井上勇一著『満州事変の視角』
(東京図書出版 2020年)

加来至誠(元駐ホンジュラス大使)

 在カナダ大使館で御巫、菊地両大使の薫陶を共にうけた畏友井上勇一氏がこのたび新著「満州事変の視角」を上梓された。快著であり、まことに稀有な書である。

 この書は、日露戦争から満州事変にいたる満州の情勢を、同地域の中心的在外公館であった奉天総領事館の館長を務めた8人の総領事(吉田茂を含む)及び1人の総領事代理の立場から俯瞰的かつ精密に捉えており、複雑な満州情勢への理解を格段に深めることを可能とするものである。

 当時の日本にとって、満州経営とはいかなるものであったのか(辛亥革命後の不安定な中国・満州地域の情勢の中で、満鉄を中心とする権益確保・増進、朝鮮人を含む在留邦人保護、張作霖等満州・中国側要人対応、在外公館の機能強化等)、問題解決・対応のために当時の総領事は、そして外務大臣、租借地を統治する関東都督府(後に政庁)、関東軍等はどのように考え、どのように行動したのか、これらの点が活写されている。日本が昭和の大戦に突入していく道を開いたかに見える満州事変がなぜ起こったのか、そこに至る過程・背景を深く理解するために必読の書である。

 この書において、著者は、当時の事態の推移を、現地総領事の目を通して生き生きと描いている。これは、外交史研究者の立場で外務省に入り、外交史料館勤務を経て、在カナダ大使館はじめ多くの在外公館勤務を経験し、外交実践者としての長年の体験を重ねる中で育まれた慧眼があってこそ可能となったものと思われる。張作霖爆殺事件の直後、錦州在留邦人の集団避難の際、それに遅れた朝鮮人一家保護のために担当領事が領事警察官を錦州まで派遣したことについて、本省幹部が「ここまでする必要ありや」と公電の欄外に記入したことを著者は特記している。在外勤務を重ねた外交史専門家であるからこその気づきであるように思われる。

 戦後の国際秩序が次なる段階へと大きく変容し始めている感を覚える昨今、この書が描く20数年間、当時の在奉天総領事は、なすべき務めへの強い思いを抱きつつも、諸々の条件・制約の下、未来は不確定であり、いかに情勢判断すべきか、迷う場面も少なくなかったことと思われる。しかし、それぞれの局面において、各総領事は自らが最善と信じる行動をとったように思われる。そしてその後、いかなる現実が生起したのかを、約90余年を経て私たちは知ることができる。井上勇一氏の貴重な努力の賜物である。

 未来を見通すことが容易でない場面で最善を尽くす努力を重ねている現在の外交実践者諸氏にとっても、その努力をしっかりと看取ってくれ、歴史の中に位置づけてくれる史家がいるということ。それは、何と大きな励ましになることだろう。外交実践体験者たる外交史専門家の働きの重要さにあらためて思い馳せ、井上勇一氏の尽力を讃えたい。