アジア開発銀行(ADB)から学ぶこと(続)-中国のADB加盟-


元駐タイ大使 小島誠二

昨年本欄に「アジア開発銀行(ADB)から学ぶこと-ADBの50年にわたる歴史を振り返って-」という一文を寄稿したところ、1988年から90年まで外務省経済協力局長を務められ、仕事を通じて藤岡眞佐夫総裁と信頼関係を築いてこられた松浦晃一郎元UNESCO事務局長から連絡をいただいた。その内容は、藤岡総裁が中国の加盟実現のため中国及び台湾と苦労して続けられた交渉の経緯に触れつつ、ADBに台湾が残留することとなったことの意味及びADBにおいて採用された台湾の呼称(「Taipei, China」)がその後国際政府間組織及び国際民間組織における参照例となったことの重要性について書いてみてはどうかという示唆であった。そこで、早速調べてみると、藤岡総裁が中国及び台湾との交渉について詳細な記録を残しておられることが分かった(末尾引用文献参照)。

1.中国加盟に関するADBの立場

まず、中国加盟に関するADBの立場がどのようなものであったかを振り返ってみたい。
(藤岡総裁の非公式理事会における所感)後述のとおり、ADBと中国との加盟交渉は  1983年に始まったが、ADBの立場は、1984年12月末の非公式理事会における藤岡総裁の所感として次のとおり説明されている(藤岡眞佐夫「国際化40年-日本の進むべき道」)。
● 中国はADB協定に従ってADBに加盟する資格がある。
● 中華民国(台湾)の地位の判定は理事会のADB協定解釈如何による。中国の加盟に際しては、法律的な枠組みの中で可能な限り台湾の意見、感情を尊重する。
● ADB加盟国の大部分は中華人民共和国(PRC)を中国の唯一の合法政府とみており、PRCがADBに入る以上、二つの中国のアピアランス(概観)を回避する。
(ADB法律顧問による法律見解)これに先立ち、1983年5月の第16回年次総会後、中国加盟と台湾の地位に関する法律顧問の意見書が理事会に配布されていた。その要旨は次のとおりである(前掲書)。
● ADB協定上加盟国は国連システム(IMF等を含む)のメンバーであることを要するので、台湾が国連システムのメンバーでなくなった以上加盟要件を失い、加盟の根拠は台湾から中国へ移った。
● IMF、世銀のように代表権問題として処理するのは1966年ADBに加盟したときの台湾の地位が経済的に台湾の地域に基づいているため不適当である。
● 台湾が加盟国として残ることができるかどうかは、上記協定の規定が加盟の際だけに適用されるのか、加盟国として存続するためにも適用されるのか解釈の問題であり、この解釈問題は基本的には政策問題である。
(加盟各国の立場)前述の第16回年次総会の機会に行われた藤岡総裁との個別会談において各国総務のほぼ全員が中国の加盟を支持するとともに、台湾の処遇については多数の国が「中国、台湾双方がうまくゆくような方法はありませんかね」と問いかけてきた(前掲書)。

2.中国との交渉

(呉学謙外相の書簡から鄧小平発言まで)中国のADB加盟の意思は、1983年2月呉学謙外相発藤岡総裁宛ての書簡により伝えられた。中国の申し出は、「中国はADBに入りたい、ただし、その前に台湾の加盟国としての地位は不法かつ無効であるから台湾はADBを出ていなければならない」というものであった(前掲書)。しかしながら、1983年6月、鄧小平国家中央軍事委員会主席が台湾出身の米国籍学者との会談において、台湾は「中国―台湾」という名称ならADBに残ってもよいと発言したことが7月末になって邦字紙に報じられ、この点は9月呂培愈中国人民銀行行長の藤岡総裁に対する発言で確認された。呂行長は、英語の場合は「Taiwan, China」でなければならないとも述べた(前掲書)。
(鄧小平発言から実質合意まで)1983年10月藤岡総裁は、中国側に対して、中国を唯一の合法政権として新規加盟させるときにRepublic of Chinaを「Taiwan, China」とすることにADBは合意するという提案を行った。この会談において、中国側は、台湾がROCと自称した場合ADBはこれを物理的に規制することはできないとの説明に満足できず、ADB協定を改正し、台湾をAssociate Memberにしてはどうかという提案さえ行った。この交渉では結論が出なかったが、1984年7月の中国人民銀行役員他との交渉では、中国側は、上述の藤岡提案を受け入れるとし、原則論を省き、実施細目に立ち入る態度を示し、12月の交渉において、中国側は未解決の諸項目に関し、ADB側の意見を受け入れ、中国との間では懸案のほとんどが解決した(前掲書)。その結果は、1985年11月ADB法律顧問が署名した覚書として取りまとめられた。

3.台湾の説得

(台湾による残留意思の表明)1983年2月、台湾は藤岡総裁に対して、ADBから除外される理由はないし、脱退する意思もないと密かに伝えてきていた。1984年8月、張継正総務(中銀総裁)は、国名について、「Taiwan, China」は飲めないが、{ROC-Taiwan}}ならよい、台湾の旗を中国の旗で置き換えることは認めえないがすべての国の旗を撤去するのならよいと答えた(前掲書)。
(理事会決議における台湾部分の取り扱い)12月張総裁他との交渉において、台湾側は「名称変更はROCとADBの二者間の問題であり、これを理事会決議を以て行うのは反対である。PRCの加盟だけを決議すべきであると主張し譲らなかった」(前掲書)。藤岡総裁より、名称変更について合意ができれば、台湾に関する部分は理事会決議から取り下げてよいと提案したところ、台湾側は協力的になり、「China-Taiwan」なら反対はしないとする蒋経国総統の感触を得ていると述べた(藤岡眞佐夫「アジア開銀総裁日記-マニラへの里帰り」)。この時点において、藤岡総裁は、ROC以外のどういう名称を選択するかはADBと台湾が決めることであると考えており、この旨を中国側に伝達した(藤岡眞佐夫「国際化40年-日本の進むべき道」)。
(台湾の態度硬化)1985年1月のADBと台湾との事務レヴェルの協議において、中国側が示した「Taiwan, China」が最善で、「Taiwan of China」なら受け入れ得るとする中国案に対して、台湾側は態度を硬化させ、事態の進展はなかった。また、1985年4月のバンコク年次総会の機会に開催された非公式理事会において、「Taiwan, China」を基礎とする中国案は採択に至らなかった。
(米国の仲介)藤岡総裁によれば、1985年4月前後から米国は同総裁に対して「目立った協力の手」を差し伸べた。1985年7月、藤岡総裁の下に、米国国務省が中国と台湾の双方と接触した結果、両者とも台湾の呼称変更に多少柔軟な姿勢を示すに至ったので、藤岡総裁の提案として「Taipei China」または「Taipei, China」あるいは他のしかるべき名称で両者との交渉を再開してほしいという米国政府の意向が伝えられた(藤岡眞佐夫「国際化40年-日本の進むべき道」)。中国はこの案を受け入れたが、台湾は最後までこの案に反対した。
(態度硬化の理由)Dick Wilsonは「A Bank for Half the World」において、1984年時点で台湾の財務副部長が柔軟な発言を行ったことは、「Taipei, China」を受け入れ得るとする勢力が台湾に存在したことを示しているが、おそらくワシントンの親台派の助言により態度を硬化させた勢力がこれを拒否することを決定したと書いている。また、同書には、台湾による拒否の理由として、返還後の香港に用いられることになっていた「Hong Kong, China」の呼称が香港に対する中国の主権を示すものであり、この論法は台湾にも適用されると推論し得るという説明を紹介している。

4.ADBによる中国加盟決定と台湾の反応

 1983年から85年まで、藤岡総裁は、中国とはマニラ、北京、東京、ワシントン及びバンコクで約35回の交渉、台湾側とは約20回の交渉(そのうち8回は台北における秘密折衝)を行った。また、藤岡総裁は非公式会合を含め、ADB理事会に交渉の進展を逐次報告し、理事会は終始、同総裁の交渉方針を支持していた。その結果、1986年1月中国加盟案件は理事会で承認され、2月に各国総務の4分の3以上の賛成が得られた。前年12月に配布された理事会文書では、中国が唯一の合法政府であるということには触れられず、「Taipei, China」という呼称及びADBと中国との間の覚書についても言及されなかった(前掲書)。中国の加盟は3月10日に実現し、中国は7.2%の株式を保有することになった。その後も台湾の態度は固く、1986年及び1987年の年次総会には欠席したが、1988年のマニラ年次総会には出席した。

5.台湾のADB残留が実現した要因

 台湾を追放した国連と台湾の残留を認めたADBの違いはどこから生まれたのであろうか。
(中国と台湾の政策の変更)まず、中国と台湾の国際機関に対する政策の変更を挙げなければならない。蒋介石総統は、「漢賊並び立たず」としていたのに対して、蒋経国総統はADBにおける中国の加盟と台湾の残留を認めた。他方、1982年に中国が方針を変更した理由は必ずしも明らかではない。前述のとおり多くのADB加盟国が台湾の残留を求めていたことに鑑み、中国は台湾排除を前提とする加盟が困難であるとの結論に至ったのではなかろうか。他方、改革開放路線を推進するにあたり、すぐに借り入れが可能ではなくともADB加盟が重要であると判断したものと考えられる。
(中国国連加盟への広範な支持)1971年10月、国連総会においては中華人民共和国の代表が国連における唯一の合法的な代表であり、蒋介石の代表を国連とすべての関係組織から追放するという決議案(国連総会決議第2758号)が賛成76、反対35、棄権27及び欠席3で採択された。日米が共同で提案した「二重代表制決議案」は投票に付されなかった。
(既加盟国である台湾排除の困難さ)台湾は既にADB加盟国であり、日米という大口出資国を含めて多くの加盟国が中国の加盟を歓迎するとしつつも、台湾の追放には消極的であった。
(中華人民共和国の建国後に設立されたADB)ADBは1949年のPRC建国以後の1966年に設立されており、現加盟国である台湾はPRCに席を譲ることが想定される「中国」の席を占めていたわけではなかった(Dick Wilson「A Bank for Half the World」)。これに対して、IMF及び世銀(正確にはIBRD)の設立協定は、1944年7月に署名され、1945年12月に発効していた。中国のIMF及び世銀への加盟は1980年に実現するが、中国加盟問題は中国代表権問題として取り扱われた。
(国連から独立した決定の可能性)ADBは、IMF及び世銀のように国連の専門機関ではなく、加盟問題などについて国連の慣行に従う必要がなく、国連総会決議第2758号に拘束されることもなかった。

6.台湾のADB残留が他の国際機関に及ぼす影響

 1993年以降、台湾は様々な形で国連に復帰する活動を行っているが、これまでのところ成功していない。他方、台湾は、1991年アジア太平洋経済協力(APEC)に中国及び香港(中国返還後は「Hong Kong, China」)とともに、「Chinese Taipei」として参加することとなった。この決定に当たり、ADBの台湾残留が呼称を含めて先例として参照されたことは確かである。WTOについては、中国が2001年12月、台湾が2002年1月にそれぞれ加盟が認められた。台湾の呼称は「台湾、澎湖、金門、馬祖」独立関税地域(略称「中華台北、Chinese Taipei」)とされた。ADB、APEC及びWTOの例は、中国と台湾の同時加盟又は中国の後発加盟の例である。台湾にとって、中国が既に加盟国となっている国際機関に加盟することは依然難しいようである。しかしながら、これらの例は、台湾の呼称の工夫で中国と台湾が妥協することができる可能性も示している。

おわりに

 中国のADB加盟の過程において、藤岡総裁は逐次交渉の進展状況を外務省に説明しておられたようである。交渉の最終段階において、同総裁の依頼に応えて藤田公郎経済協力局長は自民党の了承を取り付けることに貢献された。多国間開発銀行をめぐる外務省と大蔵省の意見交換はこれをきっかけに本格化したようであり、筆者を含め外務省職員の多国間開発銀行への出向も実現することとなった。

(引用文献)
藤岡眞佐夫「国際化40年-日本の進むべき道」外国為替貿易研究会1994年
藤岡眞佐夫「アジア開銀総裁日記-マニラへの里帰り」東洋経済新報社1986年
Dick Wilson, “A Bank for Half the World: the Story of the Asian Development Bank 1966-1986”, Asian Development Bank 1987