ジョージ・オーウェルとシュテファン・ツヴァイク


元駐ハンガリー大使 松本和朗

 読書の森を散策して出会った二人の作家について書いてみた。断片的感想にすぎなないが、以下は、二人の作品を読んだ個人的な思い出を少し整理したものである。

1 .ジョージ・オーウェル

(1)「ビルマの日日」(音羽書房 1980年)Burmese Days 1935
 この本は、インドで警察官をしていた体験をもとに書かれたオーウェルの最初の小説であり、ビルマ人の策謀に嵌められた英国人材木商が若い英国人女性に結婚を断られ、愛犬とともに自殺するという筋書きである。当初、出版の引き受け手がなかなか見つからなかった。
 最近、この本を何十年ぶりかで再読した。同時に、原書(A Penguin Book1985年版)も書棚の奥から探し出した。日本語訳を読んで感激し、英語でも読もうとこの原書を購入したが、最初のページから知らない単語ばかりだったので、そこに日本語の翻訳を鉛筆で書き入れていった。そこまでの記憶はあるが、どこまで書き込みを続けたのか、記憶は残っていない。恐る恐る最後のページを見るとちゃんと鉛筆の書き込みが残っていた。当時それだけオーウェルに夢中になっていたということであろう。

(2)「象を撃つ」Shooting an Elephant 1936年
 「鯨の腹のなかでとその他のエッセイ」Inside the Whale and Other Stories (A Penguin Book 1988年版)の中では、この「象を撃つ」が記憶に残っている。物語は英領下ビルマのモールメインで、イギリス人の警察官が一頭の象を射殺する顛末が一人称で語られている。自分がこのエッセイを読めたのは、英語が読みやすかったのと、舞台がビルマの話であったからではないかと思っている(ほかのエッセイは英語が難しく、歯が立たなかった)。

(3)「カタロニア賛歌」Homage to Catalonia 1938年
 オーウェルは、アイリーン・オショーネルとの結婚半年後、一緒にスペインの民兵組織に義勇兵として参加した。敵兵に喉を撃たれるが、奇跡的に命を取り留める。また、内部抗争でスターリン派の粛清を受ける前にスペインからの脱出に成功している。その時のルポルタージュが「カタロニア賛歌」である。ソ連がヒトラーと戦っている時だけに、出版社を見つけるのに苦労した。なお、アイリーンは1945年3月、子宮摘出手術の麻酔で予期せず39歳の若さで亡くなっている。

(4)「動物農場」Animal Farm 1945年
 本棚の片隅に残っていた原書(ペリカン社発行の1987年版)はバンコックで購入している。読みやすい英語であったが、文字通りおとぎ話と理解し、そこに込められたスターリン批判を読み取っていなかった。たまたま見つけた「一杯のおいしい紅茶」(小野寺健編訳 中公文庫 2020年)の最後のところに、オーウェルが書いた「動物農場」ウクライナ版の序文が収録されており、スペイン内戦後、スターリン神話を批判する小説を書こうとしていたことが記されている(「一杯のおいしい紅茶」のエッセイはどこかで読んだ記憶はあるものの、何時頃どの本で読んだのか思い出せない)。

(5)「なぜ書くか」Why I Write 1946年
 小野寺健編訳の「一杯のおいしい紅茶」の文庫本に「なぜ書くか」のエッセイがあるのを見つけたが、そこでは、政治的な作家になるオーウェルの決意が次のように述べられている。
 「スペイン戦争をはじめ1936年から7年にかけてのいろいろな事件によって局面が決定的になると、以後私の立場は揺らがなかった。…わたしの最大の目標は政治的な文章を芸術に高めることであった。(240頁)」、「はじめて政治的な目標と芸術的な目標の融合に挑戦したのは『動物農場』の時だった。以来7年間小説を書いていないが、そう遠くない将来にもう一冊書きたいと思っている。(242頁)」

(6)「1984年」Nineteen Eighty-Four 1949年
 この本は未読であるが、オーウェルを追っかけているうちに大筋は知るようになった。この本の刊行後、1944年9月、オーウェルはロンドンの病院に結核で入院、そこでソニア・ブラウネル(元秘書)と結婚、翌年はじめ大量に喀血し死亡する(46歳)。

(参考)川端康夫「ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への賛歌」(岩波新書 2020年)

2.シュテファン・ツヴァイク

 ツヴァイクはウイーンの裕福なユダヤ系ドイツ人家庭に生まれ、早くから文才を発揮し、第一次大戦後はオーストリアのザルツブルクに本拠を構え、1920年代には世界的なベストセラー作家となる。旅と社交を愛し、コスモポリタンとして平和運動への関心を持ち続ける。どの党派にも属さず、政治的活動への関与を慎重に避けたが、ナチスドイツにより武器隠匿の疑いで家宅捜査を受けたことから1934年イギリスに亡命した。
 1912年、作家のフリーデリケ・マリア・フォン・ヴィンターニッチ(二人の娘の母親)と知り合い、一緒に生活する(カトリックのフリーデリケと正式に結婚できたのは1920年)。ロンドン亡命中、ツヴァイクは秘書のロッテ・アルトマンと一緒になる。1936年にフリーデリケと離婚するが、二人は最後まで友人関係にあった。1939年、ツヴァイク夫妻はブラジルに移住し、そこで自死を選択する。

(1)「永遠の兄の目」Die Augen des ewigen Bruders 1922年
 後に外相となるヴァルター・ラーテナウより、英国を理解するには本国だけでは駄目で、インドを知る必要があるとの助言を受けて、ツヴァイクは1908年から1909年にかけてインドを旅行する(スリランカ、マドラス、カルカッタ、ラングーン)。彼はブラジルなどには何度も訪問しているが、インド訪問はこの一回限りである。
 このインド体験をもとに書いた作品が、この聖人伝である。物語は、忠臣ヴィラータが王の謀反者を殺害するが、誤って実兄をも殺してしまう。そこで、王に軍務を解いてもらい、裁判官になる。しかし、厳刑を言い渡した男から、自分の知らないことをどうして裁くことができるのかといわれ、自分の殺した兄の目を感じ、その男の身代わりになって鞭打ち刑を受け、地下の奥の牢に閉じ込められる。30日たって、王が気づき、ヴィラータを救い出し、王の顧問になってほしいと頼むが、ヴィラータは人を裁くことは罪を犯すことになるとして断り、一切の職務につかず、自宅で過ごす。しかし、家の奴隷を虐待する息子たちを裁き、禁を破ってしまう。そこで、家屋敷を息子たちに譲り、人の住まない森に一人で生活する。6年目にまた自分を呪う女に出会い、3人の子供を失ったその女の目に、兄の目を重ねて見る。最後は、王に懇願し、王の飼い犬の世話係になって一生を終えるといった筋書きである。
 全くの偶然であるが、このドイツ語教本を大学時代のドイツ語の授業で使っていた。この教本を読み直したのは最初のドイツ勤務を終えてからだったと思うが、初歩的なドイツ語の知識でこんなテキストを使っていたのかと感心した。このテキストは、いつの間にか表紙がなくなり、題名も忘れてしまっていた。わずかに「あとがき」に「1961年春、編者」とあるだけで、いまだテキストの編者、出版社が分からないままである。

(2)「女の生涯の24時間」(Vierundzwanzig Stunden aus dem Leben einer Frau)1927年
 ツヴァイクの枠物語(Rahmenerzählung)には親交のあったジグムント・フロイトの精神分析の影響を受けているといわれている。物語は、フランスの休暇地で、英国の貴婦人(C夫人)が聞き手の「私」に次のような告白をする形式をとっている。
 「モンテカルロのカジノで大負けしたポーランドの青年が絶望して死ぬのではないかと思い、助けようとしてホテルに同行し一夜の関係を持ってしまう。男に二度と賭け事に手を出さないと誓わせ、帰国の旅費を与え、自分も駆け落ちしようとまで考えるが、その男は帰国せずカジノに舞い戻る。それを詰難すると、逆に人前で罵倒され、その場から逃げだすしかなく、必死の思いでロンドンの息子のところに戻った。」

(3)「チェス奇譚」あるいは「チェスの話」Schachnovelle 1942年
 この小説がツヴァイクの最後の作品となる。物語では、ニューヨークからブエノスアイレスへ向かう航海中で、チェスの名人ミルコ・チェントヴィッチとオーストリアの名家出身のB博士が対局する。対局前にB博士は聞き手の「私」に次のように語る。
 「ゲシュタポの精神的拷問から身を守るため、偶然入手したチェス名局棋譜集に没頭することで精神錯乱に陥らないようにした。しかし、チェスに入れこみすぎ、一方の私がもう一方の私のチェスをせかすというチェス中毒症状になってしまい、医者からはチェスを禁じられている。名人との対局は勘弁してほしいところなので、あまり期待しないでほしい。」
 (注)ツヴァイクの短・中編集「Stefan Zweig Novellen」( Manesse Bibiliotek 2009)で、上記(2)と(3)を読む。

(4)シュテファン・ツヴァイクの遺言(declaração)
 1942年2月半ば、リオのカーニバル見物に出かけた最中、ツヴァイクは、日本軍によるシンガポール陥落とドイツ軍のアフリカ攻勢の報に接し、抑鬱状態となり、重い喘息を患っていたロッテとともに2月22日夜、睡眠薬による自死を遂げる(ツヴァイクは61歳)。ポルトガル語で「宣言」と書かれた彼の遺書には次の通り書かれている。

 「自由な意志と明晰な精神をもって人生に別れを告げます。…私にとって精神的な仕事が常にもっとも純粋な悦びであり、個人の自由がこの世における至宝でありました。友人たちに挨拶を。彼らが長い夜の果てになお燭光を目にすることができますように。気の短すぎる私はお先にまいります。」
 
 なお、ツヴァイクの死後2年後に出版された「昨日の世界」(1944年)は、ツヴァイクが異郷で何のメモもなく記憶を頼りに書いたもので、実質的な遺書ともいわれている。

 (参考)「シュテファン・ツヴァイクとともにインドへ」「Mit Stefan Zweig nach Indien」カセットと付属小冊子「Stefan Zweig Indien 1908-1909」および杉山有紀子訳「過去の旅 チェス奇譚」幻戯書房 2021年

(2022年2月18日記)