である。すなわち、「デ=ヴァレラ・モデル」に基づくアイルランドは、やがて、周辺諸国に比しても、経済と社会の停滞が目立つようになる。そこで、経済社会の自由化を追求する「リベラル・モデル」という新しい「国のかたち」への移行が行われる。具体的には、まず、貿易投資の面での開放的な経済への転換が行われる。次いで、加盟国間の経済統合を図る欧州共同体(EC)への加盟(1973年)及びECがEUへと深化して形成された単一市場への参入を経て、ITソフトウェア・製造業、製薬・医療機器、金融業などの外資導入が飛躍的に伸びるという経過をたどった。これによって、アイルランドは、「ケルティック・タイガー」と称賛された高度経済成長を遂げ、そして目覚ましい経済発展の中でカトリックの束縛も徐々に緩み社会の自由化がもたらされたという、比較的知られた成功物語が語られる。

(2) ただ、本書で注目されるのは、更に進んで、その後、自由化の下で繁栄を謳歌していたアイルランドが直面した危機とその克服、更なる危機への対応という、きわめて今日的課題をも、大使としての現場感覚も含めて取り扱っていることである。

(ア)まず、「リベラル・モデル」による経済発展の中、不動産バブルに沸いていたアイルランドの金融機関は、リーマンショックに直撃される。銀行の不良債権を政府が全面的に肩代わりしたことにより財政破綻を迎える。折から、政治の腐敗も明るみに出る。「リベラル・モデル」は、こうしてバブル経済の破綻、政治の腐敗など、その代償も生んだという評価を受ける。しかし、アイルランドは、厳しい緊縮財政をとり、増税や歳出削減により国民に負担を強いて財政の健全化を図り、稼げる一流国際企業を擁していることもあって、数年で、見事に危機を脱するのである。

(イ)ところが、ほっとしたのも束の間、今度は英国の EU 離脱という危機が青天の霹靂のように襲い、北アイルランド問題との関係で、アイルランドは難題に直面することとなった。本書は、こうした情勢の変化が「リベラル・モデル」に深刻な課題を突きつけており、モデルの見直しも議論されていると指摘する。現に、アイルランドでは、建国前の内戦時の英愛条約反対派にルーツを持つフィアナ・フォイルと賛成派を起源とするフィナ・ゲールという、共に中道右派に分類される二大政党が、「デヴァレラ・モデル」と「リベラル・モデル」の両方の期間を通じて、交替で政権を担ってきたが、リーマンショック、政治腐敗、Brexitなどの危機を経て、国民の政治意識が多様化した結果、もはや両党が連立して初めて政権を担える程度の議席しか獲得できなくなっており、両党が覇を競った「内戦政治」の時代が終わったとされている。

(ウ)難題に直面しているとはいえ、アイルランドは生活の質と経済活力をともに高いレベルで両立させているという点に本書は着目する。そして、経済成長につれて社会が自由化されて、カトリック信仰の呪縛=「デ=ヴァレラ・モデル」から脱却し、外国人や女性の進出など自由化が進む。そして、今度は、そうした自由化が経済成長を促すという好循環を生むことが指摘されている。本書は、注意深く、単純な比較や当てはめは適当ではないがとしつつも、こうしたアイルランドの軌跡は、経済停滞や社会の閉塞状況を課題とする日本にとって参考となる点を含んでいると結んでいる。

3.ここで、アイルランドと英国の双方で大使として在勤した評者の観点から、一般に注目度の高い、英国のEU離脱と北アイルランド和平の問題に関し、本書の関連部分について少し補足しておきたい。

(1) リーマンショックによる国家財政破綻から奇跡的に立ち直ったばかりのアイルランドを襲ったのが英国のEU離脱であった。本書の指摘するとおり、島国である英国との陸上国境を有する唯一の国であるアイルランドにとって、問題は深刻であった。英国は最大の市場であり、EU離脱は英国との間の交易や投資の自由な流れを阻害して重大な悪影響が出かねない。のみならず、英国のEU離脱によって、南北アイルランド間に「ハードな国境」(国境において出入国管理、税関・検疫所などの厳重な管理が行われる状況)ができることになると、北アイルランド和平合意の重要な柱の一つである南北アイルランドの間の自由通行が妨げられることとなりかねず、これは、和平合意を根本から揺るがしかねないものである。このようなことから、英国の国民投票の結果は「世界中を驚かせたが、各国の中で、最も大きな衝撃を受けたのはアイルランドであった。」と本書は指摘する。本書は、更に、アイルランドにとっては、英国のEU離脱に際し、ハードな国境をいかに回避するかが最重要の問題であったが、同時にこれは「英国のEU離脱における最も解決が困難な問題」となったとする。

(2) 本書は、英国によるEU離脱は、北アイルランド問題に関して、トリレンマを生み出したと指摘する。すなわち、①英国のEUからの完全離脱、②南北のハードな国境回避、③北アイルランドと英国本土との差別回避の三点の要求があるが、これらの内、二つは同時に満たすことができるが、三つを同時に達成することは困難だというのである。

(3) 評者の見るところ、①は国民投票の結果であるから、(再度国民投票をして別の意思が示されでもしない限り)英国として動かしようがない。②も、アイルランド及び英国全体の利益から考えて要求を満たさざるを得ないものだと考える。③についてはどうであろうか?この点、本書は、㋐北アイルランド議定書は、「北アイルランドに、英国の一部でありながら、EUの単一市場にもアクセスしやすい独自の地位を与えた」と指摘しつつ、しかしながら、北アイルランドのユニオニストからは、この特別扱いによって、「英国から切り離されて、アイルランド統一に向かうのではないか」という懸念が噴出したとされる。つまり英本土より有利な取扱いであるということよりも、英本土と差異があり、アイルランドと同じだということを重視したと本書は分析している。とすれば、容易に動く話ではないとしても、その有利さの理解を深め、ユニオニストたちにある統一の懸念を緩和するなんらかの措置を積み重ねるといった対応の余地があることが暗に示唆されているようにも思われるというのは評者の深読みであろうか?

(4) 他方で、本書は、北アイルランド自体が「新しい時代」に入りつつあることを指摘する。すなわち、㋐北アイルランドの人口動態について、早晩、プロテスタントとカトリックの人口比が逆転すること、㋑一方で、プロテスタントとカトリックのアイデンティティ(つまりコミュニティ意識)が薄まっていること、㋒シン・フェイン党への支持が高まっていること(同様に南のアイルランドにおいても、シン・フェイン党が「政治の中心への道を歩みつつある」こと)を指摘しており、北アイルランドをめぐる基本的な政治構造ないし政治環境が変化していく(その中で、新たな地平が開ける)可能性も示唆している。そうすると、本書はそこまで言及していないが、英愛両国は、EUの理解も得て、こうした変化が意味を持つものになるまで、北アイルランドにおける事態が爆発しないよう取り扱いながら、muddle throughしていくという成り行きを思わせるものがあって大変興味深い。

4.まとめ

 本書は、2019年8月から2022年12月という最近まで駐アイルランド大使を務めた著者が、大使として赴任して以来、「現在のアイルランドを理解するために、アイルランド現代史を学んできた成果をまとめたもの」である。アイルランド現代史については、対英独立戦争前後と北アイルランド紛争を詳述するものはあるが、それ以外についての現代史の文献は限られている感があったと言う。そして、現在のアイルランドを理解するためのいくつかの重要なテーマである、フィアナ・フォイルとフィナ・ゲールの二大政党の対立と相克、シン・フェイン党躍進の背景、アイルランド経済がいかにして貧困停滞から目覚しい発展を遂げたのか、どのようにしてバブルの崩壊から立ち直ったのか、和平後の北アイルランドの道筋と英国のEU離脱との関係、社会価値における急速なリベラル化、軍事的中立政策維持の背景など、現在のアイルランドを理解するのに不可欠なそうした問題に触れた現代史についての概説書を目指したと言う。評者としては、その目的は十二分に達成されたといえると評価している。