余談雑談(第135回)咸臨丸と勝海舟

元駐タイ大使 恩田 宗

 二月の北太平洋は時化る。成臨丸が渡行した年は二十数年ぶりの荒れ方で要した37日の内晴れたのは3日だけだった。船員が絵にした「成臨丸難航図」を見ると船尾に日の丸を掲げた帆船が帆の破れたマストを転覆しかねないほど傾けて怒濤の中を前進している。欧米に追いつこうと苦闘した幕末・明治の日本の姿そのもので目に焼き付く。

 あの小艦(625トン) の壮挙は勝海舟の功績とされ最近の朝日も勝は「成臨丸の艦長として太平洋を横断」したと称えている。然し史実は異なる。幕府は曰本使節団が米艦ポーハタン (3865トン) で渡米する機会に曰本人の能力の内外への誇示と航海術の錬磨のため成臨丸を随行させることとし、海軍伝習所の勝の上司木村喜毅を軍艦奉行(摂津守) に任じその実行を命じた。勝は船体の修繕な ど現場作業の一切を取り仕切りこの大事業の責任者だと自負していた。彼は木村より7歳も年上だったが身分は低く(木村二千石、勝二百石、航海手当は木村の三分の一) それが不満で事毎に木村に反発した。

 出航後木村は提督、勝は艦長ということで収まったが勝は酷い船酔いで船室に寝込み艦長の役割を果し得なかった。我意強く屈折した人で癇癪を起こし当たり散らしたので船内で孤立した。木村も部屋に伏せたままだったが思慮深い温厚な教養人で船員から尊敬された。他の曰本人船員も船酔いや恐怖で 「甲板上に出て動作をなす者唯僅かに四、五人のみ」 だったらしい。成臨丸が遭難しなかったのは同乗していた米国人船員達が見かねて嵐の中昼夜を問わず帆や舵を代わって操作してくれたからである。木村は出航前に①米海車のベテラン艦長とその部下10人の乗船(日本人船員は大反対) ②通訳者 中浜半次郎の同行(幕閣は反対) ③船員への心付けや現地での交際に使う私金(3500両) 調達のための私財売却と借り入れ、などを措置した。初春の太平洋横断は幕府海軍の能力に余る無謀な試みだった。何とか渡れたのは木村の周到な手配のたまものだと言える。咸臨丸は彼の家紋を日本海軍長官旗として船首に掲げ(勝は反対)サンフランシスコに入港した。

 英傑勝海舟も成臨丸では痛恨の失態を演じた。維新政府の海軍卿だった時編纂した「海軍歴史」 には威臨丸の業績について記述が少ないという。然し晩年には放言癖が高じ自伝氷川清話で「おれが成臨丸に乗って外国人の手を少しも借らないでアメリカに行ったのは日本の軍艦が外国へ航海した初めだ」と自慢している。木村は幕府海車の育成に尽した人だが維新後は隠棲しその功を語ることはなかった。功名争ぃは最後に声を大にした者が勝。

(注)このホームページに掲載された「余談雑談」の最初の100回分は、『大使館の庭』と題する一冊の書籍(2022年4月発行、ロギカ書房)にまとめてあります。