余談雑談(第142回)友人関係

元駐タイ大使 恩田 宗

 自分の健康・能力・容貌・地位・家族・財産などを友人のそれと比べ羨望・嫉妬・安堵・優越・同情などの感情を抱くことがある。親しい友人との身の優劣を比較し喜び憂うなどということは競争社会で身に付けた習性で我ながらさもしい心根だと思う。シェイクスピアの喜劇「むだ騒ぎ」の中に「比較は腐臭を放つComparisons are odorous」という台詞が出てくるが悪臭がすると言われればその通りである。

 競争社会では味方が多い程有利であり誰もが友人を多く持ちたいと望む。毎朝メールを開くと「友達になりたい人がいます」「知り合いかも」「考えを教えて」などとの誘いが名指しで届く。SNSは人々を網状に結ぶことで利益を得ているのでの拡大に熱心である。「友達になる」「いいね」をクリックすれば未知の人とすぐ繋げてくれる。「友活はじめませんか?」と題する本も出ていてSNSを通じ意見を交換し気の合う友人を見つけるよう勧めている。この本の著者は5年で500人の友人を新たに作ったと誇っている。

 最近はそうした対面接触のない相手でも友人と認めているらしい。友人という言葉の意味が変りつつある。有斐閣の心理学辞典で「友人関係」と引くと「(更に実証的な解明が必要ではあるが)1980年代頃から青年は親密な友人関係を避け希薄で表面的な関係に終始している」とあった。友人関係は教育勅語で諭された「朋友相信じ」というような親密なものではなくなっているようである。

 身分制社会では友人は数少なく友誼に篤かった。上田秋成の「菊花の」の侍は欺かれて幽閉されてしまい親友との再会の約束を果たせなくなると自刃して霊魂となり約束通り逢いに行った。中国でも管仲と鮑叔は互いの境遇が如何に上下に変動しても生涯親しく交わった。

 近代人の芥川龍之介は全ての社交は虚偽を伴うとして友情にも不信の目を向けた(「侏儒の言葉」)。他方、武者小路実篤は小説「友情」で友情か恋かで真摯に悩む青年を描いた。しかし今の多くの人の関心は友情という優れて青年男子間の問題より家庭・職場・学校などでの人間関係一般の希薄化の問題に移っている。

 ニューヨーク・タイムズ紙に35才の気鋭の女性の弁護士兼作家が寄稿文を寄せ次のように言っている。定職を持たない非大卒の男性フレンドと互いに何の感情も抱かず好きな時セックスを楽しむだけの気楽で縛られない関係を12年続けてきている、と。その間彼女はほかのエリート男性と結婚しようともしたという。相手への敬意を欠き快楽のために利用し合うだけの関係を友人関係と言っている。米国のフレンド概念の変わり様も激しい。