余談雑談(第149回)オランダの恩

元駐タイ大使 恩田 宗

 太平洋戦争に破れた日本は、封建的な制度や慣行を改め疲弊した経済を立て直し学術の遅れを取り戻すに当たり、旧敵国米国の寛大な援助に助けられた。その記憶が同国への好感(2022年1月の内閣調査では親しみを感じるが88%)の基底にある。幕末に、欧米諸国に伍して歩めるよう西洋文化の吸収を開始した時は古馴染みのオランダが手引をしてくれた。特に日本の近代医学と海軍はその出生から少年期までオランダ人の援助と指導で育った。しかし日本人はその恩を忘れている。

 江戸時代、西洋医術といえば蘭方でオランダ商館の医師(ケンペル、シーボルト等累計63人が在勤)に教わるか蘭語の医書で学ぶかであった。順天堂大学の創設者佐藤泰然はシーボルトの弟子である。勝海舟は、明治政府の海軍大臣の時「海軍歴史」を著し、日本海軍が「欧式に準拠して興(り)・・・武威を輝かすに到」った(台湾出兵や江華島砲撃のことか?)のはオランダが幕府を「懇切に忠告」し「精悉に建白」して呉れたお陰だと書いている。勝は同国の示唆と援助で発足した長崎海軍伝習所の第一期生で幕臣・諸藩士約150名と共に地理学・究理学・星学や航海術・造船術・砲術などを学んだ。訓練用の軍艦はオランダに発注した咸臨丸が着くまでは同国寄贈の観光丸(日本最初の蒸気船)でオランダ人教官の給与も先方持ちだった(多額な特別手当は幕府負担)。交代の教官37名の団長として咸臨丸を回送して着任したファン・カッテンディーケ中将(後に海軍大臣)は回顧録にこう書いている。日本人に科学を教え海軍建設を助けたオランダの貢献・功績は永く銘記されるべきで「その有り難味は後日更によく評価されるであろう」と。

 明治初年の岩倉使節団の公刊報告書「米欧回覧実記」は、米・英各20巻、独墺12巻、仏10巻、伊7巻、露5巻、蘭3巻である。オランダについては対日貿易を独占し「大きな利益を上げていた」が列国の中では小国だと評し日本が受けた援助には一言も触れていない。外交史料館に残っている報告書に岩倉がオランダ国王に日本は「学問術芸を貴国より資り(たすかり)」と言上したとあるだけである。維新政府はオランダには関心がなく(国費による留学は米英独仏のみ)幕府時代の同国の援助を評価し感謝する気持も失われていた。現在の高校歴史教科書(山川出版)はオランダについて「長崎ではオランダ人による海軍伝習を始めた」と記すのみである。

 敗戦後の日本は、まだ貧しかった頃から、東南アジア諸国への賠償とそれに次いでの経済協力に力を注いできたが今の彼等の関心と配慮は中国に対してより大きい。興隆する大国に気が向くのは当然である。自分が他人にしたことを自分にされても苦情は言えない。