イラン戦争は国際法違反ではないのか?『法の支配』はどこへ行った?

元国連事務次長 赤阪清隆
米国とイスラエルによる2026年2月28日のイランへの武力攻撃は、国連憲章および国際法違反だったのではないのか?この疑問に、4月4日に米国の著名な国際法専門家ら100名以上が出した声明文は、きわめて明快な答えを出した。「この攻撃は、国連憲章に対する明白な違反であった。戦争の遂行のあり方や、米国政府高官の発言もまた、戦争犯罪の可能性を含む国際人道法違反に関する重大な懸念を引き起こしている」と。
同声明は、①開戦の正当性(jus ad bellum)、②戦闘行為の遂行に関する交戦法規(jus in bello)、③米国高官およびその同盟国による言辞や威嚇(さらなる違法行為を予兆するもの)、④ピート・ヘグセス米国国防長官によるいわゆる「手加減なし(gloves off)」の戦争遂行方針の影響を取り扱っている。
そして、開戦の正当性については、武力行使を禁じた国連憲章の規定に明確に違反しているとして、正当性を否定している。声明文は、「他国に対する武力行使は、現実の、または差し迫った武力攻撃に対する自衛、もしくは国連安保理の承認がある場合にのみ許される。本件について安保理の承認は存在しない。また、自衛権の根拠となるような差し迫った脅威がイランから存在していたことを示す証拠はない」と断言している。同声明文は、国際人道法についても米国とイスラエルの違反(戦争犯罪など)の可能性を指摘している。
さらに、外国政府に対しても、米国、イスラエルおよびイランの国際法違反行為には加担せずに、違反は合法的な手段で終わらせるべきと督励している。ここら辺は、さすが民主主義の国のアメリカの面目躍如という気がする。国際法の専門家だけあって、論旨明快で、結論は明確、提言は簡潔にして要を得ている。
日本でも、日本反核法律家協会や自由法曹団、さらには被団協などの市民団体が、イラン攻撃が国際法違反であるとの声明を出しているが、日本政府は、今回のイランに対する武力攻撃が国際法違反かどうかについては、言及を避けている。
このイラン攻撃が国際法違反かどうかを追求することが、あたかも「国際法至上主義」の陥穽にはまるかのごとくに批判する人がいる。しかし、「国際法違反かどうか」の法律問題と、「そうだとしたらどうするのか」の政治外交問題は別個の問題であり、後者のほうが重要だから前者は軽視しても良いということにはならない。
現実に国連憲章、国際法、人権規約など、世界のほとんどの国が認めている国際的なルールが存在している以上、今回のイラン攻撃のような武力行使とそれに関する様々な行動が、これらのルールに違反したものであるかどうかは、厳格に解釈すべきものである。そうでなければ、そもそもこのようなルールを作った意味がなくなる。
そのうえで、たとえ国際法違反と認めても、必ずしも声高に二国間関係や国際場裏で非難する必要があることを意味しない。特に今回は、相手がイランという非道な国内弾圧や対外的なテロ行為を行ってきた国である。また、攻撃国が日本の同盟国で日本の安全保障の命運のカギを握る米国である。このような場合には、外交的配慮とか、言葉遣いに慎重を期すとか、様々な検討が必要になることは当然である。
すなわち、国際社会に強制的な執行力がない以上、それに対する各国の対応は当該国との関係次第で大きく変わりうる。たとえば、(1)国際法違反と認めはするが、見て見ぬふりをする、(2)国際法違反であっても、国際法を超えた「正義」の概念や「神あるいは天の声」により、違反行為は正当化されると判断する、(3)国際法違反の行為を停止させ、合法的な代替措置によって正当化を図る、(4)国際法違反の事実を声高に批判し、国際世論への訴えや、のちの賠償請求などのための証拠に使う、などが考えられる。
目下のところ、日本政府や西側諸国の多くは、イラン攻撃が国際法違反であったかどうかの判断を公言しない方針を取っている。一部の政治家が、国際法違反であるとの発言をしているぐらいである。違反か違反でないかの判断は解釈によって異なるとする、国連や国際機関でよくみられる、いわゆる「灰色措置」の考えを表向き提案する国も見当たらない。
このケースにとどまらず、最近、安保理決議に基づかないで武力行使が行われ、「国連憲章違反」の疑いを指摘される事案が増加している。たとえば、間近なところでは、2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻、2025年6月の米国によるイラン核施設空爆、 2026年1月の米国によるヴェネズエラ攻撃とマドウロ大統領夫妻の拘束などが挙げられる。これまで、中露北朝鮮による国連憲章や国際法違反行為が目立っていたが、最近ではこれに加えて、トランプ米政権が同様の行為を繰り返すようになったのが際立っている。
このような大国による国連憲章無視の武力行使が今後とも続き、しかもそれに対する国際社会及び国連の無気力な対応が続くようであれば、第二次大戦後営々と築かれてきた国際秩序が崩壊しかねない。その結果、法の支配が守られない、弱肉強食の「ジャングルのルール」が支配するようになってしまう危険性がある。
したがって、明白に国際法違反と目されるような武力行使については、見て見ぬふりをして見逃すのではなく、「灰色措置」としての判断も含めて、何らかの形でその行為の合法化あるいは正当化を図ることを検討するか、あるいは、そのような違反行為が繰り返されないようにタガをはめる必要があろう。
過去には、1999年のコソボ紛争の際のNATOの介入のように、安保理の承認が得られなかったものの、国際法を超える「正義」や「人道」などの概念を持ち出して、正当化を図った例がある。武力行使を正当化するのに苦しんだトニー・ブレア英首相やコフィー・アナン国連事務総長の当時の苦悩話は有名である。
国連は、1990年代のルワンダやスレブレニッツアでの虐殺を見逃したトラウマの中から、コフィー・アナン国連事務総長が奮闘して、2005年に、「保護する責任(R2P)」の国際的な合意を得た。これは、国家が自国市民を保護せずに殺戮の対象とするような場合に、国際社会に人道的な武力介入を認めるものであった。しかし、いかんせん国連憲章の枠組みから脱することはできず、武力介入は安保理の承認を必要としたために、リビア内戦で成功裡に実践された後は、常任理事国の拒否権行使により機能不全に陥ってしまった。
今回のイラン戦争については、米国とイスラエルは、イランからの脅威が差し迫っていたから自衛権を行使したとの説明をしているが、その主張に無理があるのは、上述の国際法学者の説明に明らかだ。他方、国際法違反の疑いが濃いにもかかわらず、日本を含めた西側諸国が声高な批判を控えているのは、トランプ大統領への忖度という政治的な配慮があることに加え、イランがその専制的な国内弾圧政治とデモ隊の殺戮、対外的なテロ行為、さらに核兵器製造疑惑といった国際ルール違反の諸問題を抱えていて、国際社会の不信と非難を招いてきたからでもあろう。
そうだとすれば、国際秩序が重大な人権侵害や安全保障上の危機に十分対応できていないような特別な場合には、国際法を越えた「正義」に基づく武力介入が認められることに、国際的なコンセンサスは得られないものだろうか?何が「正義」なのかについて議論が百出するだろうから、国連でそのようなコンセンサスが容易に認められるとは期待できない。しかし、恣意的な介入の正当化につながる危険性を十分承知のうえで、有志連合のようなグループ間で、あるいは、場合によっては日本独自で、そのような概念づくりを検討してはどうだろうか?
日本は他の西側諸国同様、「法の支配」を守るべき国際的な基本原理と公言はするが、実際上は何かにつけて、ルールの一言一句に従うことを金科玉条のように求める傾向がある。「法の支配」というときの法は、単なる法律の字句ではなく、そもそも法ができた際の価値観や基本的な精神というものを指している。それは、基本的な法の大目的としての「正義」の実現にあるのではなかろうか?
上述の通り、「保護する責任」(R2P)は、国連憲章の枠内での武力介入を認めたに過ぎなかったために、安保理での拒否権行使の壁にぶつかってしまった。この壁を破るのは至難の業ではあるが、そもそもなぜ国連憲章ができるに至ったかに思いいたせば、現存の国連憲章条文を超えて新たな可能性を探る試みは、難しくとも、やってみる価値があると信じる。少なくとも、そのような努力は、国連憲章や国際法を無視した武力行使がこの先も続く可能性に、「タガ」をはめる効果が期待できるのではないだろうか?
(2026年4月22日記)
