中東回想40年ー「究極の不安定要因」の考察


前駐レバノン大使 大塚 聖一

1.アラブ・イスラエル紛争こそ対立軸

中東が安定しない究極の要因は何か。紛争やテロの現場の間近で勤務する機会を通じてこの疑問を反芻してきた。70年代にシリア、レバノンでアラビア語研修をしていた頃、不安定をもたらす対立軸はアラブ・イスラエル間の緊張であると肌で感じた。アラブ側は67年戦争で完全敗北、73年戦争では限定的勝利を収めるが、イスラエルとの軍事的格差を思い知らされることとなった。60年代にイエメン出兵で経済的な疲弊を被っていたエジプトは、67年戦争での決定的な敗北に直面するに及んで、ナセルの社会主義、汎アラブ主義(アラブ統一を目指す民族主義)に対する情熱を失いつつあった。サダト大統領は密かに戦略的な大転換を模索していた。78年には米国仲介によるイスラエルとの和平、即ちキャンプ・デービッド合意を締結し、米国などの支援を受けて国内経済の活性化を図った。これに対しゴラン高原を占領されたシリアは収まらなかった。アサド大統領は戦時体制を常態化して権力の更なる集中を図った。

77年夏ダマスカス、現地ラジオ放送はシオニストの犯罪行為を喧伝しハーフィズ・アサド指導部への忠誠を国民に訴えていた。我々外国人学生にもバアス党青年部主催のピオネール・キャンプやイスラエル空爆を受けたクネイトラ市視察の機会が与えられた。シリア・バアス党は社会主義経済の名の下で国家による経済統制を行い、汎アラブ主義、反帝国主義・反イスラエル主義を綱領の中心に据えていた。イスラム原理主義を基盤に反体制活動を行うモスリム同胞団は徹底的に弾圧された。ダマスカスの市民生活は質素で極端な情報コントロール下にあり、口コミが唯一の情報源という有様であった。キリスト教徒の家庭に下宿していた我々の耳にも、日用品の慢性的不足と軍の動員状況についての情報は入ってきた。欧米の過剰な物質文明万能社会には批判的であったが、伝統的保守的なアラブ・イスラムの社会体質も後進的と見做された。一方でソ連圏の科学技術や教育には尊敬の目が向けられていた。

イスラエルとの対峙はアサド体制を固める上で必要悪であったが、アラブ諸国にとっては行き場を失ったパレスチナ武装勢力の存在は厄介者でもあった。70年に「黒い九月事件」を契機にヨルダンを追われたPLOはレバノンに拠点を構えた。レバノンには既に数万人のパレスチナ難民が居住しており、武装勢力がこれに合流したことで微妙な宗派バランスが崩れ、政情は不安定化し75年には宗派間の対立抗争が顕在化した。イスラム教徒人口の急激な増大はキリスト教徒の脅威となり、キリスト教マロン派の民兵組織「カターエブ」はイスラエル、シリアの支援も受けて、PLOおよびこれを擁護する社会主義勢力、汎アラブ主義勢力などのイスラム教徒との戦いに臨んだ。パレスチナ、シリアとイスラエル、イランを巻き込んだレバノンの政治勢力間の血みどろの抗争は、その後15年間に亘って続く。

77年11月、レバノン山脈中腹でベイルートを眼下に見下ろして生活していた私は象徴的な光景を目撃した。サダト大統領のエルサレム訪問に対する熾烈を極めた抗議行動である。幹線道路は封鎖されタイヤを燃やした黒煙が地中海を覆い、昼間でもベイルート市内は闇夜のように暗くなった。PLO民兵はランドローバーの荷台から傍若無人に威嚇発砲を行った。レバノン南部が「ファタハランド」と化すに及んで、78年6月にはイスラエル軍は南部レバノンに侵攻。新たな中東戦争の勃発を予感させた。

70年代の東アラブにおける支配的なイデオロギーは未だイスラム主義ではなく、汎アラブ主義や社会主義であった。サウジアラビアが各国のイスラム原理主義勢力支援に本格的に乗り出すのは80年代以降のことである。しかし、この時代エジプトではサイイド・クトゥブに感化された過激な思想をもつグループの取締まりは強化され、穏健なイスラム主義も一般国民の間で浸透していった。

イスラエルのレバノン侵攻を受けPLOはチュニスへの撤退を余儀なくされ、以後組織的な抵抗運動は萎んでいった。一部過激分子はテロに走り、アラファトら執行部は宣伝戦を強化していくほかなかった。自国優先の「国家民族主義」の流れが加速してアラブ諸国間の不協和音は拡大し、「アラブの大義」はイスラエルの圧倒的な軍事力の下で現実離れした理念となって色褪せていった。その後パレスチナ抵抗運動は87年に至って被占領地住民の投石による「インティファーダ」という形で新たな展開を迎える。闘争の主導権を民衆に奪われたかのようなPLO執行部はモスリム同胞団運動から派生した「ハマス」との内紛を深めていく。パレスチナ人は最早自力での解放を目指さなければならない立場に追い込まれた。PLOは湾岸戦争でイラク支持を鮮明にしたこともあって91年の米国主導による「マドリッド会議」では排除された。93年のオスロ合意においてイスラエル政府とパレスチナ暫定自治政府の直接交渉が開始されるに及んで、被占領地住民を代表する「暫定政府」が交渉当事者となる枠組みが確立した。それに伴ってアラブ諸国のパレスチナ問題に対する意識は大きく後退した。

2.イラン革命の衝撃

79年2月に起きたイラン革命はその後の中東情勢を一層複雑化する引き金となった。ポスト・シャーを巡る凄まじい権力闘争は、イスラムを政治イデオロギーとする指導原理を挫折に追い込むかと思われた。しかし80年に始まった対イラク戦の継続で窮地に追い込まれたテヘラン指導部は、革命の求心力をホメイニ師に集中させることに成功した。革命は「聖職者による統治」を絶対的な指導原理とするとともに、統治機構に公選制を採用して民意を反映させるというユニークな政治システムを創生させた。この「実験」はその後イランの現実として定着していく。ホメイニ師は、イスラムの指導原理はすべてのムスリムに適用されるべきとして、アラブ世界への革命の輸出を命じた。アラブのシーア派コミュニティの間にはこれに反応する気配が見られた。

イラクではサダム・フセイン政権が汎アラブ主義に依拠するバアス党を基盤に国の求心力を維持していたが、イラン革命はイラク・シーア派の分離を招きかねないとの危機感をもたらした。80年9月11日にハンマーディ外相はバグダッドの外交団を集めて、シャーの圧力の下で不当な国境線を画定したアルジェ協定の破棄を宣言した。私もその場に居合わせた。当時バグダッドの観測筋は、イラクの先制攻撃の目的は混乱するイランを叩いて勝利を収めてアラブの威信を取り戻し、以ってサダム自らがアラブの盟主となることと見ていた。

イラクはフランスの協力の下に核開発に着手しており、これがイスラエルのレッドラインを超えた、と後日ベギン首相は語っている。81年6月にバグダッド郊外にある完成間近の原子炉はイスラエル空軍機によって爆撃された。イラク当局はベギンの発表まで誰が攻撃したか分からない有様であった。私の記憶ではバグダッド市内の警戒警報は攻撃が完了した後になって鳴り響いた。米国は革命イラン封じ込めの観点からイラクを支援していたため、国際的非難はイスラエル一国に集中した。

90年8月、イラク軍はクウェートに侵攻、サダム政権の侵略性は看過できない水準に達した。この時期ソ連は中東での影響力を急速に後退させており、米国はより自由に振る舞うことが出来るようになっていた。米国はイスラエル、エジプト、ヨルダン、GCC諸国などを親米友好国と位置づけ、イスラエルの安全保障とエネルギーの安定供給を戦略目標とする外交に集中出来た。米国は同盟国の協力を得て数週間でバグダッドを屈服させ、圧倒的な軍事力を世界に誇示した。

「革命の輸出」を図るイランは、イスラエルの存在そのものがイスラム世界の脅威であるとしてイスラムの盟主であるかのような言動を繰り返した。アラブ諸国指導者のイラン警戒感は増幅していたが、イランの反米反イスラエル・キャンペーンはアラブ世界にも浸透していった。83年にはイラン革命防衛隊はレバノンのシーア派組織イスラミック・アマル(後のヒズブッラー)に軍事訓練を施し、米国海兵隊に特攻するなどイスラムのテロ活動を指揮した。ヒズブッラーはレバノン国内ではイスラエル抵抗運動としての役割を強調していたが、対米テロによってイランの手先としての役目を果たしていた。

3.イスラム主義への傾倒

80年代以降アラブ諸国はオイルマネーの還流、経済のグローバル化を経て経済発展を享受するが、エジプト国民の間では所得格差拡大に起因する不安、不満がイスラム的価値、伝統文化への回帰を助長していた。79年にエジプトを去り、90年に再びカイロに戻った私には特にそのような変化が感じられた。しかしイスラエルとの和平、米国の政治的経済的支援によって、エジプトはアラブ世界における孤立から脱して再びアラブの盟主の地位を取り戻した。

湾岸戦争に先立つ90年3月にはアラブ連盟本部もチュニジアから戻ってきた。エジプト政府はメギード外相をアラブ連盟事務総長に、ブトロス・ガーリ外務担当国務相を国連事務総長に送り込み、得意の絶頂にあった。メギードの後任に毎日13時間執務するというアムル・ムーサ国連大使が外相に就任。同外相の秘蔵っ子ナビール・ファハミ外相秘書室長は私に、「エジプトがアラブに戻ったのではない。アラブの連中がカイロに戻ってきたのだ」と嘯いた。

エジプト外務省が「外交の春」を謳歌している間に、人口増大と産業競争力に伸び悩むエジプトの社会的矛盾は深刻化していった。親欧米路線を堅持するムバラク独裁政権とは裏腹に、市民の間ではキリスト教世界とユダヤ勢力が結託してイスラム世界への侵略を目論んでいるとする陰謀史観が強まっていたのである。これら勢力に迎合的なムバラクはブッシュと並んでコーランの偽預言者になぞらえて悪魔化されていた。

スンニ派の一部活動家は、ジハード主義(非イスラム世界に対する攻撃姿勢)やサラフィズム(イスラム復古主義)を現実社会に適用すべきとの主張を展開するようになっていた。これにはイラン革命の思想的影響やアフガニスタンでソ連と戦うために米国の軍事支援を受けたイスラム戦士(ムジャヒデーン)の実践経験による影響も大きい。

アラブ人は概して世界を多元的多層的に説明する教義や因果関係を曖昧にする議論を遠ざけ、一元論的な価値観や白黒をはっきりさせる是々非々論を好む。サウジ知識人からアラブ社会に深まる矛盾や停滞から脱するための、「ヌール(希望の光)」について私は度々耳にした。「正統カリフ時代を範としたイスラムの理想に現実社会を少しでも近づけるために行動を起こすべき。その課題はイスラム世界で正しい施政が行われていないために道徳的退廃が進行しており、これを反省、是正させることである。今ひとつの課題は非イスラム世界のイスラム的価値観を破壊しようとする試みを挫くことである。これがジハードでありイスラム教徒の果たすべき義務である」と、サウジのワッハーブ主義の識者は説く。

また、アズハル学院のある穏健な高位法学者は私に語った。「世界のイスラム教徒人口は非アラブ人で特に増大しているが、アラブ世界ではエジプト人を除くと脱宗教化、世俗化の流れが進行している。イスラムが現代社会の諸問題に解決策を見出せないため非実践的な宗教と化しているのは、実は信徒自身の問題なのである。一部のイスラム主義者は、欧米の非ムスリム社会がイスラムに対する偏見、差別、攻撃性を強めることに反発して、これに対する行動こそが真のジハード主義との短絡的な主張を行っている。オサマ・ビン・ラーディン率いるアル・カーイダはそのような誤りに陥っている」。

9.11同時多発テロ事件の際に私がリヤドで観察したことは、サウジ人の反欧米感情が爆発したことであった。歴代大使と懇意にしていた、軍人出身の元中央銀行総裁は、米国に留学していた子弟が嫌がらせを受けたので帰国させ、サウジ人が「魔女狩り」の対象となったことに憤慨していた。彼は欧米の外交官を相手に怒りを隠さなかった。当時流行したハリウッド映画「パールハーバー」冒頭の日本海軍の米艦爆撃映像を見て、感涙するサウジ人が多数目撃された。そして体制派サウジ人のフラストレーションは、「聖地を抱えるサウジが米軍によって守られている」という矛盾に向けられるようになった。

一方で米国は親米国サウジアラビアを追いつめることはしなかった。アブダッラー皇太子の、「悪いのはイスラムを語るテロリストであって、イスラム教徒ではない」との発言を受けて、米国は「アル・カーイダは米・サウジ共通の敵、これを匿っているアフガニスタンのタリバン勢力を追放することが急務」として米国人の怒りの矛先をアフガニスタンに向けさせた。ブッシュ大統領には、国内のキリスト教保守勢力に引き摺られて「イスラム勢力を退治するために十字軍を送る」といった不規則発言もあった。しかし、直ぐにこれを訂正して「中東諸国の民主化」を理念に掲げ、一部の権威主義体制が大量破壊兵器を用いてテロリストを利用しているとの論法に切り替えた。危うくキリスト教世界対イスラム世界の対立へとエスカレートするところであった。

2001年のアフガニスタン戦争、2003年のイラク戦争の意義は「侵略的とならない民主政権」を樹立することに求められた。しかし両国の政権は恒常的に不安定化し、イランの外交上のフリーハンドを高めスンニ派の不安を募らせる結果をもたらしたことは、以後の歴史が物語っている。

4.「アラブの春」の挫折と混乱

2010年12月にチュニジアで始まった、政権に対する一般民衆による抗議デモは忽ちアラブ各国に広まる一連の騒乱事件へと発展した。「アラブの春」と言われる動きである。当初は政治システムへの民意の反映を為政者に求める、という目標が示されていたが、次第に反体制派の政権転覆への動きとなって暴力の応酬となった。リーマン・ショック後の世界経済の収縮が足許の経済情勢を悪化させたことが直接の引き金となったことも見逃せない。

2009年11月にドバイに私が駐在していた時に「ドバイ・ショック」は起きた。これは投資資金が過剰に不動産に流れていた中で実体経済の収縮が起き、政府系企業にデフォルトが生じたというものである。アラブ諸国は軒並み経済規模を拡大させたものの、市場メカニズムが十分に働かず国民経済の強靭性を欠く傾向があった。公的部門の比率が高いアラブ諸国で所得分配を誤ると、その批判の矛先は当然為政者に向けられる。統治機構に民意を導入するシステムが不十分で独裁や腐敗を招きやすい点においても脆弱であった。ドバイ首長国は少数のUAE人が多数の外国人を指導監督しているという特殊な社会構造になっているので、経済の失敗が政治的破綻をもたらすことはなかったが、アラブ経済の脆弱性は露呈したと見られる。

アラブの伝統社会にはマジュリス(協議)やシューラ(諮問)、イスラムの救済(アンサール)などの制度があり、しかも部族、地域社会には互助システムもあった。これらが形骸化してセイフティネットが希薄となる一方、個人を構成単位とした市民社会に相応しい新たなシステムやサービス(保険や医療、教育制度)が完備出来ないでいる。故に既得権益集団に暴力をもって立ち向かうしかないという局面が現れる。アラブ社会には、その構成単位が家族、部族血縁、地域、その上に国家、イスラム世界というように重層的であるとの観念が根強い。国家が過剰にその構成集団に干渉するとその上部概念に基づいて外国勢力を使ってでも国家の行動を牽制することが正当化される。中東のあらゆる内戦、国際紛争には、外国の干渉・介入が引き起こされて事態が複雑化するメカニズムが内在している。

アラブには独立以来「国民国家が存在しないことが不安定の根源」を説く識者もいる。これは極論としてもアラブ諸国の国家統治能力が本質的に弱いことは事実である。故に強力な軍事力を背景とした政権が常に登場する。サダム・フセインの統治下に居た時に、日本大使館に査証申請に来るイラク人には、国籍欄にクルド人と名乗ったり、バスリー、モスリー、タクリーティーなど出身地域名を記述するケースが散見された。モザイク国家であるがゆえにサダムは強権政治で国民をまとめようとした。しかしサダム政権崩壊後、バグダッドの求心力が再び弱まったことは、「国民国家」の形成が如何に難しいかを物語る。

5.セクト主義の真実

「国民国家」形成に困難を極めているのはイラクのみならずレバノンやリビアも同様である。レバノンの場合にはキリスト教徒、スンニ派、シーア派の3つの宗派の下でさらに細分化されたセクトが存在する。キリスト教徒ではマロン派などのカトリック教徒とギリシャ正教徒の二大集団があるが、民族コミュニティであるアルメニア人は宗教的にはカトリック、正教会、プロテスタントに分かれている。シーア派も12イマーム派、イスマイル派、ドルーズ、アラウィなどの分派があるが、異なるセクト間の婚姻による折衷的なコミュニティも存在する。レバノンの本質は伝統的な宗派・セクト主義に基づくユニークなパワーシェアリング構造となっているが、実際には市民社会が形成されているとは言えず、前近代的な封建主義に近い政治システムが残存している。

リビア、シリアも、潜在的には有力部族が支配している地域を中央の権威主義的な行政機構がこれにかぶさって出来た集合体というのが実体である。中央の統治力が弱まると従前の地域性、部族性の色濃いモザイク社会が現れる。「アラブの春」運動を通じて、権威主義体制が後退した後にバラバラなコミュニティが姿をあらわし、「国民国家」が成熟していない様子が露呈された。

「イスラム国(IS)」がシリア内戦、イラクの政治的混乱に乗じて登場した背景には「国民国家」が未成熟であることに深く関係している。しかもイスラム的価値観は国家を相対化する力を持っている。IS構成員がユニバーサルとなった理由がここにある。

イランの宗教的普遍主義に基づくアラブへの干渉は、アラブの混乱、不安定化に拍車を掛けている。イスラエルは「シーア派の湖」の影響力拡大を喧伝して東アラブにおけるスンニ派の不安を煽った。2011年以降シリア内戦が始まり、アサド政権、イラン革命防衛隊、ヒズブッラーとトルコやサウジに支援されたスンニ派反政府勢力との軍事衝突が活発化してから、むき出しのセクト対立は現実のものとなった。加えて2015年以降、サナアのアリ・サーレハの軍隊にホーシー派が合流し、ハーディ副大統領(当時)を支援するサウジ、UAEなどとの衝突が本格化してから、アラブ世論はイラン介入に対する非難を強めていった。覇権を求める国家が宗派・セクト主義を利用した結果である。

米国はイランとサウジアラビアの対立を中東の覇権主義を巡る抗争と捉えつつも、大量破壊兵器の開発をやめないイランの攻撃性を中東不安定化の根源的な問題と位置づけている。米国の対中東政策は場当たり的と言われるが、大量破壊兵器を除去し、覇権主義を容認せず勢力均衡をベースとして相対的安定を維持するという点では極めて一貫している。

6.不安定の究極にあるものは何か

イスラム世界では血統が尊ばれる歴史が厳然とあり、王制・首長制のもつカリスマ性は支持を得られやすい。預言者の血筋をイスラムの指導者に仰ぐことの正統性が歴史的に認められてきたからであろう。これに対し多民族、多宗教、部族主義などを抱える、構成が単一でない共和制政権の場合には、指導者は常に自己の権力行使の正統性を国民に示さなければならない。国家より上部に置かれている価値、例えばイスラム的価値などとの適合性を示さねばならないからである。共和制では統治イデオロギーは斯様に死活的に重要である。政権交替が体制の枠内でスムーズに行われない権威主義体制に国家が陥った場合には、暴力手段や大衆の抗議行動による排除という結果がもたらされる。

パレスチナ問題が今後とも中東の不安定要因となり続けるのか。この問題は半世紀前と比べると風化しているとは言えないが、かなり変質してしまった。70年の歳月を経て問題の所在がローカライズされてきたと言える。西岸パレスチナのイスラエル経済への従属、パレスチナ指導部の分裂と腐敗による民心掌握の失敗、入植地に象徴されるイスラエルの既成事実など。そもそもディアスポラのパレスチナ人の直面する困難を軽減するためには、居住国が差別をなくし庇護を与えることが現実的である。パレスチナへの帰還の権利を認めても、それは観念的なもので救済策とはならない。イスラエルとパレスチナが対等な条件で「二国家解決」を図ることは最早現実が許さないであろう。2019年8月に久々に西岸を訪れた私には豊かになった人々の生活が目についた。本年1月のトランプ提案は、豊かになった(しかし格差は拡大した)現状に基づくべきで観念だけで67年にタイム・トリップしても意味はない、という恐ろしいリアリズムを突きつけたように私には思える。しかしアラブ人の是々非々的、因果応報的なメンタリティを考えると、トランプ提案を叩き台として建設的な議論を積み重ねていくというアプローチは採られないであろう。

人口の増大、水資源や農業資源が枯渇しつつある生態系の危機、紛争による難民の生活と若年層の教育機会の喪失と彼らの帰還問題、そして若者の就業に十分でない産業構造の脆さなど、アラブ諸国には長期的課題が横たわっている。現在のアラブ社会がグルーバリズムによって受けている恩恵を確保しつつ、国際正義や秩序とも整合的な諸問題の救済策はないものかと思う。

私見では個人、社会、国家の将来が安定するという展望が開けない限り、中東の不安定は続くと思う。何が不安定要因となっているかというよりも、将来展望が開けない不安が現在の不安定を引き起こしていると考える。根源的には21世紀の現代社会に調和的なイスラム国家はかくあるべしとの提示が求められるのではないか。