余談雑談(第117回)年号

元駐タイ大使 恩田 宗

 昭和54年、皇位継承の際は一世一元制で新元号を建てると法律で定められた。その時の世論調査では76%の人が「どちらかといえば」を含め年号はあった方がいいと答えている。手紙や会話で日付に年号を使っているとしたのは88%だった。昔からの伝統であり時代の区切りがついて便利でもあるというのである。確かに天明の大飢饉とか安政の五条約とか日本史を論じる時役に立つ。然し歴史的年数の通算には不便である。昭和54年と言われてもそれが何年前なのかがすぐに出てこない。それに日本の歴史を世界の歴史と比較して考えようとしても簡単に西暦に合せられない。

 日本の年号制は大和朝廷が統治体制確立のため大改革を断行した年(乙(イツ)已(シ)・645年)を大化元年と命名したのが始めである。この中国を見習った制度は直ぐには定着せず人々は慣れていた十干十二支(干支(えと))を使い続けた。年号が普及したのは大宝元年(701年)の律令で「公文に年を記入すべくんば皆年号を用いよ」と定めてからだという。

 それでも干支は使い続けられた。太安万侶(おおのやすまろ)の墓誌には癸(キ)亥(ガイ)年(723年)七月六日卒とあり、古今集の真名序には延喜五年歳次乙(イツ)丑(チュウ)(905年)とある。吾妻鏡は建久三年壬子(ジンシ)(1192年)の章に頼朝の征夷大将軍就任を記載し、世阿弥の花伝書の清書者は応永七年庚(コウ)辰(シン)(1400年)と記し、徳川実紀は元和元年乙(イツ)卯(ボウ)(1615年)五月八日に秀頼母子が自刃し天下一統の大慶と書き、向井去来による奥の細道の筆写本の奥書には元禄八乙(イツ)亥(ガイ)年(1695年)とある。 

 干支が使い続けられたのは年号が不規則・頻繁に変わったからである。新帝即位時の代始改元の他、吉祥出現の時(祥瑞改元)、天変地異の時(災異改元)、干支上不吉な年(革年改元)に改元している。今までの1300年の間に平均5年に1回(短い時は1年に3回)変わっている。長い時間軸で考えるには60年周期の規則正しい干支に頼らざるを得なかったのである。一世一元とすればそれ程頻繁に改元される訳ではないが一年の途中でも変わる。東京の多くの医療機関は混乱を警戒し日付は西暦で統一している。

 今後、外国からの人材の受け入れが本格化する。日本は国家創生期の5~7世紀にも多数の外国人を受け入れた。彼等は集団で帰化し言語や機織・土木・製鉄などの技能をもって社会発展に貢献した。これからの日本も何十年にわたり外国人の働きに期待せざるをえないが彼等との円滑な意思疎通には西暦を使わざるを得ない。度量衡が尺貫法からメートル法に変わったように便利な西暦の活用は予想以上に進むと思う。

 年号は「明治」女の様にその時代の特徴や性格を示すラベルにもなる。「昭和一ケタ」男なのねと言われ戦争や物不足にも耐え高度成長を担った頼りになる男のことかと思ったら家事一つできない旧弊な男のことだという。年号ラベルの理解の仕方も人により違う。

(注)このホームページに掲載された「余談雑談」の最初の100回分は、『大使館の庭』と題する一冊の書籍(2022年4月発行、ロギカ書房)にまとめてあります。